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私が写真を撮る理由

私はフィルムカメラが好きだ。

大学3年の頃、Instagramで流れてきたフィルムカメラで撮られた写真たちに魅了されてから興味を持った。
フィルムカメラを手にする前は、ミラーレスにデジタル一眼レフと2台デジタルカメラは持っていたものの、フィルム独特のあの雰囲気を生み出すのにはやはりフィルムカメラが欲しいとなり、大学4年の秋、都内某所のカメラ屋さんでフィルムの一眼レフを購入した。

それからというもの、祖父から譲り受けたカメラに、コンパクトカメラが3台と我ながら呆れるぐらいのカメラを手にした。
どれも愛すべきカメラたち…(使用頻度の差がすごいけど笑)


フィルムの特徴として、撮れる枚数が限られていること。
24枚や27枚と言うふうに。
その中に思い出を詰め込む感じがたまらなく好きだ。

もちろん、一回撮ったら消すことはできない。
デジタルで撮っていた時は、一枚撮り確認し、ブレていたりイマイチだとその場ですぐ消してということができた。
だから、自分がベストだと思ったものしか残らない。

一方、フィルムはブレに感光。もはや何も写っていなかったりと現像するまでどんな風に収まっているのか全くわからない。
デジタルで撮っていたらすぐ消していただろう写真もフィルムなら何故か愛着が湧く。
そんなことがある。

そして、フィルムやカメラごとにいろいろな表情を見せてくれる。光の柔らかさだったり、影の濃さ、色の濃淡などなど…これはデジタルでも表現できることだけれども、フィルム独特のノイズのかかり具合というか温かみが何より好きなのだ。


フィルムカメラの良さというか私の好きなところを書いてきて思ったこと。

誰かになぜフィルムで写真を撮るの?と問われたら、
私にとって写真を撮るということは日記と同じ
と答えようと…思った。

なぜ日記なのかというと、一本のフィルムを撮り切るまでに長いと季節が変わっているなんてことが時々ある。
例えば一枚目の写真は桜の写真だったのに、最後の写真では夏独特の入道雲が写っていたり…なんてことがあったり…。

そんな過去に撮った写真たちを現像し、プリントされたものを見ると撮った時はこんな日だったな…と思い出すことができる。
(そんなのは当たり前でしょ?という感じだが…。)

私は一枚の写真に対して、その撮った前後の記憶をも思い出すことができる気がするのだ。
何気ないことも思い出すことができるというのはなんて素敵なんだろうと。
日記を振り返ると当時の自分の想いなどがわかる、それと同じようなことができるのだ写真には。

これはデジタルで写真撮っていた時には、感じない感情だった。多分、先ほど述べた通りすぐ消せる、撮ったら現像せずデータのままということで撮った写真としっかり向き合っていなかったのだと思う。

フィルムにはデジタルにない、一枚一枚への感情が込められているそんな風に感じる。

また、カメラを片手に歩くと普段見慣れた景色たちそれぞれが輝いているように見えるのだ。
昨日までは咲いていなかった道端の小花や、空や雲の形、光の射し方…そんな景色たちに気付ける。

日々暮らしていく中で、下ばかり見ていたら気づかないものが溢れている。それを気づかさせてくれる。そしてそれを写真に収めたいと思う。

写真にはうまい下手がある。センスや技術といったものが必要な場合もある。そんな私は下手だし未だに露出やらを間違える。
上手くなりたいと思いつつ、そんなミスを含めて私らしい写真だと思っている。


なんだかまとまりもなく、フィルムカメラについて話てしまった。
時間というものは有限。何気ない毎日をただの日にしたくない、そんな気持ちで道に転がっている宝石を撮り、集めているのかもしれない。

これからも愛すべきカメラたちで、素晴らしい景色や愛すべき人たちを写真に収めていこうと思う。

いつの日か素敵な誰かと一緒にアルバムをめくった時、あぁこの日はね〜!と写真という名の日記を見て語り合いたい。
そんな日が早く来ることを願って…。


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