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25. 軍神敗北【花の矢をくれたひと/連載小説】

不定期連載の『花の矢をくれたひと』
インド神話をベースにした小説です。
↓過去話の振り返りはコチラより↓

【登場人物】

アビルーパ(愛神カーマ、悪魔マーラ)
魔神シヴァを射る宿命を背負った愛神カーマの化身の1つ。ウッジャイニーに住む司祭の子息。

ヴァサンタ
春の神ヴァサンタの化身。アビルーパに恋心を抱いていたが、諦めて真の意味で親友となった。

ダルドゥラカ
パータリプトラ出身の商人家系の子息。諜報活動員として働く肉体派の青年。

カーリダーサ
グプタ王朝の元宮廷詩人で劇作家。霊力を込めた詩文でたびたび時間ループの事件を起こした。

ラティセーナー
愛神カーマの妃、ラティの化身。パータリプトラの遊女館でアビルーパが訪れるのを待っていた。

【前話までのあらすじ】

シヴァを射るための3本の矢を捜しているアビルーパ、それに協力するヴァサンタとダルドゥラカ。
3人は首都パータリプトラで2本目の矢を得た。また詩人カーリダーサの罠、時間ループを抜けて、花街で前世の妻ラティと再会する。そんな最中、パータリプトラの街の所々で原因不明の暴動が多発した。3人はラティを助けるために遊女館へと向かい、暴徒らとの攻防を繰り広げた。

25. 軍神敗北


 ヒマーラヤ山脈の峰のひとつ、ガウリー・シカラという山の頂で、長い間ひとりの女性が苦行に身を委ねていた。ある日、彼女の元をひとりの苦行者の男が訪れた。
「あんた、こんなところでいったい何をしてるんだ」
「……恩寵を待っているのです」
「悪いことは言わない、早く逃げたほうがいい。インドラがついに負けた。恩寵なんて来やしないさ」
「いいえ、必ず来ますわ。あそこから」
 女は力強く言って、ヒマーラヤの別の頂を指差した。周囲より突出して聳え立つその峰は、中腹まで分厚い笠雲で覆われていた。
「なんだお前さん、あんな奴の信徒なのか。一体どこがいいんだか。神々が戦争に負けそうだって時に無視シカトを決め込んでやがる、あの昼行灯ひるあんどんが……」
「……今、なんと仰いました?」
 楚々とした女の顔が、みるみると忿怒のぎょうに変わっていく。顔色は青みがかり、口の両端から牙が剥き出しになった。
「侮辱は許しません。これ以上物を言うつもりなら、今すぐここを立ち去りなさい!」
 しかし男は女の恐ろしい変貌にも怯むことなく、むしろ憐れみの情をもって彼女を見据えた。女は男などまるで最初から居なかったかのように元の表情に戻り、頂きの方へと向き直った。
「恩寵は必ず来ます。鸚鵡に乗った使者らと共に」

 遊女たちは館の屋根裏部屋に身を隠していた。暴徒化した客は3人、若い女性たちを混乱に陥れるには充分な数だった。男の突然の変貌を目の当たりにした遊女は未だに身震いがおさまらずにいた。同僚が彼女の手を握り、女将がしきりに背中をさすっている。
 彼女たちをこの部屋に誘導したのは館の女将と、そしてもう1人。
「……カーリダーサさん」ヴァサンタは屋根裏部屋の片隅に坐す劇作家を見つけて声をかけた。
「おお、ヴァサンタ。またちんたら油を売っていやがったのか。こっちは間一髪だったぞ」
「いったいこの街で何が起きてるんですか? あなたは知っているはずだ」
 ヴァサンタの語気を強める様子に気付いて、アビルーパとダルドゥラカが寄ってきた。
「ヴァサンタ、この人は?」
「カーリダーサさん。表向きはパータリプラの人気劇作家、その実は霊感に溢れた宮廷詩人。君たちを時間ループの渦に巻き込んでいた張本人だ」
「じ、時間ループ!? なんだそりゃ?」目を丸くするダルドゥラカのことをカーリダーサがジロリと睨んだ。
「なんだお前ら。人間なんかとつるんでいるのか」と言って、劇作家は大きなため息をつく。
「この人は僕とアビルーパが神の化身であることも知っているんだ。ねえ、いったい何者なの?」
「……儂が何者かは後でちゃんと話すさ。そんなことより初めの質問の方が重要だ」
 カーリダーサは素気なく言うと、アビルーパたちの後方、遊女らがたむろする辺りに目をやった。視線に気付いた遊女ラティセーナーが近寄ってきて傍に坐す。

