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アポロンの顔をして 6 【連載小説】

2017年に投稿した連載小説『アポロンの顔をして』全15話を再掲・再連載しています。恋という“信仰”の破滅を描いたモノローグ的作品です。

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6


 からだのありとあらゆるところに口づけの慈雨が注がれた。ときに小鳥のついばみのごとく軽快なリズムで、またあるときはスロージャズのサックスのごとく濃厚なトーンで。あの人は、わたしが次に刺激を求める〝場所〟を先回りしながら、決してわたしが求める〝速度〟を越えることはなかった。ひとつの場所を存分にじっくりと慈しんでから、休みを入れることなく次へ次へと移っていく。愛撫はそのようにしてわたしの欲望を充足させながら、また新しく欲望を産み出した。
 代わる代わる顕現する『欲しい』気持ちの余剰が、次から次へと重層して大きな塊となり、それは内側からわたしを引き裂いて、外側からは押しつぶした。その恐ろしい喜びを解き放ちたくて、手放したくなくて、わたしはあの人にしがみつくことで託し委ねた。そんな中でも、体勢がつらくならないようにするさりげない手引きや、わたしのからだに重みを乗せまいとする気遣いが垣間見えるものだから、愛しさまでもがどんどん積もり積もっていった。

 霞がかった意識の中では、闇雲にまさぐった手の、触れた瞬間の肌の感触だけが現実味をもって訴えかけてきた。手の感触で観るあの人。肩や腰回りに程よくついた筋肉を滑らかな肌が覆う。微かな厚みを感じる柔らかい皮膚には乳白色がもっとも調和した。部屋の暗さと相まってあの人が深海で生を受けた彫像のように感じられ、結局は五感の全てがギリシア神話に至る道筋ができあがってしまっていたようだ。 

 ずっと浅い呼吸を続けていたものだから、いよいよ苦しくなってきた。一瞬の隙を見つけてうつ伏せになり深呼吸をした。それが、背中を差し出して求めているように映ったのか、あの人はうしろから執拗に身を重ねてきた。そのとき、わたしの臀部にあの人の腰が乗り、下半身が密着した。或る存在と重みがそこに在るのをはっきりと認識して、あの人の中心で燃えんとする男性性を強烈に意識させられた。そのことはわたしの性の価値が多少なりとも証明されたことなのだろうが、素直に受け入れられるほど健全な自尊心は持ち合わせていなかった。
 おそらくこのときのわたしは、一瞬怪訝そうな顔をしてみせたことだろう。「野蛮ね」なんて聞こえぬよう呟いたかもしれない。しかし愉悦が……なんとも言えない愉悦がみぞおちから喉元へ、そして眉間のあたりまで込み上げてきて、とうてい隠しきれそうになかった。あの人にではなく、自分自身に対してだ。組み敷かれた体をほんの少しずらすと、あの人の頭部が垂れてその耳元が近づいた。そこでわたしは、これまで自分の口から出したこともない言葉で懇願したのだった。

 背中に感じていた重みがふっと消えた。少しばかり時間をおいて振り返ると、すぐそこには一糸かけぬ姿をして膝で立つあの人。白く輝く肌、均整を生み出す肩、生まれながらに分別を備えた顔立ち、それら総てで織りなされてきたのは理想と秩序だ。その一方、中央には真っ直ぐと屹立する欲望の塊、それは理想と秩序の対極にあるもの。神としてではなく人としての完全が、目の前に突きつけられていた。
 互いの瞳が交叉して、あのアポロンが物欲しげな顔を浮かべたように見えた。一瞬でわたしの中の『愛おしい!』が弾け、破裂し、爆発した。堰を切ったように、手で、口で、指先で、あらゆる機能であの人を愛おしんだ。神を人にしたもの、目の前に聳える『パトスの樹』を、信愛と欲望をもって丹念に愛でた。そして……迎え入れた。わたしの内部へ、奥底へと。それはあまりに膨張し過ぎていて、瞳は涙を浮かべ、心は悲鳴をあげた。五臓も歴史も纏めて大きな爪でえぐり取るような、わたしの総てを粉々に砕いて無に還そうとする暴力性。もはやその苦痛に施す術はなく、喉元と全身の筋肉を硬直させ弛緩させることを繰り返すのがやっとのことだった。

 しかし、魂は違ったのだ。そのとき〈わたし〉は確かに、宙を舞い天に昇った。ラッパを吹く天使が似合うような天界へと、雲間から差し入る光の源へと迫ったのだ。交接による快楽は、欲望の深淵へと堕ちていくものとばかり思っていた。わたしは世界にあるこの上ない法悦の一つを、全く知らずに生きていたのだった。


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