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幸福は線としてすでにある【エッセイ】

てんでツイてないのだ。
3月から小さな不幸に見舞われまくっている。
まずはバードストライク(鳥さん本当にごめんなさい)、追突事故(当方過失ゼロ)、電化製品の初期不良(交換)、そしてギックリ腰(ただの運動不足)、他にもここには書けないエトセトラ。

何かあるたびに心が折れそうになるのだけど、ほんの少し経てばケロッとしているから不思議だ。瑣末と言えば瑣末、ということなのだろうか。
何か不幸が起こったとき、不幸の総量や重量よりも、自身の生活・人生にもたらす影響の方が重要になってくる。つまり不幸のパースペクティブ(相対評価)だ。

なんなら上に挙げた最近の不幸は、僕の生活に大きな影響を与えるものではなかった。
不幸とは、それに先立つ安寧な生活や幸福のようなものを必要とした評価なのだろう。不幸があるということは、安寧と幸福がある(あった)証左とも言えるのだろう。幸福度とは、幸ポイントと不幸ポイントの演算ではなかった。

定期的に、小さな不幸を浴びることが大事だと思った。というのは、これらに見舞われるたびに「あぁ、こんな風にならなくて良かった」と、最悪の状況を考えるからだ。
つまり自身を取り巻いているはずの安寧と幸福を、真に害する不幸な状態とはどういうものか?について考えるのだ。

もちろん禍福は自分の意思行動にかかわらずやってくる部分が大きいが、その都度認識を新たにしていれば、少なくとも自らが無意識に招いてしまう大きな不幸くらいは回避できるのだろう。

これまでも何度か書いてきたが、僕は普通に生活しているだけでも、理由なく体調が悪くなる人間である。最近では「気候と食べ物」による影響が大きいことがよく分かってきたが、気をつけていてもそういった体調不良は回避できなかったりする。
今回のさまざまな不幸は、理由も過失もない確率の問題だったり、あまりに理由が明らかすぎる(運動不足)ものだったので、僕の意識や行動を大きく修正させるようなものでもなかった(いや、運動しろよ)

落ち込まなかった理由のもうひとつに、今は創作活動が(自分なりに)うまくいっているという点も大きい。自身を納得させる作品を書けている気がするし、想像以上に読んで下さる人もいる(ありがとう)そんな僕にとっては、たとえばアカウント削除の方がより大きな不幸なのかもしれない。もし脳梗塞で失語症になったりしたら、絶望してしまうことだろう。

繰り返し言うが、不幸には先立つ幸福がある。「先立つ」ということは、幸福とは点ではなく線であるはずだ。それはある程度、持続した状態である。作品を書いて良い評価をもらったみたいな点よりも、作品を書き続けられるという線の方がより幸福的なはずである。一度成功しても持続しなければ幸福(の状態)ではない。空を掴むように幸福を求めるのではなく、地道を固めて幸福にしていくことが求められるのだ。幸福を求めるのではなく、幸福に求められている。

不幸のパースペクティブを進めすぎると、自己や他者の疎外や、法や倫理の軽視に繋がりかねないので、この辺で留めておこうと思う。
書き殴った乱文にて失礼しました。


#日記  #エッセイ #創作

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