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アポロンの顔をして 7 【連載小説】

2017年に投稿した連載小説『アポロンの顔をして』全15話を再掲・再連載しています。恋という“信仰”の破滅を描いたモノローグ的作品です。

↓過去話はコチラから↓


7


 しばしベッドに横たわっていたのは、陶酔と疲労、あとから襲ってきた眠気のせいもあったが、本当は森林の香りが染み付いた枕を手放したくなかったからだ。あの人の成分は刻一刻と霧散していくように思われた。またわたしたちがこの部屋を立ち去ったあとには、この枕はきっと無粋な清掃員によって、もっと人間くさい下卑た臭いのする枕といっしょくたにされてしまうのだ。今この瞬間に一番価値があるのだ。そう思うと、あの人がシャワーを浴びているこの短い時間を無駄にする選択はなかった。

 枕を抱いたまま身を起こす。と、ソファテーブルの上にあの人のパスケースがあるのを見た。それなりに知名度のあるブランドのロゴが入ったシンプルなデザインで、鞄と一緒で長く使っている形跡があった。
 しかしなぜ二つ折りなのだろうか? 『私を開けて見て』と言っているようなものだ。ベッドから足を下ろして身を乗り出す。手を伸ばして折り畳まれたそれ開くと、見慣れた交通系ICカードと共通ポイントカードが両窓から顔を出して、わたしにあかんべーをしたようだった。加えて交通カードの記名部分は窓を縁取る革で隠れていた。サラリーマンと言っていたから、社員証なんかがあることを正直期待していたのだ。わたしはケースを畳んで元の場所に戻した。とうぜん寸分の狂いもない位置に。鞄はソファの端に丁寧に寄せられていたが、さすがにそこまではと思い、再びベッドの端に身を横たえた。

「あ……大丈夫?」
 浴室から戻ってきたあの人の声が後ろから飛んできた。首と顎だけで振り返る。バスタオルを腰に巻いた姿のあの人は、ますます絵画の中のアポロンに寄せられていた。『大丈夫?』か。裸で枕を抱き、足を下ろして横になっているわたしは、不自然に映っただろうか。そうだとして、どんな状態だったら変じゃなかっただろうかと考え出すと、正解は見つからなそうだった。
 あの人はソファに向かってきて、鞄を開けペットボトルを取り出した。それをまず自身がひと口飲んで「飲む?」とわたしに差し出してきた。ウィルキンソンの炭酸水だった。手に取るとぬるく、口に含むと炭酸はだいぶ抜けていた。喉を過ぎたときに弾ける刺激は、感じたと思ったら消えたことすら忘れてしまう。枕の香りだって、きっとそこにあるはずなのにずっと鼻を埋めていると感じられなくなる。そうしている間に忘れ去られた気体は、本当に世界のどこかへと飛んでいってしまう。いくら再会を望んでも思い通りに叶うことはない。ずっと時が経ったのちに偶然風が運んでくるのを待つしかなく、それだって思い出の芳しさを一瞬だけ届けてすぐまた消える。わたしが少ない恋愛経験から学んだことだった。
 そう考えると、目前にある肉体がよりいっそう崇高なものに思えた。この世界であの人が肉を受けたことに恐れ入る思いを抱きつつ、何とかして自分の傍に置いておきたいとも思った。彫像なんかの美術品を抱え愛でる蒐集家の気持ちを、少しだけ理解できる気がした。
「お腹へったな。これから飲みに行こうよ」言い出したのはわたしの方だった。あの人は快諾した。

 ビルを出て、高架に沿って駅に戻る方角へと向かった。その道すがら一瞬何かに蹴つまづいて歩みが止まった。しかし足元には何も見当たらない。それはもちろん、この道を逆に歩いていたときに屋上から少女が放った矢だったのだが、彼女のメッセージを受け取るための分別がまだわたしにはなかったのだろう。少し前を歩くあの人の背中が遠ざかっていくのが不安になり、『気のせいだったか』と自得して、足早に距離を縮めた。

 駅を越えてほどなくして、小さな歓楽街にたどり着いた。夕暮れに向かう頃、蛍光灯やネオンはまだその明るさを充分に発揮できず、街は洋燈が揺らめくようなレトロな雰囲気を漂わせていた。人はそんなに多くなかったが、真面目すぎない学生たちが遊びの場を、それほど洒脱でないサラリーマンたちは気晴らしの場を探しているようだった。そこで沖縄料理店の看板を見つけたわたしたちは、狭い階段を地下へともぐっていった。


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