見出し画像

葬舞師と星の声を聴く楽師 (1〜7話)【創作大賞2023応募】

長編小説『葬舞師そうまいしと星の声を聴く楽師がくしです。
#創作大賞2023 #オールカテゴリ部門 に応募いたします。本作品のジャンルはBL(ファンタジー)小説。全47話、文字数は18万字です。
本記事では、あらすじ、登場人物、第1話〜第7話までを掲載し、末尾に第8話のリンクを貼ります。それ以降はリンクが繋がるように整えてあります。

あらすじ

舞台は中世西アジア風の架空世界。ファーマールという名の帝国、ラウダナという共和制国家とその周辺地域。帝国はスファーディ教という一神教を国教に指定しており、宮殿には儀礼の際に宗教舞踊を披露するお抱えの舞師集団〈ダアル・ファーマール〉がいた。
主人公はダアル・ファーマールの正統な血筋を引く美形舞師アシュディン。しかし姉の謀略により訳もわからず国外に放り出されてしまい、外の世界で新しい生き方を模索していた。
ふと立ち寄った村落にて、身寄りをなくした少年のために葬送の舞を踊ると、そこに偶然居合わせた流浪の楽師ハーヴィドと縁が繋がる。

アシュディンとハーヴィドは互いに興味を惹かれ、旅路を共にするようになる。実はふたりの祖先はそれぞれ、ダアル・ファーマールの伝説的な舞師と楽師であり、過去の因縁が現代まで引き継がれる形での邂逅であった。
物語前半では舞踏団を追放されたアシュディンが自身の新たなる道を切り開いていくまで、ハーヴィドとの切磋琢磨と恋愛模様、狂逸奇抜な人物たちとのドタバタ劇を描く。
そして後半は、過去に予言されていたファーマール帝国に迫る危機、伝統芸能〈ダアル〉に隠された秘密を探りながら、ふたりが出逢った本当の意味が明らかになっていく。

登場人物

アシュディン
宗教舞踊ダアルを生業とする帝国伝統舞踏団ダアル・ファーマールの正統継承者の青年。第12代正統を務めるはずだったが、不当に団を追放されて旅をしている。痩身の美形は「伝説の踊り手の血統を証明するもの」と噂されるほど。心根は真っ直ぐだが、向こう見ずで喧嘩っ早い一面もある。

ハーヴィド
移動民族ロマの流浪の楽師の男。11本の弦を指で掻き鳴らす木製楽器ヴィシラの弾き手。芸道にストイックで、長旅のため頑強な体つきをしている。樹をはじめとして自然をこよなく愛する男。帝国伝統舞踏団ダアル・ファーマールと縁があるも、アシュディンには明かさずに旅を共にするようになる。

ザイン
ファーマール/ラウダナの国境付近の村落で育った少年。母を亡くしたことでラウダナ国に住む叔父の家に預けられることになり、彼を送り届けることがアシュディンとハーヴィドの旅の目的となった。そのふたりを兄のように慕っている。

葬舞師と星の声を聴く楽師


1  舞師の青年

「かわいそうに。もう丸三日も、ああして墓の前に座り込んでるんだ」
 壮年の男の言葉に旅人は眉をひそめた。その墓は村落の外れのうら寂しい荒地にあった。墓といっても、土を盛り、木の枝を立てただけの貧相なもので、枝は真っ直ぐでなく、短く、無様だった。有り合わせのものしか用意できなかったことに男は忸怩じくじたる思いでいた。
 墓の前には幼い男子がひとり、石のように座り込んでいる。彼のためにももう少しまともな墓を拵えてやりたかったのだが、木樵きこりが山から下りてくるのも、行商人が渡ってくるのもしばらく先のことだった。

 この日、彼らの代わりに村落を訪れたのが、奇抜な格好をしたこの旅人だった。白の上衣は砂埃に塗れていても上質と分かるもので、襟や袖口には色鮮やかな刺繍が施されている。貴族の住む街に行ってもほとんどお目にかかれないほどの上等品だ。こんな衣を纏うのは一体どんな丈夫じょうふかと思いきや、まさか成人の儀を迎える頃合いの優男ではないか。
 乾季の日差しをまるで知らない白く柔らかい肌、薄っぺらい躯体から伸びる細い手足には、肉体労働の痕跡がいっさい見当たらない。
 体格が物を言うこの界隈では嘲笑の対象にもなりかねない風貌だったが、彼が村落に足を踏み入れたその瞬間から、すれ違った村人たちの誰しもが圧倒されて息を呑んだ。やや癖のついた栗色の前髪から覗くのは、新緑を染み込ませたかのような瞳。それぞれがそれぞれを高め合う顔のパーツ。旅人の中性的な美は、すぐさま村全体を巻き込んだ宗教体験となった。

 壮年の男はこの村落の運営から些事までの何もかもを取り仕切っている。村役と呼ぼう。彼が不時の旅人をここへ連れてきたのは、義憤と憐憫の情からだった。
「西の国の軍隊だよ。演習とかいう名目で、荒野で新しい兵器を撃ち試しては、うちみたいな周辺村落を恐怖で支配しようとする。あの子の母親は水汲みの帰途で流れ弾を食らっちまった。あの子にはとうてい言えないが、片方の脚しか見つけてやれなかったよ」
 村役は拳を握りしめて声を振るわせた。しかし旅人は彼には一瞥もくれず、墓石のようになっている幼子をじっと見据えていた。
「……まあ俺に任せておいてよ」
 そう告げて歩き出す。華奢な背中の先にある空で、陽が大きく溶けて西の地平に傾いていた。

「なあ、お前」
 旅人は少年の手前で立ち止まり、ぶっきらぼうに声をかけた。少年は拳を腿の上に置いたまま項垂れており、旅人の声にはいっさい反応しなかった。
「お前の母さん、毎日何に祈っていた?」
 やや強い語気が少年の肩を小さく跳ねさせた。しかし口は閉ざされたままだ。
「何に祈っていた?」
 リフレインが思いのほか優しく、少年の脳裏にほんの数日前に祈りを捧げていた母の姿が浮かんだ。
「……スファーダさま」
 少年の口にあいた小さな隙間から、蚊の鳴くような声が漏れた。この一帯でもっとも広く崇められている神の名だった。それを聞き取ると旅人は即座に頬を緩めた。
「なら話は早いな。見てろよ、俺が母さんを救ってやるから」
 彼は上衣の前立てを掴んで、勢いよく脱ぎ捨てた。引き締まった上半身があらわになり、西陽が肌に筋骨の陰影を刻んだ。

 旅人は右脚を軸にして、左の踵で大地を踏み鳴らし始めた。時に垂直に叩きつけるように、時に地表を擦って研磨するように、場にさまざまな音を刻み込んでいく。
 少年は否応なしにその音に引き寄せられていった。不規則な律動が耳から入ってきて脳を揺らす。初めての恍惚体験に耐えきれなくなり、少年はようやく顔を上げて旅人の姿を見やった。
 旅人は踵を鳴らしながら、荒れ地の中央へと移動していった。そして墓標たる粗末な枝を見据えながら腰を落として、ゆっくりと舞いはじめた。赤みがかった土を広げただけの荒地が、一瞬で静謐な舞台と化した。

 急きたてるような脚のリズムから一転して、今度は非常に遅い動きだ。それぞれの脚で弧を描きながら、自らも緩やかに回旋する。地を這う大蛇のような、おどろおどろしい動き。
 多くの舞踊のような華美な手の動きは伴わない。腕は時おり前へと伸ばし出され、水を掻き分けるように後ろへと回された。美的な意義も形而上的な意味も持たない、動きとしての、動きのための、動き。
 その間も回旋は続けられる。不規則に。身を低く屈めたまま、両脚を翼のように広げながら、それぞれの脚が自在に回旋するのを許しながら。ぶかぶかな下衣の中で彼の足腰の筋肉は絶えず緊張し、はちきれんばかりに隆起していた。しかし外からはこう映った。禽鳥に吊り下げられているのか、はたまた目に見えぬ大地の精霊が彼の体を支えているのか。

