バッハはいなかったのか 【エッセイ】
昨夜ふと、2ヶ月の赤子と「クラシック鑑賞会」を開こう!と思い立った。何を聞かせるのが良いか?と考えたところ、即座に3曲浮かんできて枠が埋まった。
J.S.バッハ「主よ人の望みの喜びよ」
同上「G線上のアリア」
ジュール・マスネ「タイスの瞑想曲」
どれもコッテコテの育児音楽。ゆらゆらぷかぷかといったオノマトペが似合いそうな、まさに売り文句の通り子宮内を彷彿とさせるような曲ばかり。
クラシック音楽を齧ってきた人間として、このベタな選曲はいかがなものかと思いつつ、音源を流してみるとやはり良い。いや、かなり良い。心なしか、赤子も穏やかに聴き入っているようだった。
記憶に残っている限り、僕のクラシック体験は幼少期に姉のピアノを聞いていたことに始まる。よく覚えているのはベートーヴェンのピアノソナタ第14番(いわゆる月光)で、第3楽章の高速アルペジオを聴きながら「ねーちゃん、すげぇ!!」と内心驚いていた。
家庭内でベートーヴェンを知り、ショパンを知り、そして音楽の授業でモーリス・ラヴェルに出逢い、次第にクラシックにハマっていった。加えて、あるアニメのサントラに出逢い、見よう見まねで作曲を始めた。そのサントラを手がけた作曲家が、のちのインタビューでラヴェルに最も影響を受けたことを語っており、色の伝播の末端にいることに嬉しくなった。
演奏に関しては、縁があってヴァイオリンを習っていたが、大して巧くはならず、姉のピアノの習熟度に比べたら全然だった。
先日金曜ロードショーで『耳をすませば』をやっていた。本当は天沢聖司になるはずだった。しかし聖司にも杉村にも雫にもなれず、僕の青春は終わりを告げた。
その後は各時代各国の作曲家を適当につまみ食いする、中途半端なクラシックファンに落ち着く。
さて、自身の音楽遍歴について思い起こしてきたが、バッハがどこにも見当たらない。もちろん幾つかの作品は演奏してきた。しかしどれもあまり印象に残っていない。
(2つのヴァイオリンのための協奏曲、という曲で先生のスパルタ指導を受けたイヤな記憶だけ蘇る)
クラシック界でよく囁かれる「バッハやモーツァルトに還る」という言葉がある。
情緒豊かで派手なロマン派、多様な表現が音楽をより鮮やかにした印象派、そして哲学性をもって人間心理に迫ってくる現代音楽など、クラシック音楽にも様々あるが、
件の言葉は「めぐりめぐって最終的には古典を好む」といった意味合いで使われる。
元々は僕も抒情的で派手な作品を好むタイプだった。それが高じて、音楽に物語性や神秘主義を求めるような時期もあった。
正直、バッハやモーツァルトなどは「基礎」であり「作品」ではない、と馬鹿にしていた部分もあったかもしれない。畏れ多い。
今更になって、赤子を抱いてバッハに聞き惚れるというのはなかなか感慨深い体験だった。
喩えるなら、こうして書かれている記事に背景があることに気付いた瞬間のような(紙面がなければ字は存在できない)
バッハもきっと、どこかにいたのだろう。
書き殴っただけの雑文です。
#日記 #エッセイ #音楽
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