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【往復書簡:7便】 異なる自分へ(ヤグティーヌふたたび)

もう少しだけ、ピアニストのグレン・グールドの話をさせて頂きます。前掲書『グレン・グールドは語る』(ちくま学芸文庫)によると、彼は意図的に自分の分身としてさまざまな人格を演じていたようです(94頁以降)。タクシー運転手をモデルにしたヒッピーのピアニスト、博識豊かなドイツの音楽学者(グールドはカナダ人)、英国指揮界の巨匠、等等。しかも、それぞれに架空の名前までついているそうです。

自分の人格のある部分は、特定の生き方や特定の名前が決める構造の中でこそ効果的に機能するのだと。また、人格の別の部分は、これらの要素を変化させない限り、最良の機能を果たさないかもしれないのです。

彼の言葉です。つまり彼は自身の音楽の幅を広げるために様々な人格を必要とし、架空の人物を作り上げ、物真似し成りきったそうです。

たとえばピアノを弾きながらノリノリで歌うグレン・グールドを前にして、彼を呼び止めることは可能でしょうか。わたしはできない。きっと呼んでも無視される。というか、近寄りがたい。いっちゃってる。止められない。こんな感覚も「畏敬」のひとつなんだと思います。そのとき、彼はもはや「グレン・グールド」ではないのかもしれません。そこにあるのは、音楽そのもの。

永田さんの文章をそのまま引用させて頂きました。グールドは音楽性を最も効率的にそして最高峰に高めるために、グールドの人格を捨てているようですね。永田さんさすがだぁ、と嫉妬1割を含む感動を覚えました。

「僕がビジュアル系だった頃」と綴ったのは、もちろん今もこうして手紙を媒介に永田さんと対面している僕です。その僕は生まれてきて連綿と続いている僕である、、、というのは正しいようで正しくない。
永田さんの手紙の言葉を借りるなら、やはり「自分」を生きているのは飽きちゃうんです。にゃんにゃんしたい。だからビジュアル系になりもすれば、真面目な社会人になったり、それを演じる人になったりもする。なぜか、ヤグティーヌになったり、リンゴになったりもする。

人格が分裂している、とかではなく(まあそうでも良いのですが)、芸術的な体験を得たいときだけに発動する傾向にあります。その人格(時に物格)になっているときは、「矢口れんと(の本名の自分)」の流れはブツッと切れているように思います。だからビジュアル系は過去の自分というより、過去に現れた人格、といった方が適当かもしれません。

最果タヒの詩にある「薄情な感性だ、何度だって、海に感動できる。」という言葉が胸を打つのも、自分が自分に絶えず飽きて、人格・感性を飛ばしたり戻したりを繰り返しているからのように思います。

こうしてnoteでそこそこ長くお付き合いさせて頂いていますが、永田さんの中にも少なくとも2,3の人格を感じ取っています。しかも僕の中では、その複数性が呼称と勝手に紐づいてしまっています。
永田さんは、、、てつろうさんは、、、うげさんは、、、といった具合です。その中にはもしかして、マツコデラックスもプーチンもいるかもしれない(読んだとき吹きました)。きっとインパクトのある人格がいる。少なくとも唐突に「キン○マ」をぶち込んでくるのと同じくらい、面白いあなたがいるはずです。


皆で共有できるような規則性を見つける行為を「収束的な芸術(≒知能)」、そして規則性から脱しようとする行為を「拡散的な芸術(≒創造性)」とし、その〝ゆらぎ〟を芸術性と捉え、脳の芸術性の普遍的法則性を日々探究しています。

大黒達也『芸術的創造は脳のどこから生まれるのか』(光文社)より引用しました。収束と拡散、この対立する語に本質が込められているように思います。論理の外側、制限の外側、そして自分の外側へと「拡散」していこうとするベクトル、これこそが創造なのでしょう。

そしてきっとそのベクトルを得るためには、まず枠の内側に飽きなくてはならない。折口信夫、高橋悠治、そして谷川俊太郎、芸術家たちは皆飽きてきた。飽きては拡散して外の世界へ、そこでいったん収束して、また飽きて拡散して、、、と知能と創造のフィールドの行き来をしていたのではないでしょうか。


ちょっと飽きてきてしまったので、少々脱線します(笑)。実は永田さんと話しているとき、ヤグティーヌが顔を出そうとしてくるのを必死で抑えているんです。

クロード・モネの「日傘をさす女性」。たまには絵を見るのもいいね。これが僕の中でのヤグティーヌのイメージです。まあ設定は正直どうでも良いのですが、こんな別人格が自分の中に生まれてしまいました。永田さんのリリカル、エモさ、そして時にコミカルな人格、そのエネルギーの総体に対抗するには通常の「矢口れんと」ではなかなか歯が立たなかったようです。

作家の平野啓一郎さんが長らく「分人主義」というものを提唱されています。『私とは何か──「個人」から「分人」へ』(講談社)にはこうあります。

他者と共に生きるということは、無理強いされた「ニセモノの自分」を生きる、ということではない。(中略)たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である

先ほどまでは創造を求めて異なる自分が生まれる話をしていましたが、このように対人関係ごとに生まれてくる自分もあるようです。ヤグティーヌはきっと、それらのベクトルの交差する場所に現れました。なかなか興味深い人格ですわ。

でも本当の意味では、永田さんが「ヤグティーヌ」と呼ばない限りは発動しないような気もします。あくまで他者との関係の中で生まれる人格。呼び声がない限りは、ただの1人相撲か妄想かで終わるのでしょう。やはり名前って大事。

そう、アーシュラ・K・ル=グウィン作の『ゲド戦記』で、まじない師の叔母からタカの真の名を教わるんです。その真の名で呼ばない限り、タカは空から降りてはこない。映画『千と千尋の神隠し』でも名前は大きな意味を持ちますね。名前の神秘性、チュルイム族の叙事詩と一緒です。

それでは、そろそろ筆を置いて、モンマルトルの丘が見えるカフェテラスで、主人の帰りを待つことにします。……あ、今は外出禁止でしたわね。まったくあの人ったらどこをほっつき歩いているのかしら。

そうね、お部屋でYouTubeでも見ることにしましょうか。最近見つけたの、日本人で本についてお話ししている方がいるのよ。声がメロウで、指がとってもキレイなの。URL貼っておくわね。

ではまた

2020年4月13日 矢口れんと(ヤグティーヌ)拝

ご支援頂いたお気持ちの分、作品に昇華したいと思います!