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アポロンの顔をして 10【連載小説】

2017年に投稿した連載小説『アポロンの顔をして』全15話を再掲・再連載しています。恋という“信仰”の破滅を描いたモノローグ的作品です。

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10


 幸福によって体重を減らす経験をした人間はどれほどいるだろうか。通勤路や音楽や妄想や、新しい習慣に身を委ねるわたしは次第に食欲をなくしていった。なくなったというより、食べなくても満足していたと言った方が正しい。人が渇望する総量というのは予め決められているものなのだろう。食欲、睡眠欲、愛欲、承認欲求、さまざまあるが、そのすべては礼拝であの人と繋がる感覚によって満たされていた。
 しかし2週間で体重が3キロ落ちたときには、さすがに少し食べなくてはと思った。軽めのパンやヨーグルトのような流動物でさえ胃を刺激し、みぞおちから突き上げるような膨満感に苦しまされた。フルーツやゼリー、ジュースなんかは比較的問題なく食すことができたから、それに甘んじることにした。体調がすぐれなくても、病院に行くという選択は露ほども浮かばなかった。便利な世の中で、症状と状況から検索するだけでそれが『恋の病』であることを知ったからだ。
 幸福の果実が大きいほどに、大地に落ちるのは早く、腐りゆく実の内部には数多の不幸の種子を内包する。不幸の種子たちが発芽する頃にはだいぶ深くまで根を張っている。しかしわたしたちは心の表面を覆いつくす新芽たちを見て、普通こう思うのだ。幸福の果実の中にあった種子なのだから幸福の芽に違いない、と。
 相変わらずあの人からのメッセージは疎らで、そのことも食欲をなくす要因の一つであった。わたしの『会いたい』の芽はとりわけ急速に成長した。しかしあの人から『会いたい』のないメッセージが届くたび、伸びた茎や葉っぱが窮屈な場所でぐにゃりと曲げられ、いびつに変形していった。
 いちど頭の中で我が身を、ラマダーン月のムスリムに置き換えてみた。今は断食という修行なのだと。しかし彼らは信仰心からだけでなく、信者同士の結束を確かめ合うことで辛い断食に身を投じることができるのだ。わたしの孤独は誰と共有されることなくただ積もるばかりだ。加えて、宗教儀礼のように明確な終わりが提示されているわけでもなかった。

 携帯電話と対峙している時間が長くなると、人間の本能的な部分が磨耗していくような感覚がある。スクリーンとの間わずか数十センチほどの世界で生きていた。本来なら画面の先は、沖縄へ東南アジアへ、北極点や瞬く金星の大地より遙か先へと、また過去の偉人たちの思想哲学の深淵や、地域と歴史が織りなしてきた幽玄な文化にまで繋がっているはずだ。しかしその世界の広がりは、あの人の沈黙によって塞き止めてられていたのだ。
 不健康と孤独に苛まれたわたしは時々ネットストーキングまがいの行為に走った。『まがい』と言ったのは、インターネットの世界に張り巡らされたごく一般的な防御網さえ突破する能力がなかっただけのことで、今思うとその行為に駆り立てた執念は立派な犯罪者のものだったと思う。わたしがしたのはただ単純な行為で、メッセージアプリのあの人のIDを検索ワードに入れてクリックしただけだ。微かな期待しかしていなかったものだから、あの人の名前と顔が画面に現れたことに驚き、携帯電話を落としそうになった。それは流行のSNSのトップ画像で、容量が小さいものが引き延ばされて粗くなっていた。その先は、友達申請をしないと見られない。炭酸飲料のボトルを片手に爽やかな笑顔を向けられて、次は罪悪感にも苛まれるようになった。
 着々と病的な狂気へ向かっているわたしの足を掴んで、現実に繋ぎ止めていたもの。それは皮肉なことに、20年続く女性グループの最近の曲だった。あの人が良いと言っていたものだ。ある曲の再生回数は2週間で100回を越えていた。縦横無尽に駆けめぐるエレクトロニック・サウンドをバックに、彼女たちは力強く真っ直ぐ歌いきる。一途に、健気に、そして『愛してる』……『愛してる』……

〈ブー・ブー〉
 憔悴しきっていたわたしの体は、枕元にある携帯電話のバイブレーションに過敏に反応した。しかし腕が異様に重くて手に取る速度はだいぶ遅い。
〈予定が空けられそうです。良かったら会えませんか?〉
 そのメッセージを映す画面の奥に、きりで開けたような小さな穴を見た。塞き止められていた世界との交通だ。風穴から流れてくるのは酸素に違いなかった。そして、牧神の笛の音が聞こえる。
『ああ、ようやく月が明ける』
 アポロンへの信仰を示すために苦しみ抜いた期間は3週間ほどであった。ラマダーン月より1週間短かったが、体重は5キロも落ちていた。
 しかしその『会いたい』のメッセージひとつだけで、頬が痩けて目の窪んだ苦行者はようやっと法悦の域に入ることができるのだ。そのときのわたしは、聖母の気品を湛えた面差しをしているのではないか、などという不可解な自意識を抱いた。その意識は勘違い甚だしいものだったが、いったい誰があの喜びに水を刺せただろうか。
『ようやく、ようやく、太陽を拝む日が来るんだ』
 普段はあの人のペースに合わせて一呼吸置いてから返信をしていたのに、このときばかりはパンを得た物乞いのように、なりふりかまわずその恩寵に縋った。


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