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アポロンの顔をして 1【連載小説】

2017年に投稿した連載小説『アポロンの顔をして』全15話を再掲・再連載します。恋という“信仰”の破滅を描いたモノローグ的作品です。
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1


  5つの路線が乗り入れる駅。都会に立ち入る際に、最低でも通過を必要とする駅。或る中心の駅。その駅近に住む人に恋慕の情を抱いたのは最大の失敗であった。車両に乗れば自然と連れて行かれ、あるいは引き離される。どこで降りてもその駅名がアナウンスやら方面表示やらで煩わしく差し出される。

「もうその駅はないじゃない」

 2つ目の駅を過ぎて地下に潜り込む直前にわたしは短く呟いた。轟音がその声をかき消す。車両が仄暗い空気と激しく擦れ合い、闇への疾走へと転じる一瞬のことだ。放たれた言葉はバラバラに引き裂かれ、闇へと光へと分散して、その意味の全てを解体させる。

 あの人はアポロンの顔をしてわたしを迎えに来た。浅い地下から地上に出る短い階段の途中でわたしを見つけて、そこで優しい微笑みを浮かべ、わたしが上ってくるのを待っていた。当然そのときは月桂樹の冠などかぶってはいなかった。だのになぜだか時を経るごと、それはぼんやりと視界に浮かんで、今では頭上に確かに見えている。小ぶりな血色の良い唇は、その口角を僅か1mm持ち上げただけで、世界の全てを祝福したかのような笑みを湛えるのだった。
 秩序がわたしに与えられ世界に平穏が訪れた。その秩序とは、全ての車両がその駅に乗り込むように、全ての想いや歴史があの人に向かうように体系づける類のものだ。
『中心ができると生きるのはたやすい』
 ただ祈ればいいのだから。頂点に向かうために整然と並べられ、祭祀台のような形になるわたしの生活を、祝福し続けられるよう、祈るだけで生きていけるのだから。

 その晩アポロンに口づけをせがんだ。駅から歩いてほどない公園で。ベンチに肩を並べて座る2人は人の往来に背を向けていたけれど、微かな羞恥心に意味はなかった。春先のまだ肌寒い夕闇の中、その距離が近づいて触れるまでの悠久の時間が刻み込まれた。どこにかと聞かれると困る。顔の皮膚にも瞼の奥にも、脳の中心にも、はたまた心臓の近くにもその時間の感触が残っているからだ。
 唇の先端同士が軽く触れ、油か氷が溶けていくかのように、その触れ合う部分を増やしていった。じっとして、静謐を一切崩すことなく、真白になった脳がサスティーンする。触れていくよりずっと時間をかけて、それはゆっくりと、ゆっくりと……離れていく。離れても消えない感触。向ける顔がなくて俯いたところで、今でもキスが続いているようで瞼が開かない。
 こんな美しい口づけをするものは神以外にはあり得ない。アポロンの顔がアポロンそのものに変わった。思えばこの時すでに、月桂冠がちらつき始めていたのだろう。


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