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小説『あれもこれもそれも』1. ⑤

あれもこれもそれも
 story1. 呪術的な日常 ⑤

 2限の授業開始時刻5分後くらいに講義室に入り、出入り口に近い後方に座る。3年生でとる教養科目なんてこんなもんだ。この講義は毎回、黒板に〈呪術と宗教を切り分ける〉と大きな文字が書かれてから始まる。その文言が、真面目な授業をやっていますよ、というアピールであることは3回目の講義を受けたくらいで気づいた。今日も「呪術は万人に解放されている」とか言って、誰のものかも知れない爪とか、古びた矢尻とかを取り出して誇らしげに掲げている。それらを生徒たちに回して観察させようとしているから、いっそう気色が悪い。
 ふと、先ほどの車椅子の学生のことが脳裏に浮かんだ。車椅子で大学に乗り込んでくる彼は、偏見や盲目や博愛の押し付けなんかにも、すっかり慣れきってしまっているかもしれない。彼が自分の人生の不幸な部分以外に、何かを呪ったりすることがあるのだろうか。たとえば、道を空けない全くの健康体の若者たちを、呪わしげに横目で見ていたりはしないのだろうか。
 大学で健斗に遭遇したこと、車椅子の学生、呪術の講義とやりきれない出来事が重なって、いやに鬱々とした気分になった。こんな日に限って講義はもう終わりで、友人の誰にも会わなかった。アルバイトもない。キャンパス内の中庭をとぼとぼ歩いて、自転車置き場へ通じる道に出る。夏の太陽はたった数時間で頂点に昇りつめ、真下に僕を押しつぶす。蝉たちの声がそれに加勢する。今日は最悪の日だ。
 これがいっときの憂鬱だと知っていながら、気分転換に髪を切りたくなった。馴染みの美容院に電話を入れ、自転車でそのまま向かう。今度は緩やかな坂道を上ったり下ったり、要所要所に立ち上る陽炎の関所を突き破るように駆けていった。

 汗が僕の表面すべてを濡らし切ったころ、国道沿いの美容院へと到着した。アスファルトはもう鉄板のように焼けている。重い透明なガラス戸を開けると、室内の冷気が手から腕にまとわりついて、一瞬で体ごと引き込まれる。汗の温度は瞬時に、冷房の定める温度に近づいて、僕の皮膚がぴきぴきと引き締まっていく音が、聞こえてくるようだった。
 担当の美容師が笑顔で近づいてきて、僕を席へと促す。今日も相変わらずカッコイイな。年の離れた兄のような表情、駄々を捏ねる弟に困り果てた……そんな視線を受けると、全身の産毛が一斉に直立するのを感じた。これはきっと冷房のせいではない。
「汗すごいな〜、先に拭くよ」
 僕の肩にバスタオルがかけられ、顔と頭全体を包まれぐしゃぐしゃにされる。健斗のような無礼は嫌いだけど、こういった無遠慮ならいつでも大歓迎だ。
 僕は……こうして時々小さな浮気をする。髪を触ってもらう時、肩や首を揉んでもらう時、芳彦からでは味わえない緊張と興奮を堪能できる。美容師にとっては業務の一部なわけだし、僕が何かヘンなコトを言わなければ、誰に迷惑をかけるわけでもない。この世界は何一つ変化しない。だからこのくらいの浮気は良いよね?と、鏡の奥から見守る芳彦に向かって、事後承諾を求めていた。

 その晩、芳彦と食事をしている際に「髪切ってかっこかわいくなった」なんて言われ、常に胸に巣食っている小さな罪悪感がほんの少しだけ膨らんだ。きっとこの感情は、色々なことの歯止めになる。

 ある夕暮れ時、駐車場に車を停め、駅前広場を抜けて高架に沿った道を小さな歓楽街まで歩く。足早に歩く。長袖のワイシャツが肌に張り付く感覚と、行く先を遮るOLのペアが、先ほどからずっと煩わしい。僕はわざと大きく手を振り、踵を強く鳴らしてみた。しかしそんなことで袖は張り付くのを止めはしないし、人だって道を空けない。煩わしさは増す一方だ。
 スマートフォンが鳴り、芳彦からメールが届いたことを知らせた。画面には〈ヤマザキパンのアップルパイと飲むヨーグルトよろ〉と書かれている。後半は定型句で、いつものように『よーぐるとよろ』の響きで吹き出しそうになるのをニヤニヤこらえる。すると、心持ち踵の鳴らす音が軽快になる。靴の微かな光沢は、同じ方向に歩く女性の片方と街路樹の間を、ひょいとくぐり抜けて、その途を先へ行った。


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