 リタルダンド──異国の言葉でテンポを次第に落としていく表現技法らしい。動きはさらに、ずっと、遅くなっていき、時間が、永遠にまで、引き延ばされていった。
 そして、終幕。永遠の時間を獲得した舞師は舞台の中央にゆらりと倒れ込んだ。墓に伏拝して寝そべる姿は、舞にまだ続きがあるかのような深い余韻に満ち溢れていた。
 いったい、このうらぶれた墓の前で何が起こったのか。全体を通せば、激しくぶつかり合っていた波が静穏な海へと還るかのような厳かな舞台だった。しかしそんな解題になんの意味があろうか。この舞を観たものはただ圧倒されただけだ。大地が永遠の中でうねるのを、畏怖の念をもって沈黙のうちに凝視させられただけだった。

 少年はいつの間にか立ち上がって見ていた。しかしその面持ちはいまだ晴れないままだ。舞師は体を起こすと、落ちた上衣を拾って少年のそばに歩み寄った。
 少年の顔が、踊りを披露する前よりもほんの微かに前を向いているのが見て取れた。
「ねえ、おかあさんはどこにいったの? もう、あえないのかな?」
 聞こえてきたのは、押し殺すでもない、打ちひしがれて力の所在を忘れてしまった声。
 舞師はおもむろに両腕を掲げ、手の平同士を強くぶつけ合った。響き渡る甲高い音に、少年の全身の筋が反射的に痙攣して、弛緩した。
「手を叩けば音がして消える。土を踏み鳴らせば痛みと感触が生まれて弾ける。その “ひとつひとつ” にお前の母さんはなったんだよ」
 スファーディ教の祖霊供養を詠う一節、死者は神と合一し世界に遍く存するようになる。旅人の言葉は〈お前が生きるかぎり母もまた傍で生きている〉というメッセージだった。
 呆然と立ち尽くす少年、舞師は彼の頭の上に手を置き「分かるか?」と優しく問いかけた。すると突如として、少年の内に荒々しい渦が巻き起こった。理解の及ばないもの、心が受容できないものを飲み込んで、娩出しようとする激しい情動の渦が。
「……わからない。ぼく、ぜんぜんわからないよ!」 3日間ひと粒たりとも流れなかった涙が顔全体を一挙に濡らして、哀哭と共に大地に産み落とされた。
 少年の喚き声は村落のもっとも遠いところまで届いた。彼と彼の母親を知る者たち、すなわち村民全員が、その声のうねりに身を委ね、めいめい追悼の念を新たにした。そして少年の哀しみの烈しい発露に、そこはかとなく安堵したのだった。

 これが或る舞踏集団の血統を継ぐ青年アシュディンが「外の世界」で葬舞ダアルを舞った初めての日となった。見届けたのはいくつかの国境線の交わるところにあるこの村落の民と、そしてもう1人。
 アシュディンが舞っている間に、村役の隣には別の旅人が来ていた。この男も今朝がた村を訪れたばかりだった。長身に屈強な躰を持ち、旅人らしく頭部に布を巻き、肌は黄金色に焼けている。
「お前さん、楽師なんだろ? 楽師ならば、あんな見事なダアルに音を当てたいと思うものだろう。どうだい今からでも──」
「いや」
 村役の誘いをすげなく遮り、長身の男はそれまで見つめていた目をアシュディンから逸らした。そして厳しい顔つきでぼそりと呟いた。
「あんなもの、俺の知るダアルではない」
 舞が終わる頃には、その男は荒れ地の前から姿を消していた。


2 流浪の楽師

 母を亡くした少年が血の繋がりのない大人の手に引かれていくのを、アシュディンは複雑な想いで見送った。少年には元から父親がおらず、しばらく村役の家で預かることとなった。
 丸3日間の断食と同じ姿勢と、喪の哀しみのせいで少年の足取りはひどく覚束ない。転びそうになるたび村役の男に支えられていた。
《本当に大変なのはこれからだろうな》
 アシュディンは少年の背中に自身を重ねていた。彼もまた幼い頃に両親を亡くしていたのだ。不慮の事故だった。村の少年より悲惨だったのは、その悲劇がアシュディンの眼の前で起きたこと。一方で少年より遥かにましだったのは、盛大な葬儀が執り行われたことと、残された子らに大人の庇護が途切れなかったことだ。 

 記憶は色落ちし、擦れ、剥がれ落ち、劣化した素描画のようになる。そのような記憶はもはや何の感慨も与えはしない。しかしこの時はモノクロの絵の中央にひとりの女性が立ち現れ、アシュディンを動揺させた。背景と違いそこだけ鮮明に色づいている。
《姉さん》
 アシュディンは幻影に向かって呼びかけた。栗色の髪が揺れる。女は振り返った先に弟の姿を見つけると、ゆっくりとその深緑の瞳を翳らせていった。
 アシュディンは自ら拵えた幻想に耐えきれなくなり、必死に影を振り払った。
 ──音が聞こえた。
 横から脳を小突かれたような感覚がして、天を仰ぐ。見渡せば夜。世界は濃い紫色の空と黒い大地とに二分され、凪の静けさが闇に溶け込んでいくようだった。聴覚が研ぎ澄まされていく。
 いちど遠くで犬が吠えた。アシュディンは《違う、この音じゃない》と思い、注意深く耳をそばだてる。するとふたたび聞き慣れない音が鼓膜を震わせた。
《いや聞き慣れないというよりむしろ……》
 それは彼にとって馴染みの深い、弦を弾く音だった。ただし、巷にあふれる楽器とは、発音に僅かな違いがあるようだ。弦の素材か、それとも共鳴体の構造によるものか。知らない音は、物憂さの裏に潜んでいた青年の好奇心をくすぐった。

 音は宿舎から漏れ出ていた。舎といっても四隅に立てた木柱に天幕を張った簡易的なものだ。そこは墓のある荒れ地とは反対側の村外れにあり、道すがら、アシュディンは次第に大きく聞こえてくる音に胸を躍らせた。いったいどんな楽器が奏でられているのか、いったい誰がこんな音を爪弾つまびいているのか。
 彼は宿の前まで来ると、垂れ下がった幕の切れ目にそっと手を差し込んだ。外と内の空間が繋がり、テント内の気流が微細に変化する。奏者はそれを素早く察知し、弦を弾く右手の動きをぴたりと止めた。場に深い静けさが漂い、糸をぴんと張ったような耳鳴りが立ち現れた。
 目と目が合った。覗こうとする視線と、覗かれまいとする視線がぶつかる。アシュディンがその先に見取ったのは、むしろの上に胡座あぐらをかいて、撥弦はつげん楽器を斜めに構える男の姿だった。葬舞の間に村役の隣に来ていた男だ。男はゆるやかな肌着一枚に着替えており、剛健な体つきがさらに強調されている。松明の炎に揺れる影まで、周囲をことごとく威圧するような存在感に満ちていた。

 アシュディンは物怖じせず、屋内に足を踏み入れた。
「邪魔をしてすまない。今朝方けさがたここに着いた放浪の楽師がいるって村の人から聞いたけど、あんたのことだよな?」
 友好的に接しておいて悪いことはない。その手の内に控える楽器に触れるためにも、アシュディンはまず持ち主に取り入ろうとした。
「俺はアシュディン。宿はこのテントひとつしかないみたいだから、出立しゅったつまでのあいだ迷惑をかけるかもしれないけど、よろしく」
 明朗快活な声と好意的な態度に、男はテリトリーの防壁を緩めざるを得なかった。渋い顔を浮かべながらも「ハーヴィドだ」と名乗った。濁音が地を這うように響いてきた。
 返事があったことに安堵したアシュディンは、もう少し踏み込めそうに思えて、さらに言葉を継いだ。
「その名前、同じ国の出身だよな」
「……」ハーヴィドは眉ひとつ動かさない。
「だけどそんなリュートは初めて見たよ。異国の楽器か? ちょっと見せてくれよ」
 アシュディンは逸る気持ちに歯止めが効かなくなり、楽器を間近で見ようと近寄っていった。すると楽師は目つきを厳しくして、足元の布で楽器の胴を素早く覆った。
「駄目だ、こいつは古楽器だ」
 と言って警戒心を剥き出しにする。替えが効かないという意味だった。しかしその意に反して〈古楽器〉という響きはむしろアシュディンの浪漫を掻き立ててしまった。
「いいだろ? 気をつけるから」
 手が伸びていく。布からはみ出た長い棹に、その指が触れるやいなや──

