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双極性障害を抱えながら歩む人生(13)

前回の投稿から1ヶ月近くが経ってしまった。
前回の投稿時、かなり病んでいたのでご心配をおかけしたかもしれない。

実は、アメブロ(https://ameblo.jp/yocamilly/)には書いたが、10月31日に40℃の発熱があり救急搬送されたところ、腎盂腎炎(じんうじんえん)にかかっており全治1週間と診断された。
幸い、入院するほどではなく1週間自宅で抗生物質を飲みながら療養していた。
腎盂腎炎自体は無事1週間で治ったのだが、毎日ほとんど寝て過ごしていたため体力が落ちてしまい、疲れやすくなってしまった。
その間に朝晩はめっきり冷え込むようになり、PC部屋が非常に寒くなってしまった。
そんなこんなでますますPCから遠ざかっていた。
(アメブロは布団に潜りながらスマホで更新したり、調子のいい時にPCで更新したりしていた)

40℃の熱が出た時辛かったのは、高熱自体よりも悪寒戦慄(おかんせんりつ)が酷くて深呼吸すらできなくなり、呼吸が苦しくなってしまったことだった。
「苦しい時の神頼み」とはよく言ったもので、ひたすら「神様助けてください」と祈っていた。
寝室が北側にあって寒かったせいで余計体調が悪化したらしい。
救急車に乗ってからはだいぶ呼吸が落ち着いた。
運悪く日曜日だったのでなかなか近くの病院で診てもらえなかったのだが、幸い隣町の総合病院で受け入れてもらえた。
高熱なのでコロナの疑いもあったが、当直医はすぐに「腎盂腎炎らしい」と気づいてくれて、点滴されている間に尿検査をしてもらった結果ビンゴだった。

話は前後するが、そんなこんなで腎盂腎炎自体が治ってからも、いつもに増して疲れやすくゴロゴロしていた。
そんな中で聖書を開き御言葉をノートに書き写したり、スマホの聖書アプリを読んだりしていて信仰が深められた(と思う)。

聖書アプリのデボーション(解説)で学んだが、「私はダメ人間だ」とか「私なんか死んだ方がいい」という言葉は、悪魔が私に吹き込んでいる嘘らしい。
ネガティブな思考をし、ネガティブな言葉を発することによって、悪魔に隙を与えてしまうらしいのだ。
(信じるか信じないかはあなた次第)

私は、堕ちるとノートに「私はダメ人間だ。私なんか死ね」と書き殴っていたし、noteやアメブロにもネガティブな言葉を書き連ねていたが、もうそれは止めようと思った。

心から信じられなくても、
「神様は私を愛している」
「神様は私を愛している」
「神様は私を愛している」
というようなポジティブな言葉をノートに書き続けている。

脳のバグは急には治らない。
さっきも「私なんか死んだ方がいい」という言葉が、頭の中に浮かんできた。
でも、取り合わないことにした。
どうしても苦しい時は、寝床で十字架を握り締めて、
「神様助けてください」
と祈っている。

そして、毎日聖書を読む間に心に刺さった御言葉。

「主に望みをおく人は新たな力を得
鷲のように翼を張って上る。
走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」

(イザヤ書40章31節 新共同訳)

この御言葉を知ってはいたが、正直
「疲れないなんてことはないだろう。私はいつも疲れてる」
と反抗していた。
しかし、聖書に書かれた神の御言葉は全て実現すること。
私も祈り続けて、この御言葉を唱え続ければ、疲れなくなるのではないかと希望を抱いた。

この御言葉にも反発していた。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
(マタイによる福音書11章28節 新共同訳)

この御言葉にすがって教会に通うようになり、洗礼を受けて20年。
休ませてもらったことなど一度もないように感じた。
百歩譲って双極性障害という病が治らなくても、せめて魂の平安くらいは得たかった。しかし、それもなかった。

何度も聞いてきたこの聖句を、忘れもしない今年の2月7日の礼拝での聖餐式で改めて聞いた時、私は泣いた。
「どうして神様は休ませてくれないの?いつになったら休ませてくれるの?嘘つき!!」と。
それから何週間か教会に行かなかった。
神の存在を信じる気持ちは残っていたが、「私は救われていない人間だ。これからも救われない。もう教会に通って礼拝なんかしたくない。日曜日は家でゆっくりしたい。」と思った。

でも、神様は一度とらえた私を離さなかった。
いつの間にかまた教会に足が向き、以前のような熱心な思いはなかったけれど、時々は礼拝に出席するようになった。

まだまだ聖書に、神様に言いたいことはある。
先ほど引用した聖句の続きだが、

「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
(マタイによる福音書11章29~30節 新共同訳)

「どうしてイエス様はご自分の軛を負わせるの?救い主なら私の軛や荷を全て背負ってくれればいいじゃん」と思う。
この答えはまだ見つからない。
見つからないけど、そう聖書に書いてあるんだから、そういうものだと認めるしかない。いくら軽かろうが、これからも荷物を背負って歩かなきゃいけないのは嫌だけど…。

祈るのは苦手だけど、書くことは好きだから、これからもひたすら御言葉をノートに書き続けたいと思う。
別に取っておくつもりはない。書くこと自体に意味があるのだから。
今まで暴言を書き連ねてきたノートと同じように、最後のページまで書き終わったら処分して、次のノートに書き続けるだけだ。
誰かのために残すものではないから。
自分が読み直す用でもないし。
(自分が思ったり学んだりしたことはいつも聖書に直接書き込んでいる)

こんな日々を送っている。

昨日になって、また膀胱炎になってしまった。
今回はすぐに受診したので、腎盂腎炎には至らず、5日間抗生物質を飲んでいれば治ると言われた。
水分はいつも以上に摂るようにしていたのになぜまた膀胱炎になってしまったのかわからないが、無事治るように祈るしかない。
昨日は排尿痛もあって座っているのが辛かったのでPCに向かうこともできなかったが、やっとnoteを書けるようになった。

なぜnoteを再開したかといえば、昨日突然、ある方からサポートをいただいたからだった。
その方はアメブロも読んでくださって、応援の気持ちでサポートしてくださったようだった。
全然読んでもらえていないブログやnoteだと思っていたが、応援してくださる方が目に見えてわかると、承認欲求が満たされるのかとても嬉しい。
それに、1000円は私にとっては大金だ。
お金が第一目的で文章を書いているわけではないが、やっぱり収入はないよりあった方がいい。
「どうしようもなく思える時でも、神様は必ず助けてくださる」と信じてはいるが(実際、この闘病生活の間に大ピンチは何回もあったが、その度思いもかけない形でピンチをくぐり抜けることができた)。

noteにはかなりダークなことを書いてきたので、そのリンクをアメブロやTwitterに貼るのを躊躇したこともあったが、こうやって一人でも読んでくださる方がいるなら、発信し続けようと思う。


まだまだひよっこライターなのに、既に「サポート」してくださる方が現れました。 応援の意味と思い、感謝を忘れずに楽しいnote生活を続けていきます。