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小説『あれもこれもそれも』1. ⑥

*過去の話はコチラから*

小説『あれもこれもそれも』
 story1. 呪術的な日常 ⑥

 高架に沿った道から脇にそれると、すぐにコンビニエンスストアの電光の真下に着く。それは整然とした駅前通りと、区分けされたことでかえって淫靡な雰囲気を醸し出している新しい歓楽街との境目を、孤独に照らし繋いでいるものであった。コンビニの隣にあるビルの裏手に回り、おしぼりが大量に入ったビニール袋を1つ手にとって階段を上る。2階のフロアに降り立つとすぐに、極めて重いガラス扉が構えている。屈んで鍵を回す。ひんやりとした取っ手に手をかけ、体重を利用して手前に引く。やっぱり重い。店内に入って短い廊下を歩くと、突き当たりに掛けられた赤と黒のモダンアートの絵画が目に入ってくる。うん丁度いいエロさ、と毎回ここで確認をする。そして、その絵画から左へ、深い暗闇へと視線を向ける。壁の電気スイッチを押すと、そこにはブランデーを空間に溶かし出したかのような、店のフロアが広がった。
 おしぼりにかびが生えていないかを確認し、ビールサーバーの準備をする。週に3〜4回のルーティンワークはこの辺りでおよそ終わる。これから先の時間は、似たようでありながらどれをとっても一様ではない、非日常が潜む夜へと変わっていく。

 カウンターにコースターと箸置きを並べ始めたところで、着物姿のママが登場した。それは初めて見る着物だった。上質なそら色の生地、天へと昇っていく銀の蝶たちの刺繍。これは衣類ではない、紛れもなく芸術作品だ。そしてママの深紅の唇は太陽のように、全ての生き物たちを天へと誘っている。ママは意気揚々と竹暖簾をかき分けて、お通しの準備をしにキッチンのある奥の小部屋に入っていった。〝気立てが良い〟という言葉を日常的に使うことはほとんどなかった。しかし彼女と出会ってからはそれが代名詞として機能するようになった。おそらく40代の後半であろうが、これほど快活で情味あふれる女性に出会ったことはない。今日もまた、多くの男たちが活力を取り戻しに、此処にやって来るのだろう。
「そういえば拓人君、この間いらしたお客様があなたのピアノをとても褒めてらしたわよ」
 キッチンからママの声が飛んでくる。開店前にこうして暖簾越しの会話をすることは多い。
「ありがとうございます」
「へたな音大生のアルバイトが来て演奏するよりずっといいって」
 僕はちゃんと聞こえるように大声で「いや、さすがにそれはないですよ」と返した。
 ここでアルバイトを始めた副産物として、僕には営業時間中にピアノを弾く機会が与えられていた。昔、習っていただけで、特に一生懸命練習していたわけではなかった。そんな人間は山ほどいるけど、彼らのほとんどはすぐにクラシックを離れてしまう。僕は一部の作曲家が好きで、レッスンをやめた後も聴き続けていたし、指が忘れないように時々弾いたりもしていた。面接に来た時に、店のアップライトピアノに向けた視線で、ママにはすぐに分かったそうだ。そんなに弾きたがったわけではないと思うんだけど。
「私は拓人君のピアノ好きよ。お店の雰囲気を汲んでくれているわね」
「そう言ってもらえると嬉しいですけ……」
 言い終わらぬうちに一人の客が店に入ってくるのを察知した。反射的に「いらっしゃいませ」と声が出る。彼は……金融関係の会社に勤めている男性で、週に一度は訪れる常連客だった。いつも座る流し台の向かいのカウンター席へと、真っ直ぐに向かってくる。妙に店の内情に精通している人だった。澄んだガラス玉のような二つの瞳が今日の店の空気を値踏みするように光った。
 竹暖簾にちらりと隙間が空き、ママの口紅と赤いマニキュアが覗く。
「あら、こんばんは。いらっしゃい」
「こんばんは、ママ」
「今日は随分お早いのね」
 4つの瞳が僕の目の前で交差している。その生暖かいような……温度のある空間を、憧れるような、訝るような気持ちで眺めた。僕にはあまり馴染みがなくて、印象深い瞬間だった。常連客はママによる歓迎を確認すると、また流れるような所作で椅子に腰をかけた。ママの顔が一旦暖簾の向こう側に隠れる。
「こんばんは」
 僕は磨き途中のワイングラスを置き、おしぼりを渡す。棚からネームタグの掛けられた国産のボトルを取り出して、丸氷を入れたウイスキーグラスに注ぎ始める。
「お疲れさま。最近よくいらしてくれて嬉しいわ」
 今度は暖簾が大きく開いて、ママがフロアにその全貌を現す。
「今日はメグミさん、少し遅い出勤なのよ。お待たせいたしますけど、大丈夫かしら?」
「ああ、大丈夫。拓人と話して待つとするよ」
「まあ。私は蚊帳の外ってことね、いいですよ。拓人君、大人の男性の嗜みをしっかりお勉強させてもらってね」


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