読書と書き物について
『マクベス』シェイクスピア・安西徹雄訳 読了
全世界的に古典中の古典といわれるシェイクスピアなのだけど、よくよく読み込まないと正直なところ私にはその面白さがサラッとわからない。
『リア王』も『ハムレット』も、読めば読むほど面白さがわかってくる一方、初見でローレンス・オリヴィエの『ハムレット』を観たときはなんだかよくわからなかった。でも、呪いと妄想と主観的な正義感などの複合的なものを組み合わせた多重の意味のある物語ではないかと思う。『ハムレット』はいうまでもないが、『マクベス』もこの世ならぬものからの呼び掛けが起こることで事態が変化する。これは解釈の余地が多くの面白いだろう。あまりにも面白いでしょうね。演じることまで考えれば、たしかにこれほど面白い脚本は稀かもしれない。
なるほど、私にも少しシェイクスピアの面白さがわかって来たかも知れない。元々『ロミオとジュリエット』は好きだった。それこそ、いかようにも解釈可能な脚本の自由度の高さがいい。
軽い文体なるもの
小学生の頃に橋本治が好きだった。氏が『桃尻語訳 枕草子』を刊行した事で、この世には様々な文体が存在し、古典とされるものにも、喋り言葉のような文体で書かれた可能性があるのだと知った。『枕草子』の体言止めの多用などから、この文体を現代語に訳するなら近いのは女子高生くらいの若い女性の喋り言葉なのではないか、という考えである。同時に「桃尻語訳」には「(古めかしくわかりづらい)古典をわかりやすくする」という役割も期待されていたはずだ。私には「桃尻語訳」が『枕草子』をわかりやすくしたとは到底思えないのだが、古典は神棚に上げてありがたがるものではなく、身近な存在として読むものなのだと教えてはもらった。
この「当人と関連のないものを、当人の身近な目線に合せていく」というチューニング的な行為を、私はとても大事だと思っていた。古典を単なる実態のない権威だと思って拝んで終わりにするのではなく、身近なものとして生かして活用するには、自分に近いものだとまずは認識してもらわなくては。そう思った。私ごときが。そう、私ごときが。この、人になにか教える事が出来るものなど何一つない、教わるばかりの私が。
以来私は、出来るだけ口語体で、わかりやすく、偉そうぶらずに生きようと思って生きていた。
これはたいへん滑稽な事だ。私はむしろ、周囲の他人より勉強の成績も悪ければパッとすることもない存在だったのに、何故か一生懸命、「他人にわかりやすく」──あまりに傲慢にも──「レベルを下げて」何かを書こう語ろうとしていたのだ。
もしかしたらその報いを受けているのかもしれない。
世間に出て、あまりにも「あなたは本を読まないでしょうから読んでなくてもわかるようにお話しますね」「あなたはまともな文章など書けないでしょうから、話し言葉でもなんとかなる原稿についてご紹介しますね」といった対応を受ける事が多かった。小説教室で何書いてもライトノベルと言われるとか。
文体が軽いとラノベなのか。ラノベとは文体で仕分けされるものなのか。
何がライトノベルなのかと言われると私もしっかり定義出来ないが、ライトノベルだと思って書いてないものを侮辱の意味で「レベルの低い原稿」「喋り言葉は下手くそな文体」と評されるのはそれは腹が立つ。
くっそ、この軽佻浮薄な文体でやってやる! と強く決意していたのだが、ある時期に方向を変えた。
世の中あまりにも何も勉強しなくても済むように赤子をあやすように物を提供しているサービスが多すぎないか。しかもちょっと調べればそれでわかったことになるような即席なものが求められ過ぎてないか。これやばい。
私は私の癖にそんな事を思い、軽佻浮薄な文体を葬り去ろうと決意した。同じ頃、とある作家を好きになり、そのお方のごりごりの重厚な内容と分厚い教養を感じさせる文体に心酔してしまい、「こういう本に増えてほしい!」こういう路線増えろーーー!! とあっさり転向したのもある。フォロワーとして私も、ぺらっぺらの軽さで「大丈夫読める読める」みたいな他人への擦り寄りはやめよう、と、思ったのだ。
しかしまあ……、求められていませんね。別に私自身が夜に出るわけでもなんでもないので、人様のお仕事を見ていてなのですが。
WEBの充実で、テレビで済ませていた人達が活字を読むようになったからかも知れない。情報を求める人達が欲する活字は、やはり軽くて親切で面白おかしいもののように思う。私もそういうの読みたいときあるし。わかるけど。
特に私みたいな他人に提供できる知識のない人物は、何かを知りたいと思う人様に代わって調べてまとめて読みやすく整理された記事にする仕事を頑張って完成度高くするのが重要なのかも知れない。
年齢のせいかなとも思うが、ここ数年、自分が読みたいものと自分に出来る事と、人が求めているもの人気のあるものが、さっぱり掴めなくてすごく戸惑い続けている。人気映画や人気ドラマの何が受けているのか本当にわからない。関心が持てない。まずいなと思いながらも、自分にとって面白いと思うものにしかもうかかわりたくないと思っていた。そういう傲慢がゆるされるために、私は兼業ライターで行こうと決めたのだし。
しかしこの文体はまったく重さも硬さもない喋り言葉だな。いいんだけどね。書き散らしてる日記だから。
そしてこの連休は思いの外読書が進んで嬉しい。もっと知識を詰め込みたいし、自分が何を好きなのか形作りたい。
そして体力の続く限り読んで書く
単に頭を使うだけのエネルギーが残っていなかったのだろうけど、そのせいでともかく本が読めなくなった。しかし、漢方医にかかるようになってから、エネルギー消耗が抑えられるようである。読み書き勉強をする力が戻ってきた。そして、戻って来ると体力の続く限り起きていて読んで書こうとする。ここは子供の頃から変わってないな。
私はやたら「書くのが楽しい」「ずっと書いていられる」を連呼するタイプの人があまり好きではないので自分がそう感じてもあまり言いたくないのだが、私はこの世に一定数いる読み書きに嗜癖するタイプの一人なのだろう。そして読み書きするから有能かというと、全然そんな事ないのが自分の残念なところである。大体トロそうで頭の回転が鈍そうに見えるのが私らしいよ。
そういえば、ネット経由で知り合った人からは、リアルで会うと「もっと切れ味鋭い人かと思った」と言われる事がほとんどである。というとネット弁慶とやらみたいで恥ずかしいが、平和主義者なんだよ。
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