 ハーヴィドの手がアシュディンの手首をがっしりと掴み、侵入を拒んだ。並んだ腕の太さは倍以上違う。痛みを与えるような握り方ではなかったが、アシュディンは全身の関節を固定されたかのように身動きが取れなくなった。必死で抵抗するもまったく解けそうにない。
 ハーヴィドはアシュディンの体をぐっと引き寄せ、獲物を威嚇するかのように睨みつけた。色も質も違う両者の髪が、触れそうなほどに近づく。
「おい、アシュディンと言ったか。お前、いったいどれだけの期間、練習してない?」
「は?」戸惑うアシュディン。
ダアルのことだ」
 念押しの言葉でようやく意味を理解すると、アシュディンは抵抗する力をふっと緩め、絞り出すように声を発した。
「……1ヶ月」
「もっとだな。いや、お前はそれ以前からまともな修練を積んでいない」
 ハーヴィドはアシュディンの腕を投げ捨てるように払った。よろめいて横向きになったアシュディンは楽師の顔をまともに見られず、その場でじっと俯いた。しかし楽師の叱責は容赦なく続けられる。
「おおかた天賦の才とその顔で許されてきた口だろう」
「は!? 楽師風情になんでそんなことを言われなきゃならないんだ。俺は──」
「黙れ。芸道を歩む者が吐く芸をおろそかにする理由、そんなもの言い訳以外の何物でもない」
「──っ」
 アシュディンは自身がなぜこうも反論できずにいるのか不思議でならなかった。痛いところを突かれているから……それだけではない。ハーヴィドの発する言葉に秘められた独特な律動と重圧に押され、返す言葉を見失ってしまうのだ。

「あんたの言う通りだ、俺が悪い」
 早々に白旗をあげたアシュディン。舞を踊ったのがひと月ぶりであったことは紛れもない事実だ。しかしそんなことより、《たった一回の舞で見抜くなんて、この楽師いったい何者なんだ?》 興味の矛先はすでに古楽器からハーヴィドの方へと移っていた。その精悍な顔立ちをじっと見据える。貶められた悔しさと好奇心が混ざり合い、なぜだか、妙な期待がふつふつと湧き上がってきた。
 ハーヴィドは向けられる眼差しを受け流し、楽器の棹を布で拭き取り始めた。
「おいっ、ここはあんたも謝るところだろうが。〈すまん言い過ぎた〉とか、そういう流れだったじゃん!」
 アシュディンはおどけてみたが、それも暖簾に腕押しだった。ハーヴィドは沈黙を堅く守りつつ作業を終えると、楽器を包んで寝床の奥へと押し込んだ。そして自らも寝そべる。でかい楽器とでかい図体とが平行に並ぶ。アシュディンはそれらを見下ろしながら、踏み越えてはならない境界線が何本も引かれているように錯覚した。
「俺はもう寝るが、こいつに指一本でも触れようものなら、容赦なくその脚をへし折るからな。二度と踊れないようにな」
 いや、錯覚ではなかった。アシュディンは楽師の突きつける禁忌に魅せられ、興奮のためにその晩まったく眠れなかった。

 ──ハーヴィドもまた寝付けずにいた。瞼の裏に夕刻のアシュディンの舞が浮かんで、彼の眠りを妨げていた。
《この青二才が全面的に悪いとも言い切れない。いったいダアルの伝統はどうなっているんだ?》
 離れて寝そべるふたり。おのおのが心にわだかまりを抱き、行きつ戻りつする時に身を委ねた。テントの外では夜空の星々が正確に夜を進めていった。


3  難航する交渉

「ハッ──」
 まずは右脚一本で体重を支える。膝を曲げて腰を落としていく。右腕は大地から天まで伸ばして垂直に保ったまま、ゆっくりと上体を反らしていく。
 左手でバランスを取りながら、その指や手首や肘の関節を自在に操り、さまざまな自然の表象を形にしていった。蓮の花が開く刹那、川の表面でざわめく光、山の斜面を転がる岩石。その体に表現できないものはないように思われた。
 次第に体幹に捻じりが入り、左脚の動きも加わる。舞は複雑になり、より抽象的な、たとえば思惟や変化や、成長あるいは退化みたいなものを、次々と描いていった。
 一連の動作の目的は、突きつめると単に右脚の鍛錬たんれんへと収束していく。すべての表現を支える脚。大地と人との間にかけられた唯一の橋。ダアルの修練法のほとんどが、大地と脚とを一体化させるために編まれたものだ。
〈お前はそれ以前からまともな修練を積んでいない〉
 昨晩のハーヴィドの言葉がアシュディンの脳にこびり付いて離れない。舞踏団で過ごしてきた長い歳月のなかでも、あそこまでこき下ろされた経験はなかった。しかし思い当たる節が全くないわけでもない。
──アシュディンが王宮を飛び出した前日のこと、老年の舞師らが彼に向けた目には侮蔑するような一抹の翳りが見て取れた──
 もしあの眼差しを言葉に置き換えたら、ハーヴィドが言ったようなものになるのだろうか。

「ヤッ──」
 軸足が入れ替わった。修練はなおも続けられる。左右対称を基本型としないダアルの振りだが、それぞれの脚に求められる機能にさほど違いはない。アシュディンは利き足でない左脚で体を支えながら、先ほどまでとは一風違った表象をひとつひとつ宙に落としていった。このわずかな時間の舞に、彼の脚の剛健さと柔軟性が語り尽くされているようだった。
 ──その日の明け方、村の輪郭が朧げに現れ始めた頃、うつらうつらしていたアシュディンは背後で何か物音がするのを聞いた。その音と気配が遠ざかってから振り返ると、楽師は古楽器とともにテントから姿を消していた。旅の荷は残されており、出立したわけではなさそうだった──
《あの野郎、意地でも俺に触らせないつもりだな!》
 さまざまな苛立ちが募ってきて、アシュディンは奥歯をぐっと噛み締める。するとわずかに重心がずれて《あっ》とバランスを崩し、後ろにひっくり返った。
「クソッ!」アシュディンは仰向いたまま、大地に拳を立てた。集中力の欠如が忌々いまいましかった。視界に転がり込んできた空には雲ひとつなく、あまりに青く十全で、自身のそぞろ心を責められているような気になった。 ふと足音がして、つむじの先へと目を向ける。逆さまになった世界に人影がひとつ現れていた。アシュディンは身を起こして振り返ると、そこには村役が預かった例の少年が立ち尽くしている。
「なんだ、母さんの坊やか。昨夜ゆうべはちゃんと飯食ったか?」
 少年はこくりと頷いてから、ぼそっと「ザインだよ」と呟いた。活気はないが落ち着いたその声色にほっと胸を撫で下ろす。
「ザイン、お前もやってみるか?」
 アシュディンは軽く挑発するような笑みを浮かべ、両腕を左右一直線に広げ「よっ」と言って左脚を持ち上げた。体幹と右脚と両腕とが綺麗な十字架をかたどる。ザインもそれを真似て片足立ちをしてみたが、すぐによろめいて、こてっと倒れてしまった。
「ハハハッ! 俺がここにいる間、一緒に練習するか!」
 村落の真上の空に、曇りない笑い声が響いた。