 3人とカーリダーサとラティセーナー、一堂に会したところで、詩人が改めて口を開いた。
「インドラが負けた」
 その短い言葉に衝撃が走った。インドラはデーヴァ神軍の指導者にして最高神の立場にある軍神。敗北という言葉がもっとも相応しくない神だ。神々の戦争に詳しくないダルドゥラカでさえ、カーリダーサの吐いた一文に驚愕せざるを得なかった。
「今パータリプトラで暴れているのは、インドラの信徒、つまりヴェーダの最古層を信仰している者たちだな。支えを失ったことで不安と恐怖に駆られ、破壊と暴力の波に飲み込まれている」
「嘘だ。インドラが負けただなんて信じられない!」ヴァサンタが噛み付いて、同意を求めるようにアビルーパを見やる。しかしアビルーパは苦い顔を崩さずに言った。
「俺の元に現れたクベーラ神が言っていた。インドラの力が年々弱まっている、と」
「今はそのクベーラとアグニが前線に立ち、アスラ神軍と激闘を繰り広げているところだ」
 カーリダーサの口を介して聞く預言は、これまでアビルーパが受けてきた神託とよく符合していた。ヴァサンタも一度は否定したものの、暴徒らの特徴を思い返すと、次第にカーリダーサの話を受け入れざるを得なくなってきた。

 つとダルドゥラカが立ち上がって声を上げる。
「おい、オッサン、よく分からねぇけど、あの暴徒たちはどうにかならないのか!? このままじゃ街ごとぶっ壊されちまうよ!」
「まあ、ただの人間であるお前や……儂にできることがないのは確かだ」
 カーリダーサは非力を蔑むような、憐れむような口調で言うと、一転して元の厳しい顔つきに戻り、アビルーパの瞳を見つめた。
「しかしカーマよ、お前は違う。すでにクベーラから神託を受けているだろう」
「……クベーラはシヴァを射ろ、と」
「その先は?」
 カーリダーサの質問にアビルーパは首を横に振った。クベーラは肝心なことを告げぬまま、戦地へと赴いたのだった。
「お前に課せられた宿命、それは新たなる軍神の誕生にかかわること」
「新たなる軍神!?」
 3人が揃えて声をあげるや否や、カーリダーサは懐から紙の束を取り出した。その表紙には『新たなる軍神のクマーラ・誕生サンバヴァ』* と書かれている。
「これは儂の創作ではない。天啓を受けて書かされている叙事詩だ」

 詩人はその分厚い紙束をパラパラとめくり、真ん中あたりで手を止めた。
「この詩の中に、シヴァの恩寵を待ち苦行に明け暮れるひとりの娘がいる。お前の使命は彼女を助けること、彼女にシヴァの子を産ませることだ」
「……その子どもが、新たなる軍神となると?」
「そういうことだ」
「ねえ、それってつまり、本の中の世界に行くってこと?」ヴァサンタが割り込んできた。
「いや、これはあくまで神話の出来事が天啓となって儂に書かせているだけのもの。実際にお前たちが向かうのは神話世界のヒマーラヤ山脈になる」
「……なんか嫌な予感が当たっちゃったね、アビルーパ。ついさっき〈また転生しなきゃならない〉って言ったばかりだ」
 ヴァサンタは言霊の重みを噛み締めて、申し訳なさそうな顔を友に向けた。あまりに壮大な話に、その場には途方に暮れるような空気が流れた。しかしアビルーパが敢然とそれを断ち切る。
「行こう、ヒマーラヤ山脈へ。パータリプトラの暴動をこのまま見過ごすわけにはいかない」
 ダルドゥラカも触発されて両の拳を合わせた。
「俺も行くぜ! 故郷を虚仮こけにされたままじゃ腹の虫がおさまらねぇ」そう豪語したが、カーリダーサが呆れた顔をして言った。
「何を言ってる、一般人。神話にお前みたいな凡夫を登場させられるわけなかろう。山脈に向かうのは3人だけだ」
 その言葉にダルドゥラカはひどく落胆し、アビルーパとヴァサンタは顔を見合わせた。愛神の化身アビルーパ、春神の化身ヴァサンタ、この場にいる凡夫ではない3人目とは……

「わたくしが共に参ります」
 それまで沈黙を貫いていたラティセーナーが静かに、しかし明澄な声を発した。


── to be continued──

次回「カーマの章」最終話

*詩聖カーリダーサ作とされている叙事詩は『クマーラ・サンヴァバ(邦題:クマーラの誕生)』という題ですが、クベーラとクマーラの混同を避けるために本作では『新たなる軍神の誕生』と意訳しました。

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