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アポロンの顔をして 3【連載小説】

2017年に投稿した連載小説『アポロンの顔をして』全15話を再掲・再連載しています。恋という“信仰”の破滅を描いたモノローグ的作品です。

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3


 2017年の現代において、こんな年のわたしが貞淑さを示したところで、誰の得にもならない。それを分かりきっていながらも、わたしは強調しなくてはならない。あの人とは一度きりであった。たった一度きりだったのだ……

 高架がずっと続くことでよく知られた路線の、ちょうど真ん中あたりの駅でわたし達は待ち合わせをしていた。先に着いたのはわたしの方だった。大規模な興行場にショッピングモールなどが併設する都市型エンターテイメント地区に直結する駅は、列車の乗り入れがある度にごった返す。3分に1度は人波に押し流されそうになるのを何度か堪えた。ほどなくして、あの人の頭半分ほどが雑踏の中に見え隠れするのをみつけた。たった一度会っただけなのにすぐにあの人だと分かったのは、おそらくはもう月桂冠がぼんやりと見え始めていたからなのだろう。そんな人は、これだけの群衆の中でもただ1人しかいない。

 あの人もわたしに気が付いて、互いに数メートルほど歩み寄って合流した。初めて会った日とは打って変わってカジュアルな装いに身を包んだあの人は、地上に降りるために変装したようで、親しみやすさが滲み出ていた。この数日間で頭の中で思い描いていた像より、実物は遥かに人間らしかった。
 しかしなぜそんなにも嬉しそうな顔をしているのか? まるで今日という日を待ちわびていた子供のようなあどけない表情。眩しさをなまなましく突きつけられ、戸惑いつつ、満更でもない……どころか嬉しさなんて突き抜けて、わたしは明らかに舞い上がったのだ。『なんだか可愛らしいな』
 昼間の陽光がこの小さな区画を照らし、あの人の、より詳細な像を映し出す。わたしは自然と熟視させられた。さまざまな意外なところに気付いて、その度にいろいろな想いが浮かんだ。手の関節は隆々として骨っぽかった。鼻は根元に近いところから猛々しく伸び、顔色は健康的で艶を帯びていた。しわのない衣類、年季の入った皮の剥げた鞄、この人はきっと物を大切にするのだろうと勝手な想像をした。『何一つとっても否定する要素が見当たらない』 それは本来なら不自然極まりないはずだ。しかしあの人の定めた秩序に傾注するあまりに、この時にはまったく気付いていなかったのだ。

 観ているだけで想いが満ち溢れていき、言うべきことをなくした。右手を突然掴まれたと思ったら、あの人は黙って足早に歩き始めた。腕が引かれる方角へ自然にわたしの足も踏み出す。と、はじめは強引に思えた力がすっと緩んで、導かれる感覚がなんとも心地よく感じられた。
 アイドルのライブ参戦を控えた威勢の良い若者たちを尻目に、剪定されていない道端のツツジ、水色の陸橋の階段、路上喫煙者、自販機…… どこでもいいよ。どこでも嬉しいに決まっているよ。それなりの歳月を生きてきたけれど、こんな美しい日は知らない。記憶のどこにもない。だから、あの人とならどこに行ってもきっと美しいんだよ。

 しかしいつしかわたしは、記憶の中のこのシーンに一人の少女を登場させるようになった。少女の姿に扮した、名もない神さまか、それとも天使かもしれない。このとき彼女はオフィスビルの屋上からひょっこり顔を出して、高架とビルの谷間に歩くわたし達を見つけた。そして小さな言葉の矢を放った。
「知ってる? アポロンは当たった人間を即死させる金の矢を持っているの。本当はとてもとても残忍な神なのよ」
 小さな娘が差し出した優しい忠告の矢は、わたしの足元からずっとずーっと後方の道端へ落ちた。固められたアスファルトには刺さる気配もなく、音も立てず、虚しく。そして誰に拾われも気付かれもしなかった。少女は困った顔を1つ浮かべただけですぐに諦め、おそらくはまた別のビルの屋上へ向かって飛んで行った。

 少女が次の場所に辿り着いたであろう時分、私たちは再び口づけを交わした。新雪のあとに似た、ひんやりとしたシーツの上で。


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