「最近、よく修練しているようだな」
 ふたりが寝食をともにするようになって4日目の夜。焚き火にかけた鍋からスープをよそいながらハーヴィドが言った。アシュディンは驚いて、つと気恥ずかしそうになって答えた。
「別にあんたに言われたからじゃないさ。自分でもこのままじゃまずいって薄々感じてたんだ」
 アシュディンはハーヴィドが置いた杓子しゃくしを手に取って、かき混ぜたり具を掬ったりを何度か繰り返した。溶けた野菜が鍋の内で豆と共に踊った。
「あんただって、陰でこそこそ練習してるんだろ? 古楽器だろうが別にいいじゃねえか、いい加減そろそろ聴かせてくれよ」
「…………」
 アシュディンがハーヴィドの楽器を見たのは最初の夜のたった一度きりだった。その時に聞こえた音も途切れ途切れで、これまでに聞いたことのない音色という他には何も分からなかった。
「分かった! 楽師とか言っておきながらお前、実は超絶ヘタクソなんだろ?」と、けしかけるアシュディン。しかしハーヴィドは椀のスープを一気に飲み干して「そうかもな」と呟いただけだった。
 ハーヴィドのまともに取り合わない態度にもいよいよ慣れてきていた。それよりも、初めて彼の方から話しかけてきたことに、アシュディンはひそかに悦に入ったのだった。

 6日目の正午過ぎ、行商人らは予定よりも早く村落を訪れた。広場には数名の商人がそれぞれ品物を広げ、ある者は賑やかに客の応対をし、ある者は退屈そうに店先に座っていた。
「えぇ!? 駱駝らくだないの?」アシュディンは驚いて思わず声を上げた。
「ああ、すまんな。あんたより先に来てたあの男に売ったのが最後だ」
 駱駝売りの男が指差した先で、ハーヴィドが別の商人と対面していた。何やら神妙な面持ちで話をしている。
 アシュディンは駱駝売りの方へ振り返って耳打ちをするように言った。
「なあ、こっそり俺に譲ってくれない? うまく誤魔化してさ。あいつ図体デカいから駱駝なんてなくたって大丈夫だって」
「いや〜、そう言われてもねぇ。もうちんも受け取ってますし」
 アシュディンは渋る商人にもどかしさを覚えて、一転しておもねるような態度になった。
「じゃあさ、おじさんの駱駝を譲ってよ。ラウダナ国まで行くのに徒歩でなんて無理だよ〜。ほら、こ〜んなか細い体の旅人を憐れに思うだろ──」
「悪いが、俺は太っているせいで膝が痛いんだ。勘弁してくれ」すでに売り物を捌いていた駱駝売りは、素気なく言って立ち去った。

 目当てのものを手に入れられなかったアシュディンは肩をわなわなと震わせ、大股でハーヴィドへと歩み寄っていった。
「おい、ハーヴィド。お前そんだけ図体デカいんだから、俺に駱駝を譲れよ!」楽師に対する態度はますます遠慮のないものになっていた。 
 ハーヴィドは横目でアシュディンを見下ろすと「商談中だ。戯言ざれごとは聞いてやらないでもないが、今は退いておけ」と言って商人の方へ向き直った。
 商人の背後にはとりどりの木材が積み上げられている。黄白色、赤色、褐色など、色ごとにおおまかに区分けされ、木目の違いやサイズによって幾つかの山が作られていた。
「なぜだ。ラウダナ・マホガニー(*木材の名)を取り扱ってないだなんて。一昨年おととしは確かにこの辺りで買えたはずなのだが」
 ハーヴィドはよく発達した顎の内で口をへの字に曲げた。
「いやぁ、旦那、知らないんですかい? ラウダナ・マホガニーは今やファーマール帝国に買い占められてるんですよ。なんでも、王宮の調度品を一新しているとか」
「とはいえ、ひとつもないというのもおかしな話だろう」と言って詰め寄るハーヴィド。
「いまこの辺のマホガニーのほとんどがラウダナ国の検査と承認を経て、ファーマール国に直に運ばれちまうんですわ。そのルートを通らないと密輸密売になっちまう。俺だって商売できなくなったら困るんで……」
 木材売りはその先まで言わなかったが、両手を挙げてなす術がないことをアピールした。
「……そうか。食い下がってすまなかったな」 肩を落とし、口をわずかに尖らせながら辞去するハーヴィド。アシュディンは普段はなかなか見られないそのさまに《今こそ復讐の時!》と色めき立った。挑発的に前に躍り出て言う。
「なに、お前もなんか買えなかったの? 残念だった──」
「おお、アシュディンさん。やはりここにいらっしゃいましたか!」
 突如、茶化そうとするアシュディンの言葉を遮って、村役の男が割り込んできた。
「折り入ってご相談が。よければハーヴィドさんも一緒に聞いてやってください」


4  優しさよりも刺激を

 頼りなさそうに見える村役の男だったが、アシュディンは彼のことをすっかり見直していた。ハーヴィドと共に部屋で待たされている間、遅れて到着した行商人らがしきりに村役の家を訪れてきた。商売の許可を求める声の合間に、さまざまな会話が交わされた。隣国の政治情勢から有名貴族らの下世話な噂話まで。それらに耳をそばだてていると、アシュディンはまったく退屈しなかった。
 舞踏団で生活していた時に耳にしていた会話とはまるで違った。そこで繰り広げられていた年長者たちの話は、舞の伝統か革新かを問うだけのひどく味気ないものばかりだった。
 アシュディンは行商人らと村役の雑談に、ありふれた世間話に、独特のリズムと色合いを見出していた。世界が律動的にうごめきながら、際限なく広がっていくような夢想をした。刺激的な体験だった。

「招いておきながらお待たせしてすみません。おや、お茶を入れ直しますか」
 村役の男は戻ってくるや否や、ハーヴィドの椀が空になっていることに気付いて言った。対照的にアシュディンの茶にはまったく手がつけられていない。
「いえ、充分いただきました。ところで、相談とは?」ハーヴィドが持ち前の素っ気ない態度で話を促した。
「ああ、それですね。ええ、えーと」
 言い淀む村役の男をいぶかしげに見上げるふたり。相談があると言われたものの、お互いまったく心当たりがなかった。
「ザインのことなんですが、実はあの子を村から出そうかと考えてまして──」村役が言い終える前に、アシュディンはいきり立って、その胸ぐらを掴んだ。
「おい、そりゃねえだろ! 食いぶちを減らすために孤児院にぶち込むってか?」
「あ、い、いえ」喉元に食い込む拳と困惑のせいで、男はうまく言葉を継げない。
「おい、やめておけ。ろくに話も聞けん」
 ハーヴィドの制止にアシュディンは手の力を緩めた。しかしその形相には烈しい怒りを浮かべたままだ。
「あまりに急ぎすぎではないか。母親を亡くしてまだ10日ばかりだろう」
 ハーヴィドが腕組みをしながら言った。その言葉は、アシュディンの感じたものと同類の怒りを、もっとも落ち着いた論理と口調とで述べたものだった。
 アシュディンは気持ちを代弁されたことに呆気に取られ、村役の襟から手を離した。解放された男は何度か咳き込んで、改まって話を再開した。

