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アポロンの顔をして 2【連載小説】

2017年に投稿した連載小説『アポロンの顔をして』全15話を再掲・再連載しています。恋という“信仰”の破滅を描いたモノローグ的作品です。

↓過去話はコチラから↓


2


 あの人からメールが届いた。〈今度ライブに行くんだ〉と。あの晩に出てきたスリーピースバンドの話題だった。実はわたしには “いわく” の付いたバンドだった。昔とりわけ仲が良かったわけではない知人に勧められたバンド。棚の中でたった一枚だけ退廃的なそのアルバムは、どこまでも深く青い。そのCDの並びにおいて、青は一枚だけで充分だった。他のアーティストがいくら原色で高揚させ、いくらパステルカラーで彩っても、そのアルバムの悲しみの深淵を埋めることは到底できない。それほどに深く深い青だ。

 その知人の訃報を聞いたのは、最後に言葉を交わしてから数年後、通夜も告別式もとうに過ぎ去った夏休みだった。友人の1人だけが告別式に参列したと聞いて、青のアルバムはその孤独を増していきながら、棚で深い眠りについた。棚と同じものが私の胸の内にも出来上がっていたから、あえて原物を手に取る必要はもうなくなっていた。目を閉じればすぐに聞こえてくる、そして重層して深度を増していく、エレキギターのコードの奥底。知人の笑顔とも取れない何気ない表情が、現れも消えもせず水面にただ揺れ続けた。

 そうだ、あの人は詩歌や音楽の神だ。太陽の神だ。だからこそバンドの名前があの人の口から出た時、わたしは救いを得たような心持ちになった。荘厳なギターは軽やかなリュートに取って変わられ、悲痛なヴォーカルは牧歌の笛の音へと昇華するだろう。暗い深淵にはようやく光が射し、眠りが目覚める。
 そうだ、きっとあの人は浮揚させる。そして水と大気の境界を越えた思い出は、風にさらわれ、跡形もなく影を消していくに違いない。つまりあの人が、音楽に新しい意味を付与し、亡くなった知人の供養をしてくれるのだ、と。わたしにはそんな時間の秩序が見えた。

〈ライブ、すごく良かったです。好きな曲をたくさん演奏してくれて泣きそうになりました〉
 ほら、やっぱり。わたしの思った通りだ。あの人はわたしの悲しみを連れ去ってくれる。まちがいなくアポロンなんだ。こうしてメールの受信を知らせる音は、わたしの胸を弾ませるようになった。頻度がそれほど多くなかったものだから、携帯電話を枕元に置いては手に取り、ときおり電波状況を確認したりもした。そのようにして過ごす時間は急激に伸びていき、誰にでも平等に与えられる1日24時間を軽く越えてしまうような勢いがあった。

 散らかって行く居間も、溜まる洗濯物も、すでに定められ受け容れた秩序の内ではまったく矛盾がなかった。むしろ日常の義務を放置していること、すなわち何もせずにただ愛を求める猫でいることは、神を愛する姿勢においてなんの差し支えがあろうか、などと後から省みると耳を塞ぎたくなるような理論を平然と打ち立てていたのだ。
 それから私は何篇かの詩を書いて、一番巧く書けた詩の余白にオリーブの木の挿絵を入れ、『パトスの樹』と表題をつけた。しかしなぜそれにパトスという言葉を入れたのかは、自分でもよく覚えていない。受肉?……秩序ならロゴスではないのか。今となってはもう分からないことだ。もしかしたらこちらの方がただ語呂が良かっただけなのかもしれない。


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