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アポロンの顔をして 9【連載小説】

2017年に投稿した連載小説『アポロンの顔をして』全15話を再掲・再連載しています。恋という“信仰”の破滅を描いたモノローグ的作品です。

↓過去話はコチラから↓


9


 私が乗り換えで使う駅、あの人の自宅の最寄り駅。その南口改札を出てエスカレーターでふたつの階を降りると、さらにその先に地下鉄へと降りていく階段が2カ所ある。そのうちのひとつが、初めてあの人と待ち合わせた場所だった。あの時の想いを、衝撃を反芻したくて、沖縄料理店を出て別れた次の朝よりずっと、南口から出入りするようになった。じつを言うと北口には百貨店がふたつあって、可愛い小物や小腹を満たすお菓子や、歩き方によっては日用品や服だってひと通り目にすることができた。その習慣を捨てたのだった。

 スーツに身を包んだ会社帰りのあの人、それは実に精悍な姿で、しかしまだ一度しか見れていなかった。いったい『2割増し』など誰が言い始めたのだろうか。それどころではない『何十倍』もだった。アポロンの姿を重ねることに比べたらずっと現実的なスーツという衣類の魔力は、あの人を思い返すためのきっかけのようになっていた。つまり……駅を歩けばスーツ姿の男に当たる。その確率は100パーセントだ。あの人のような平均よりやや高めの身長の男性に当たる確率も100パーセント。ネイビーのスーツの確率はもう少し値が低かったが、そこはいくらでも代用が利いた。階段や地下道で目の前を過ぎる男性たちが、あの人を夢想するために役立ったのだ。そうして一旦引き金が引かれると、わたしの妄想は目まぐるしく展開して止まない。太古から脈々と語り継がれてきた神話の一節が始まりもしたし、ただ現実を直接的に忠実になぞって体を重ねたあの一室へ繋がりもした。またあの日のわたしの身体感覚だけを呼び起こして、人波の中でうずき赤面することも、正直何度かあった。笑ったり、遠い目をしたり、手を引いたり、背中を見せたり。幻想の中であの人は忙しかっただろうが、その頭上ではいつも月桂冠が優雅に風にそよいでいるような気がしていた。

 移動のときにはイヤフォンをして、沖縄料理店で話したスリーピースバンドと女性グループの曲を聴いた。あの日を境に、聞いていなかった曲を聴くようになった。しかし正直、バンドの『あっけらかんとした』時代の曲の良さは分からなかった。知人が教えてくれた深みのある楽曲の方が、よほどわたしの心に根を張っていたのだろう。一方で、2007年以降の女性グループの曲には思っていた以上に良いものを感じた。もっと以前は、失恋に苦しみながら強がる女性の気持ちを不安定に歌い上げていた。しかしあの人が好きだと言った世代の曲中で歌われる女性は、健気で強気で、おてんばな可愛らしさがあった。わたし自身の容姿や歴史とは全く似つかわしくないのに、聴く度に引き込まれ感化されるような音楽の力が曲中にあったのだ。ああインストールってこういうことを言うんだな、といつかの乗り換えの時に思った。
 どれもこれも、あの人と繋がるためのもの。日常の礼拝のようなものだ。

 新しい習慣を始めて幾日か経ったある夜、そのときも階段を上り南口へと向かった。何もない、通り過ぎるだけだったはずの改札手前のフロアの隅に、ふと小さな人だかりを見つけて立ち止まった。20歳前後の男が10人ほど地べたに座っていて『あれ、この子たちいつも居たかな?』と思うほどには目立っていた。みなストリート系のファッションに身を包んでいたがその色合いは地味で、白やグレーのシャツやスウェットパンツが、ともすれば床と一体化しそうだった。彼らは楽しそうに談笑するだけで、他には何もしていない。強いて言うなら、その集団の一人のスマートフォンからクラブミュージックのような軽快なビートを刻む曲が流れていて、何人かはそれに合わせて体を揺らしているようだった。その横を会社帰りのサラリーマンやOL達の群れが周期的に通り過ぎる。多くの人間は彼らを意にも介さず、いくらかは振り返る程度、立ち止まる者はわたし以外に誰もいなかった。なぜ興味を惹かれたのか、そのときは理解できていなかった。

〈ブー・ブー〉
 鞄の中で携帯電話が鳴り、我に返る。我に返り、また夢想に入る。あの人からのメッセージを知らせる通知だ。若い集団を後目に、改札を通ってホームへと向かう。『電車の中で開いて、にやけたりしたら最悪だ』なんて思いながらホームに着いた頃にはもう全文読み終えていた。要約すると〈お元気ですか? 僕は元気です〉になるような、全くもってたわいないメッセージだった。恋心とは恐ろしいものだ。こんな小学生の作文のようなものでさえ、差出人の名前ひとつで神の啓示へと変えてしまうのだから。


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