「あの子、アシュディンさんのダアルを見て即座に心を開きましたでしょう? ただ、おふたりが到着するまでの間、わたし達とて何もしてなかったわけじゃありません。あの子を立ち直らせようと言葉をかけたり、料理を出したり、皆であれこれ手を尽くしたのです。でも結局、村では何もしてやれませんでした」
 村役はハーヴィドの椀に茶を注ぎながら言った。いちど遠慮されながらもそうしたのは、平静を装うためだった。
「そりゃあ、食事や寝床を与えるくらい何てことないですよ。ああいうものは時が解決するってことも重々承知しています。ただなんというか……あの年頃の子には新しいものや良いものや、もちろん中には見るに耐えないような辛いこともあるかもしれませんが、そういった刺激を与えてあげる方が良いんじゃないかと。あなたのダアルを見てそう思ったのです。この村は、あまりに退屈でしょう?」
 言葉の端々に見え隠れする諦念が、村落の平穏とよく似ていた。
「まあ、一理あるな」ハーヴィドは尖った顎先に指を当てて頷く。
 「うーん、たしかに。でもさ、あいつを村から出すことが、俺らにいったいどう関係するんだよ?」アシュディンはいちど振りかざした怒りのやり場に困って、ぶっきらぼうに尋ねた。
「たしかアシュディンさんはラウダナ国に向かう途中だとか。実はあの子の死んだ母親の兄、つまり叔父にあたる人がラウダナの都に住んでいるんですよ。どうか、あの子をそこまで連れて行っては頂けませんか?」

 アシュディンは目を丸くした。
「へ? 孤児院じゃなくて?」
「そ、そんなこと、ひと言も言ってませんよ!」
「なんだよ、紛らわしい言い方するなよ!」アシュディンは大袈裟に上体をひねって天を仰いだ。
「くっくっ、完全にお前の早とちりだったな」
「え!?」
 驚いて振り返ると、ハーヴィドが顔を綻ばせていた。唇の両端が上がり、緩やかな弧を描いている。
「お前、いま笑った?」と言って顔を覗き込むアシュディン。ハーヴィドはおもむろに口元を手で覆い隠した。
 アシュディンは思いがけない収穫にニヤついて見せたが、ふと大事なことを思い出して顔をこわばらせた。
「あっ、そういえば俺、駱駝らくだを買えなかったんだ。あんな幼子を抱えてラウダナまで歩くのはさすがに無理かも」
 アシュディンは頭を抱え、村役とハーヴィドの顔を交互に見た。するとハーヴィドがいつも通りの冷静沈着な面に戻って言った。
「偶然だが、つい先刻、俺の行き先もラウダナに決まったところだ。あの子には俺の駱駝に乗ってもらうことにする」
 まるで決定事項のように言い切ったハーヴィド。アシュディンはしばらく何を言われたか理解できなかった。
「それって3人で旅するってこと?」
「そういうことになるな」
「俺も駱駝らくだに乗ってもいいの?」
「やむを得ないときもあるだろう」
「つまり、やっと俺にあの楽器を触らせる気になった?」
「どうしてそうなる?」
 ハーヴィドは眉根を寄せて突っぱねたが、アシュディンは勝手に顔つきを明るくし、新しい旅に胸を躍らせた。村役の男はそのやり取りを見て、快諾として受け取った。
「では、あの子を送り届けて頂けるんですね?」
「ああ、いいぜ。まあ、あいつ、ザインの気持ち次第だけどな」
「それはもちろんです!」
 意気投合したふたりは少年の明るい未来を想像して色めき立った。特にアシュディンは、人生で初めて〈舞ではない依頼〉を受けたこともあって心の底から喜んでいた。しかしハーヴィドは、ふたりの軽薄な態度をすこし冷ややかな目で眺めた。
「ところで、あまりに無用心というか、たとえば俺たちが人さらいだとか、奴隷売買しているとか、そういった疑いを持たないのか?」と、警告の意を込めて言った。
 しかし村役の男は「へ? あんたみたいな穏やかな楽師が? ご冗談を」などと言って、浮かれた様子を崩さなかった。
「信頼してもらえるのは有難いが、すこしは人を疑った方が良いかもな」釘を刺すハーヴィド。しかしその口元は本人の意に反して、また綻んでいるように見えた。

 まばらな家屋の合間を、乾いた風が吹き抜けていった。出立の朝、荒地の前には村落の住民のほぼ全員が集まっていた。
 少年ザインはふたたび母の墓の前に座り込んでいる。行商人がやってきたことで、墓にふさわしい石と木簡を用意してやれた。ささやかながらも温かみのある、生前の母の心ばえを写生したかのような優しい墓に置き換わっていた。 それを見つめるザインの瞳も以前とは打って変わって、暗い影に支配されない、強い光を宿しているようだった。
「やはり引き離すには早すぎましたかね」
 村役の男は、なかなか墓の前を動かないザインを見て不安げに呟いた。しかし誰もその言葉に応じなかった。ザインはラウダナ国の叔父の元へ行く提案をためらいなく受け入れた。アシュディンらと同行することを告げると、期待に溢れた清々しい表情すらしていた。早すぎることはない、今日があの子にとって新しい人生の最初のページになる。その場にいるほとんどの大人たちが、そう信じたかった。
「やっと、立ったか」ハーヴィドが低い声で言った。
 少年は立っても座っても背丈があまり変わらないように見えた。しかし少し前までは支えられなければ真っ直ぐ歩くこともできなかったザインが、今は二本の足でしっかりと立ち、亡き母と向き合っている。
 また風が大きな笛の音を鳴らして、ゆっくりと凪いでいった刹那──ザインは両手を広げ、片膝を折って脚を持ち上げた。ほどなくして、大地についた方の脚が次第に震えを増していく。
「あいつ、まさか俺の葬舞の真似をして──」アシュディンは必死に片足立ちをするザインの姿に心打たれて、ゆっくりと歩み寄った。しかし到着する寸前でザインは横に倒れ込んでしまう。アシュディンがその腕を掴んで、小さな体を引き上げた。
「お別れじゃないさ。一緒に、行けるか?」
 腰をかがめて問いかけると、ザインは土で汚れた顔を力強く縦に振ってみせた。


5  砂嵐を越えて行け

 空の青が地平線に向かって白みを帯びていく。色はその果てで折り返し、黄土色に変わってこちら側に迫ってきていた。広大無辺の土砂漠。丘や隆起が緩やかな影を落とし、地面には所々にひび割れが見られた。どこまでいっても同じような光景だったが、まばらな灌木によって辛うじて遠近感が保たれていた。
 かねてより隊商らが踏みしめてきた跡が、干上がった小川のように長く伸びている。その人工の道を往く人影がふたつ、駱駝らくだが一頭。

「なあハーヴィド。お前さ、昨夜ゆうべもテントを抜け出してどこか行ってただろ?」
 並んで歩くふたりのうち、背の低い方のアシュディンが咎めるように言った。
「……起きていたのか?」
 まったく興味を示さずに返すハーヴィド。その大きな躯体を包んで、歩くたびに揺れるマントがさまになっている。
「俺とザインをテントに残してさ、ヘビサソリが出たらどうするんだよ」
 アシュディンが駱駝の背に掛けられた麻布あさぬのを持ち上げると、中から少年ザインが顔を出した。ふたりは見合って「なぁ?」「うん」と軽くやり取りを交わす。
「その時はお前がちゃんと駆除するんだろう? やり方は教えたはずだ。それにテントには虫除けの香を焚きしめてある」と、ハーヴィドは相変わらずつれない様子だ。アシュディンは諦めて、少年の頭に日除けの布を被せ直した。
「ったくよー、動物ならまだしも、賊に襲われたりしないか冷や冷やしてたぜ」
「賊とは、むしろ誰かさんのことじゃないのか?」ハーヴィドが目線を落として冗談めかしく言った。ようやくふたりの視線が合ったと思いきや、今度はアシュディンがすっと顔を背けた。
「ははっ、違いない、寝首を狙ってるのは俺の方だ。その楽器とお前の素性には興味ありありなんだよ」と戯けるように言うと、ふたりの間にしばし沈黙が流れた。

