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死と愛とソリチュード【エッセイ】

死ぬまでにしたいことリストを作るとしたら「金沢21世紀美術館の再訪」はかなり上位に来ると思う。自分の中の核、本質のような部分が求めてやまない作品がここにある。
恒久展示作品のひとつ《L'Origine du monde》という穴。穴だ。長径7mもあるでっかい穴。
フランス語で「世界の起源」という意味らしい。でもここでは意味などはどうでも良い。
コンクリートの斜面に掘られた窪みに青黒い顔料が塗られているだけだそうだ。にもかかわらず、こちらを飲み込もうと迫ってくるように見えたり、いっさい手の届かない深淵を仄めかしているように見えたり、とにかく不思議な作品なのだ。
初めてこれを目の当たりにしたとき、足がすくんで動けなくなった。何か途轍もないパワーを目の当たりにしているような気がして、たった一歩でも踏み出したり後ずさろうものなら、その力を永久に喪失してしまうか、その力に引き裂かれてしまうような恐ろしさに囚われてしまった。

あの感覚が「宗教体験の一種」だと分かったのはだいぶ後になってからのこと。こう書くと若干いかがわしいもののように聞こえるが、至極単純なもので、「廊下の暗がりから聖堂の明るみに入ったときに感じる厳かさ」とか「三体の巨像と対面したときの威圧感」とか、いわゆる演出された非日常体験だったのだと思う。
本来の「宗教体験」とは、複数形の第三者(つまり教団や僧団)による意図的な非日常の演出であろう。ここでは芸術作品が1人の作者の手によって既存の宗教とは隔たれた思想で制作されているため、「信仰体験」と呼ぶに留めるのが良いかもしれない。

ここで「私はあの作品を前にして真理に目覚めました」とか「あの作品から得たパワーで恋人ができて宝くじが当たりました」とか言いながら「さあ、あなたも!!!」と人に迫ってみたいものである。スピ大好き人間には軽い羨望がある。あの自己中心的で現世利益をひたすら追求できる姿勢は、もって生まれた資質としか言いようがない。他人を揶揄うのはこの辺にしておきます。笑

年の瀬になぜこんなことを思い返したかというと、「死」を意識するきっかけがあったからだ。両親が今年、古希を迎えた。ただ「古希」と言っても昔の「古希」とは意味合いがだいぶ変わり、両親は70過ぎても益々パワフルに生きている。未来は誰にも分からないとはいえ、これくらい「死」を意識するほどのことでもない。むしろ両親とは全く違う生と生き方を与えられた「自分の死」を思ってしまった。
自分は果たして70歳まで生きていられるだろうか?という漠然とした不安。いや70歳までも生きていられないだろうという漠然とした確信。
自ら両親より早く逝くつもりはないが、長く生きるのはそれなりにハードルの高いことであるのは間違いない。少なくとも心身が貧弱な自分にとっては。
かねてより「厭世観」が自分の創作の源泉にあることを告白してきた。それは文学的な霧であり、一方で生理的で病的なおりだ。医者や薬の力が及ぶ範囲は限られており、この世を生きていくのにどうしても宗教学や心理学などの力が必要になってくる。

話は打って変わって、今年は自身が子どもを授かった年でもあった。遅く出来た子は可愛いと言うが正にその通りで、毎日毎日、記憶を消して初見しているような可愛らしさのボディブローを食らっている。
しかし、ここで問題がひとつ出てくる。厭世観を持つ者に子育てなどできるのだろうか。また自身の70年の生に疑惑を持つほど弱い者が、人ひとり育て上げられるだろうか。
これは割と大きな壁で、僕とてこの厭世観を抱えたくて抱えたわけではなく、様々な学問や実践の力を借りて打ち消そうと努力してきた。しかしそれは完全には達成できず、結果的にほどよく日常を制限するところに落ち着いていた。(時折、作品に昇華しながら)

エーリッヒ・フロム『愛するということ』に、聖書の一節「乳と蜜の流れる大地」を引いている箇所がある。愛には「乳:肉体の養育」と「蜜:世界の甘美さの享受」の2種類が必要である、と。
そうだ、世界の美しさを知らなければ生きようとする気も起きないよな、と一度は納得するのだが、僕の生理的な厭世観はなかなかそこに安住することを許してはくれない。生きることは、苦しい。

そして、さらなる疑問。世界を厭いながらも死を選ばずこの世に生きているのは何故か?
この問いが《L'Origine du monde》という穴に繋がってくる。あのパワーはいったい何なのか。善悪も好悪も甘美も厭世もないところに湧き上がる、圧倒的な力の正体は?

最近読んだ、中沢新一・河合俊雄『ジオサイコロジー』によると、岩やその内部としての穴、洞窟といったものは原宗教の聖地の条件となりうるそうだ。岩や穴そのものにパワーがある、つまり巨石信仰。旧石器時代の、まだ富の貯蓄といった概念が誕生していなかった頃に盛んだったといわれる呪術。集団や社会との結びつきはまだ弱かったであろう時代の信仰体系。
そういったところにこそ孤独な人間が生きていくためのパワーが潜んでいるのではないか、などと妄想したりする。
これが集団を作って宗教になってしまうと、厭世の世の一部に組み込まれてしまう。孤独でなくてはダメなのだ。

宗教とは時代時代で様々な形を取るが、本質は「個人の魂の救済」である。そのために、清貧を謳歌したり、利他に励んだり、集団規律を守ったりする。しかし社会が訳がわからぬほどに複雑化し、日常の疲労物質がおびただしく増大した世の中に生きる私たちは、清貧や利他や規律の心を重んじていると、魂の救済を感じる前に、心が潰れてしまう。
だからより素朴に信仰し、救われたいのだ。文明以前の信仰とは、別の形を取って今でも息づいているのだろう。たとえば《L'Origine du monde》のような芸術作品として。ともすれば、ソロキャンは山岳信仰のように思えてくるし、サウナや筋トレは苦行それ自体を目的としているようにも見える。ただいずれにも共通するのは孤独であるということ。ロンリネスではなく、ソリチュード。

もしかしたら創作というものも、創作物を得ることが目的なのではなく、ロンリネスとパワーを求めてしているのかもしれない。
僕は子に乳を与えることはできる。蜜は与えてあげられないかもしれない。しかし原始的な信仰に例を見る、生きる力を得るヒントのようなものなら教えてあげられるかもしれない。


今年最後の、書き殴っただけの雑文です。
皆さま、よい年をお迎えください。

#エッセイ  #宗教 #信仰 #芸術

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