愛と心臓
歳は20代後半ぐらいだろうか。肩までかかる黒髪に涼しげな目元をした人だった。
初めての国で道に迷っていた僕を街の宿まで案内してくれて、その後この国で美味しいと評判のカフェへ連れてってもらった。
店に入り、空いていたテーブル席に腰を下ろす。
横の壁はガラス張りになっていて、壁の向こうでは多くの人が行き交っていて、ここが街の中心地であることがうかがえた。
「この国では不思議な風習があると聞いたんですが」
一番人気だというケーキとコーヒーを、腰に黒いエプロンを巻いた店員さんに頼むと、一番気になっていたことを聞いた。
「ああ、あれね。」
お姉さんは聞かれ慣れているのか、少し笑いながら、体を揺らす。
「この国ではね、結婚すると誓ったパートナーには自分の心臓をあげることになっているの。珍しいわよね?」
”あの国では、結婚するとパートナーに心臓をあげるらしい”
これが僕がこの国にくる前に聞いた噂だった。
「もちろん心臓を自分の体から抜き取って相手にあげるわけじゃないわ。心臓交換所という施設で自分の心臓にある機械を取り付けてもらうの。ほら、あそこに大きな建物が見えるでしょう。あそこが心臓交換所よ。」
お姉さんが指差した先には白い大きな建物が、街を見下ろすようにそびえ立っていた。
「その機械はね、遠隔操作のリモコンのボタンを押すと、強制的に心臓を止めてしまうの。」
運ばれてきたコーヒーを一口飲み、乾いた喉を潤す。
口の中では、芳醇な香りとともに苦味と酸味がじんわりと広がった。
「それじゃあ、結婚したらパートナーをいつでも殺せてしまうということですか?」
「ううん、そんなことをしたら理不尽な殺人がまかり通ってしまうわ。そのリモコンのボタンが押せるのは、パートナーの自分への愛が基準値を下回った時だけ」
「愛の基準値?」
「ええ、心臓につける機械はね、何も心臓を止めるだけではないの。その機会はパートナーをどれだけ愛しているかを数値で測れることができるの。」
「じゃあ、そのパートナーを殺すことは結構あることなんでしょうか?」
「ええ、悲しいことにね。昔は死因を最も多く占めているものは自殺だったそうだけど、今は圧倒的にパートナーに殺されて死ぬ人が多いわね。」
ケーキを食べ終わると、そろそろ出ましょうかとお姉さんが腰を上げかける。
「あっ、最後にもう1つだけ質問いいですか?お姉さんはご結婚されてるんですか?」
「ええ、していたわ。彼は素晴らしい人だった。かっこ良くて、気遣いができて、とても優しかった。結婚したばかりの頃は”君と一緒に居られるだけで僕は幸せだよ”って言ってくれていたわ。でも、ある時から彼の態度が急にそっけなくなって、心臓交換所で彼の私への愛を確かめてもらったの。そしたら基準値を大幅に下回っていた。あんなに最初は愛し合っていたのに。
私は彼を愛していたのよ」
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