「素性か……では逆に聞くが」
 ハーヴィドは顔つきを険しくして、アシュディンのマントの合わせを掴んで持ち上げた。上衣の襟に刺繍されたアラベスク模様が顔を出す。植物をかたどった赤と緑の刺繍、それだけならありふれた柄だが、アラベスクの余白に金色の糸で縫われた図像が特徴的だった。それは月のようにも波のようにも見えた。
「この刺繍、帝国伝統舞踏団ダアル・ファーマールのものだろう。まさか盗品ではあるまいな?」
 アシュディンは慌ててマントを引っ張り、ハーヴィドの手から取り返した。崩れた前合わせを直しつつ「お前、帝国伝統舞踏団ダアル・ファーマールを知ってるのか?」と言って、出自を暴こうとする男に警戒の眼差しを向けた。
 彼の普段の明るさが鳴りをひそめる。しかしハーヴィドは動じず、いつもと同じトーンで「人並程度にな」と答えた。
 アシュディンはその平静な態度に感化され《別に隠すことでもないか》と思い直した。まだ見え隠れしている刺繍にマントの布が被さるよう整えながら、言った。
「俺は、ひと月前までそこにいたんだよ」
 抑揚に乏しい声。俯いた顔に栗色の髪が垂れて、瞳を隠した。それ以上語られることがないと分かると、ハーヴィドは「……帝国伝統舞踏団ダアル・ファーマールの舞師は宮廷の内でその生涯を終えると聞いたが」と自問するように呟いた。
「かぁーっ、お前そんなことまで知ってるのかよ? あんなところ、面倒くさくなって逃げ出しただけだ」
 これ以上は聞くなといった態度。ハーヴィドはそれを穏やかに受け入れた。

 ややあって、辺りの気流が変化するのをハーヴィドは感じ取った。
「──むっ、かがめ」
「え!?」
 彼はアシュディンに指示を出すと、駱駝の背に手を当て身を伏せるよう促した。賢い駱駝は即座に応じ、四つの膝を折り曲げる。
「ザイン、口に布をしっかり当てておくんだ」ハーヴィドの呼びかけにザインは布の下で二度頷く。ハーヴィドの腕が、少年と駱駝の背とを一塊にして抱きかかえた。
「お、おい──」
 狼狽えたアシュディンがそう口にした瞬間、とつぜん轟音が鳴り、猛烈な勢いで風が吹き込んできた。巻き上げられた埃が一行に襲いかかる。
「わぁっ、いて、いてて!」伏せ遅れたアシュディンは砂礫されきの格好の的となった。顔中に痛みが走り、吹き飛ばされそうになるのを堪えながら、ようやく身を屈めたが、突風は一転して皮肉屋の顔になって過ぎ去っていった。
「おいっ、ハーヴィド! 指示するなら詳しく説明してからにしろ!」
「馬鹿か。説明なんぞしている間に、こいつが吹き飛ばされたらどうする」
 ハーヴィドが足元を指差すと、大地に伏せた駱駝の背にザインの不安げな顔が貼りついていた。

 一行は立ち上がり、ふたたび歩き始めた。
「悪かったよ。それにしてもお前、やけに旅慣れてるよな」
「十年になる」
 アシュディンはその長い歳月を聞いて、目の前にいるハーヴィドの若返った姿を想像した。今の自分とザインの間くらいの年頃だろうか。ふと、ある考えが脳裏を過った。
「もしかしてお前、移動民族ロマの楽師か?」
 ハーヴィドは駱駝の手綱を握り、ひたと前を見据えている。アシュディンのように浮き足立つことはなかったが、眼をかすかに翳らせて「まあ、そんなところだ」と答えた。
 アシュディンは《なら、なぜ今はひとりで?》という言葉を飲み込んだ。自身が開示した情報と照らし合わせて、踏み込んでいい領域を推し測ったのだった。

 わずかに窪んだ土地に足を踏み入れていたことには気付いていた。照りつける太陽の下、あちこちに陽炎が立っているのをハーヴィドは見逃さなかった。
「まずいな。この一帯は気流がだいぶ不安定だ」
「え?」
「いったん止まろう」
 ハーヴィドが立ち止まり、続いて駱駝が、アシュディンが足を止めた。足音、荷の揺れる音、衣類の擦れる音、人の作り出す一切の音が止み、その場には風の音だけが響くようになった。笛のような高調な音と、キセルに息を通したような掠れた音とが混ざり合っていた。ハーヴィドはその奥底から迫り来るひずみを察知した。

「──いかんっ!」ハーヴィドは唐突に、ザインの体を布ごと持ち上げ、アシュディンの胸に押し預けた。そのままふたりをマントの内に抱え込み、押しつぶすようにして身を屈めた。
 ──刹那、風が急速に渦を巻いて、辺りの土砂を激しく巻き上げた!
 先ほどの突風よりも鋭く、幾重にも重なった気流の束が駆け抜けていく。アシュディンとザインはマントの中まで轟いてくる音におののいた。砂埃が周囲の視界を奪い、ふたりを庇うハーヴィドまでが暗中に押し込まれたようになった。ハーヴィドは体重をアシュディンに預けて、一行が飛ばされぬよう必死に堪えた。
 砂嵐はどれだけ続いただろうか。少なくともアシュディンに死を予感させるくらいの時間があった。しかし彼は、背に密着するハーヴィドの胸に安心感も得ていた。《同じものをザインにも与えてやらなくては》といった使命感から、自身は少年のことを必死に護った。
 旋風はやがて弱まり、束になって鳴り響いていた轟音が細くほどけていく。舞い上がった砂埃がゆっくりと、後からやってきた微風に流されていった。
 濁った大気が透き通るのを待って、ふたりはハーヴィドのマントから抜け出した。

 アシュディンは何度か深呼吸を繰り返してから「ひー、間一髪だった。ありがとうな!」と礼を述べた。しかしなかなか返事が返ってこない。訝しんで振り返ると、ハーヴィドは立ち尽くして、あらぬ方へと顔を向けていた。アシュディンの場所からは表情が見えない。すると少し間を置いて、
「……お前、髪に香油をつけているのか」と、普段よりも息の多い、柔らかい声が漏れた。
「ん、ああ、帝国伝統舞踏団ダアル・ファーマールのならわしでさ。何かにつけて〈ならわしだ、しきたりだ〉って。でも笑っちゃうよな。あんなに嫌いだったのに、香油これだけはやらないと落ち着かねぇの」
 アシュディンは過去の不平不満をべらべらと述べた。しかしハーヴィドはそれに応じず、マントで顔の下半分を覆い、素気なく通り過ぎていった。
「え、もしかして俺、臭かった?」
 そのとぼけた問いにも返答はなかった。

 ザインがしきりに辺りを見回していた。何が起きたのかよく理解できていないようだった。ハーヴィドは少年をふたたび駱駝の背に乗せ「頑張ったな」と頭を撫でてやった。伏していた駱駝がつと立ち上がり、ハーヴィドの手引きによって歩き始める。
「すこし急ぐぞ」と、普段のハーヴィドらしい、よく響く声が戻ってきた。
「マジかよ〜ゆっくり行こうぜ。俺さすがにちょっと疲れたよ」浮かない顔をして答えるアシュディン。
 しかしハーヴィドは、駱駝の背に揺られるザインと、空の高いところとを交互に見て、急ぐべき理由をほのめかした。
「忘れたか、明日の夜は三日月だろう。日没までに次の中継地点オアシスに」
「……ああ、そうだったな。急ごう」
 三人と一頭の駱駝の前には、変わりばえのしない砂漠がずっと続いていた。


6  プレイ・イン・オアシス

「行くぞ! しっかり息を止めてろよ〜」
 アシュディンの言葉を合図に、ザインは大きく息を吸って口を目一杯膨らませた。つぐんだ唇がとても愛らしい。アシュディンはにやにやしながら少年の脇の下に手を入れると、ふたりは勢いをつけて水中へと潜った。向かい合うふたり。それぞれが立つ場所の水深は違っており、アシュディンの方がだいぶ深くなっていた。彼は意地悪をして、ザインを深い辺りへと運びこむ。宙ぶらりんになった身がさらに沈められた。足がまったくつかない。しかし少年はよく平静を保っていた。自身の口から、よく練られた配分で吐き出される泡を眺めながら、水中に響く音に耳をこらすくらい余裕があった。 いよいよ呼吸も苦しくなってきて、身を捩って脚をばたつかせた。アシュディンは合図を察知すると、ザインの身を持ち上げて水面から顔を出してやった。
「ぷはーっ」濡れた髪が額に張り付いて、その下で屈託なく笑うザイン。アシュディンは少年につられて目を細めた。ふたりは先ほどからずっとこの〈あそび〉を繰り返していた。息を止めていられる時間が伸びていくのが楽しかった。

