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アポロンの顔をして 4【連載小説】

2017年に投稿した連載小説『アポロンの顔をして』全15話を再掲・再連載しています。恋という“信仰”の破滅を描いたモノローグ的作品です。

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4


 鼻だけでする呼吸は浅い。医学的に実際はそうでもないのかもしれないが、少なくとも効率が悪いのは確かだった。この高鳴る心臓の鼓動に見合う呼吸など、キスをしながらできるはずがない。唇が離れた瞬間、わたしは肺に積もり溜まった不要な空気を吐き出した。できる限りあの人に気づかれぬように。

 それは1回目のキスよりもずっと長く、情熱的なものだったにも関わらず、前ほどの恍惚は感じられなかった。2回目だからという単純な理由ではないだろう。きっとこの日は、口づけの先にもまだ控えているものがあったからだ。もしもキスが到達点ならば、そこにとどまって愛情が注がれるのを飽くことなく享受し続けられる。キスには終わりがないのだ。そうして永遠に乳白色の光に包まれていられればよかったのに。

「緊張するね」
 というあの人の言葉の裏側に、気遣いや嘘を見いだすことはなかった。意外ではあったのだが、こころもち落ち着かない様子は確かにうかがえた。決して手慣れていないわけではない。おそるおそる腰に手を回してくる挙動は、おそらくわたしの反応を予め探っているようなものだった。しかし緊張は伝染病。わたしの動きもあわせてぎこちなくなる。すぐ目の前に広い胸があるのに、うまく身を委ねられない。
『このままでは秩序が崩れてしまう』
 一抹の不安がよぎったのは、ベッドにあがるまでの流れが完璧だったからだろう。流れとは……あの人の手順とかではなく、多分わたしの気持ちのことだ。

 しかし、手間取ったり戸惑ったからといって、気持ちの一切が冷めてしまうほど傲慢ではない。それどころか、信仰心を示さなくてはという使命感が生まれていた。いや、あの人がここまで降りてきてくれているわけだから、信仰心というより信愛と言った方が近いだろうか。これまで付き合った恋人に対して感じていた愛情には遠く及ばないもの。当然、ある女たちの憧れる有名人に対して抱くような熱狂的な情念とも違う。それは秩序と平穏を願うために、自らを差し出し捧げんとする〝祈り〟だ。

「服を、脱いでいいですか?」
 わたしの口からでた言葉はそれだった。そのように言ったのだ。

 あの人はいっさい驚きもせず、ましてや慎みのないことをとやかく言うような素振りも見せなかった。軽く頷いた顎から上に辿っていくと唇は固く結ばれていて、わたしの全てを受け止めようとする真剣な面差しがそこにあった。それを見てわたしは安堵し、横に向き合うあの人の両肩に手を添え、押し込むように軽く力を加えた。するとあの人はわたしの両の手首を優しく掴み、そのまま徐に後ろに倒れて仰向けになった。一方わたしはと言うと、それで服を脱ぐ準備がすっかり整ってしまった。気がつくと、あの人の膝を立てた脚の付け根に収まるようにして上に跨がっていたのだ。あのアポロンの上にだ。

 照明を全て落としていたにもかかわらず、カーテンの隙間から真昼の太陽が漏れ入り、室内はそれなりに明るかった。美しい顔を見下ろして息を呑む。その場所は限りなく静寂に近かったのだが、働くサラリーマンの靴音や子供の笑い声が幻聴のごとく遠くで響いた気がした。しかしそれも一瞬のこと。雲の悪戯か、陽が翳り、突如として部屋の空気が薄く青みがかった。

『このまま深く沈んでいきたい』
 わたしはオフホワイトのセーターをまくり上げて、そのまま脱ぎ去った。自慢にならないほどの白い胸が、あの人の眼前に晒された。その前後において、目に映る造形も色味も大して変わっていなかったように思えた。しかしわたしの中では、内臓をごっそりと取り替えられたような、激しい変化が躍り出ていた。


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