 アシュディンはザインを浅瀬の方にやって立たせると、あらためて周囲を見渡した。
 もっとも目立つのは左右にそれぞれり上がった丘で、その表面はこれまで散々渡り歩いてきた砂漠と同じ乾いた色をしていた。視線を少し下げると、いま身を浸している湖が、豊かな色と光の反射を湛えて広がっていた。一望のもとに見渡せないほどの大きさがあり、もっとも遠い岸辺に生えている木々がだいぶ小さく見えた。砂漠に点在していたようなしなびた植物は少なく、代わりに、青々と繁る草原くさはらと空に悠々と葉を広げるナツメヤシの木に取り囲まれていた。
 オアシスに到着してすぐさま飛び込んだ湖の中で、ふたりはかなり長い時間を過ごしていた。顔の火照りが収まっても、乾ききっていた肌がふやけ出しても、なかなか陸地に戻る気にならなかった。
 ──ふと遠くの方で声がした。「おい! 奥の方は深くなっているから行くなよ」ハーヴィドだ。 振り返ると木造の小屋がひとつ、ぽつりと佇んでおり、その手前の岸から湖にり出したデッキの上に、その男と駱駝の姿を見つけた。アシュディンはどうせ聞こえないだろうと思い「へいへい、口うるさい奴だな」と声を張らずに悪態をついた。すると、「誰が口うるさいだ!?」と怒った声が返ってきた。びくりとして水中で足を動かした途端、足元の砂が舞って澄んだ水を濁らせた。

 しばらくして、アシュディンはデッキに這い上がり、天日干しされている衣類の傍に寝そべった。手足を広げて大の字になる。昼下がりの強い日差しを全身に受けると、濡れた若い肌が、あたかも光源そのものであるかのように煌めきを放った。
「ふ〜、生き返った〜」とアシュディン。
 呑気な青年を横目に、ハーヴィドは桶をぶんと振って駱駝の胴に水をかけた。達観した隠者のような駱駝の顔が、心なしか綻んだように見えた。
 ふたりが沐浴をしている間に、ハーヴィドはひとり、オアシスの管理人に使用料を支払い、ふたりの脱ぎ捨てた衣類を洗い、駱駝の世話までしていたのだった。アシュディンはそれらの行いにまったく気付いていなかったが、ハーヴィドも恩着せがましく伝えようとはしなかった。
 しかし彼はアシュディンのあまりに無防備な──ほとんどが露出した寝姿を見かねて、「死んでようが生き返ろうが構わないが、沐浴が済んだのならそいつをどうにかしろ」と指を差して注意した。
 青年は恥じらう様子を露ほども見せず、からからに乾いた腰布を手に取り「悪い」とだけ言って、雑にその場所を覆い隠した。

 アシュディンが片膝を立てながら上体を起こすと、浅瀬ではザインがまだ水面と戯れていた。ハーヴィドもまた無邪気に笑う少年をひたと見据えた。
みそぎか」と訊ねると、アシュディンはつと立ち上がって腰布をしっかりと巻き直した。
「おう、当たり前だろ!  三日月の儀だ。喪主と舞師が揃って汗や砂まみれじゃいけないからな」と、今宵とり行われる儀式への想いを息巻いた。
 三日月の儀とは故人を送り出すための葬送儀礼のひとつ。通例では逝去の日から巡って、初めての三日月の晩に行われる。その由来はスファーダ教の聖典にあり、詩句を舞師が体で表現する葬舞そうまいが披露されることになっている。国境付近の村落、つまりザインの故郷でアシュディンが見せたものとは、また違う種類のダアルだ。
「場数を踏んでいるようだな」ハーヴィドは水を汲んだ桶を駱駝が飲みやすい場所に置きながら言った。
 アシュディンは「ああ、久々だけどな。腕が鳴るぜ」と言って、右脚で軽く飛び跳ねながら、踵でデッキを踏み鳴らした。

 ハーヴィドは少しばかりの時間、考え込むような素振りをしてから、腕をゆっくりと前に伸ばし、岸辺の一角を指し示した。
「湖の中心から見ると、日の入りはちょうどあの入り組んだ岸の辺りになるだろう。対岸に足場のしっかりした一帯があった。そこを舞台にする」
「おー、助かるわ。ありがとうな!……」アシュディンは反射的に答えたが、直ちに不可解な点に気がつき「は?」とハーヴィドの顔を二度見した。
 すると彼は突如、からくり人形のような硬い動きでアシュディンの眼下に膝をついた。
「今宵、彷徨さまよえる三日月を天に還すまでお供いたします。不肖の楽師が夜曲を爪弾つまびくことをお許しください」
「は?」
 あまりに突飛な言動にアシュディンの空いた口が塞がらなかった。
「お、お前、なんでそんなダアルの作法に詳しいんだよ? それにその口上こうじょう──」
「勘違いするな、形だけだ」
 アシュディンを遮ったハーヴィドの物言いは、いつも通りの、否、いつも以上に冷淡なものだった。彼は立ち上がると、荷物の山から布に包まれた楽器を取り出して、肩に背負った。 そして振り返りざまに「ザインあのこのためだ。お前も浮き足立つなよ」と言い残して、ひとり管理小屋の方へと去っていった。
 アシュディンは呆気に取られながらも、彼の意図をおおかた理解した。つまり〈ふたりで〉三日月の儀を執り行うということだ。しかしあまりに急な展開に感情がまったく追いついてこない。
《浮き足立つな、なんて無理だろ》

 西の地平で太陽が大陸に口づけを交わしたとき、多くの大地は揃って頬を赤らめ、一部の大地はえくぼのように沈んで影を作った。そして熱の冷めやらぬ空とクールな空のあわいに、月が目を細めて、世界を覗きに現れた。
 その下で時が満ちるのを待つ湖。水面はさまざまな色彩を写し取りながら、独自の光沢も捨てきれずに佇む。しかし夜の色は端から着実に広がっていた。淡い三日月を映す余白が現れるまで、そう時間はかからなそうだった。
 みぎわから少し離れた場所に、ひっそりと腹這いになる平たい岩があった。まるで、いつかひとりの少年が訪れてきて、ここに座し、湖を眺める未来を見越して、長い歳月をかけて風にその背を削り取らせてきたかのようだ。
 運命の悪戯に翻弄された少年は大地の歓迎を受けながら、マントにくるまれ、夜が進むのをじっと待っていた。

 やがてひとりの楽師が姿を現す。旅中もずっと身に纏っていたマントが、ここでは神聖な装束のように見える。
 右手にはくだんの撥弦楽器が携えられていた。人頭よりひと回り大きい胴、そこから突き出した長いさお。全長はザインの身長ほどある。流通しているリュートよりもずっと大型で弦の数も多く、なにより、夕陽に照らされた砂漠のごとく赤茶色に燃える木の胴がひときわ目を引いた。
 ハーヴィドは汀と少年の間に用意されたむしろの上に胡座あぐらをかいて、楽器の胴を太ももに乗せ、棹を斜めに構えた。 いちど右手の親指が弦の上を滑り落ちて、幻想的な和音が奏でられた。深い余韻が凪の湖畔に漂う──それも次第に衰えていき、消えるや否や、また同じ和音が重ねられた。調子を変えず、趣きも変えず、音は淡々と繰り返された。

 準備がすべて整うと、舞師は汀の舞台に上がった。〈いのり〉の時間が、三日月の儀が始まる。


7 三日月に架け橋

 何でもない土地を舞台へと一変させる。この点においてアシュディンは生来、比類なき才を有していた。湖を取り囲む植物の途切れた一隅。適度な湿気で固められた土の平地は、まるで彼のために空間を明け渡しているようだった。左右に生い茂る灌木たちまでが、すっかり彼の舞を見守る側になっていた。
 先ほどからアシュディンは、腰を低く落としながらしきりに身を旋回し、脚で地面に図像を描くような、ゆったりとした舞を見せている。正円、半円、弧、逆回旋。足場を変えて繰り返される線描。しかしその目的は、決してシンボルを完成させることではない。多くの舞踊と同じように、体の動きのみで人を魅することだ。 脚を出す角度に応じて、枝のように体躯がしなる。旋回に連動してあらゆる関節がらせん運動を見せる。朝顔の蔓が際限なく伸びていくような、生命の神秘を感じさせる舞が繰り広げられていた。
 ハーヴィドは俯いたまま、かの異質なリュートを奏で続けていた。旋律はなく、いくつかの和音の組み合わせがひたすらループされる。同じ動きをいっさい繰り返さない舞師と対比され、音が弾き出されるたびに場の静けさが増していくようだ。

誰も彼も新月のごとく十全な生を受け
ことごとく三日月として生涯を終える
生は満月にも半月にもならずに終わる
天の月がいくど満ち欠けを繰り返しても
人の生には永遠も輪廻もない

さまよえる亡者たちよ
王侯も求道者も罪人もみな
湖上に揺らめく三日月の手前で
ただ踊りながらその生涯を終えよ
スファーダの息吹の通う処で舞うなら
かの神がそなたの塵を抱擁するだろう

詩節「三日月たちの舞」スファーディ教聖典より

 魂の平等を説く詩節から舞が生まれ、それが後に葬送儀礼に取り込まれた。詩にある通り、王族だろうが商人だろうが、三日月の儀にはみな同じ葬舞を手向けられることになっている。 しかし、スファーディ教を国教に指定するファーマール帝国はむしろ身分社会を推し進めていた。そのため通夜の際には階級ごとに違う舞が用意されている。(なおアシュディンがザインの母の墓前で舞ったのは、最も位の高い者に送る葬舞であった)
 死後に彷徨える魂があるとしたら、彼らは三日月の儀を経ることによってようやく、出自や所業や禍福といった〈生前のしがらみ〉から解き放たれるのだ。

 同じ足場で回転を繰り返すアシュディン。軸足の機敏な動作が光る。次第に円の径が狭まっていき、重心が持ち上がる。しばらくゆるりとしていた舞に、わずかな速度がもたらされた。 ハーヴィドが最も低い弦の一本を力強く弾く、途端、アシュディンは真上を向いて両手を掲げ、片脚で直立したままぴたりと動きを止める。ハーヴィドはその一瞬のうちに奏法を変えた。神秘的な和声が一本一本の不規則な撥弦によって奏でられていく。
《こいつ、タイミングぴったりじゃねぇか》 
 アシュディンは驚いてほんの一瞬ハーヴィドを見やった。しかし彼はじっとして弦を掻き鳴らすばかりで、こちらを窺っている素振りは見られなかった。
 舞は次の局面へと移った。大地に散々写してきた模様を、今度は宙に描いていく。躯体を弓形ゆみなりに反らせ、軸と反対の脚を三日月の下側の弧に見立てる。アシュディンの背中側にぽっかり空いた空間に、よく調和の取れた円が錯覚された。
 ザインは──ただひとりの観客はそこに亡き母の面影を見た。
 もっとも重要な場面を越えても、ダアルの試練は終わらない。三日月はひとつではない。大往生、不遇の死、生後間もない死、殉死に事故死に病死。あらゆる死が平等と救済を求めて、この儀礼の場に姿を現す。そのひとつひとつに敬意を払い、いのりを捧げていく。
死を忘れることなかれメメント・モリ
 遠い異国の警句とおなじ思想が、この宗教では舞という違う形で残されているのだった。

 あらゆる大きさ、あらゆる高さ、あらゆる向きの三日月を虚空に刻印していく。酷使されるアシュディンの肉体と精神。正確に、滑らかに、そして厳かに。アシュディンは改めてダアルの困難さを痛感させられていた。 終盤に差し掛かると、少し前から感じていた左足裏の違和感が強くなってきていた。
《……テンポ、遅すぎるだろ!》
 足のりそうな徴候を察知した。緩徐な動きに腱がひくひく言っている。いよいよ限界が近づいていた。曲のテンポを上げるよう横目でハーヴィドに訴えかけるが、彼は相変わらず目を合わせようともしない。
 アシュディンは何としても転倒だけは避けたかった。元・帝国伝統舞踏団ダアル・ファーマールとしての矜持が少なからず影響していたが、それよりも、単純にザインとハーヴィドに格好悪いところを見せたくなかった。
《もう……ダメだ……》つま先が滑り落ち、片脚立ちの姿勢が大きく崩れかけた。
 その時、ハーヴィドは狙い澄ましたようなタイミングで弦を力強く弾き上げた! 鋭い音波がアシュディンの耳をつんざく。すると体がふっと宙に浮くような感覚を覚え、左足が勝手に大地を把持した。
《な、なんだ、これ?》アシュディンは体勢を立て直しながら、異様な身体感覚に戸惑った。明らかに自分の意思による動きではなかった。倒れる自分が目に見えていたはずが、倒れずに舞を続けられている。こんなことは初めてだった。
 その後も、要所要所でハーヴィドの弾き出す音色に助けられた。しかし別の見方をすれば、まるで操られているような心地がして、アシュディンは不気味さを感じざるを得なかった。

 葬舞ダアルは間もなく終演を迎える。両腕が三日月を象った姿態を取ったとき、舞師と、水面に映る月と、天の月とが縦一直線に並んだ。死者の彷徨える地上と、イマージュの世界と、神話の世界とに真っ直ぐな橋が架けられた。
〈その “ひとつひとつ” にお前のお母さんはなったんだよ〉ザインは以前アシュディンに言われた言葉を思い返し、舞の中にその意味を直観した。
《おかあさんは、おそらにいる、こころにいる、そばにいる》そんなことを頭の中で反芻していた。
 ややあってアシュディンは舞台に倒れ込んでしまうが、こうして三日月の儀は無事に終わりを迎えたのだった。

 ──管理小屋までの帰途。
「いってぇーっ。おい、あんまり揺らすんじゃねえよ!」アシュディンはハーヴィドの背におぶわれながら、耳元でやかましく抗議した。歩く振動のたびにふくらはぎに痛みが走る。
「うるさい、湖に投げるぞ」ハーヴィドの脅し文句に妙な真実味を感じ取り、アシュディンは怯んで即座に黙った。そして声をやや落として「どうせまた〈修練不足だ〉とか言って馬鹿にするんだろ?」と、声真似を交えながら、拗ねてみせた。
 ハーヴィドはそれに答えなかった。
 ふたりの視線の先にはザインの、暗闇を軽快に歩く姿があった。少なくともあの少年にとっては、今宵の舞は充分なものだったのだろう。 しかし、ふたりの間には妙なわだかまりが残っていた。それを先に指摘したのはやはりアシュディンの方だ。
「お前には聞きたいことが山ほどあるんだ」
「…………」
 沈黙を決め込むハーヴィドだったが、彼もまた、アシュディンに問いただすべきことを胸中に抱えていた。ただそれを、言葉で伝えた方が良いか、それとも音で伝えるべきか、ひとり決めあぐねていた。

── to be continued ──

↓第8話↓

#創作大賞2023 #オールカテゴリ部門
#小説 #BL

ご支援頂いたお気持ちの分、作品に昇華したいと思います!