見出し画像

きっと死ぬのも下手くそ


 
 憧れた死に方がある。
 真っ白な一面の雪にぱたたたと飛んだ血の滴。美しい少年が倒れ臥している。薔薇色だった頬は雪に染まったように白くて、重たげな睫毛が頬に触れて、もう二度と目覚めない。
 萩尾望都さんによる、『雪の子』である。多分。手元に漫画が無いので記憶を頼りに検索してみたら、この短編作品のタイトルが出てきた。確か叔母の家で読んだのだ、あの家には『ポーの一族』や『日出処の天子』、『地球へ…』があったから。
 
 『僕は自分が最も美しいうちに死ぬんだ』

 記憶は不確かだ。台詞を一言一句覚えているなんて言えない。でも、彼の自殺の動機は、大人になる前に、美しいままで、完璧なままで自分を終わらせるためだった。
 思春期とか、過渡期とか、未成熟とか早熟とか、とかく十二歳から十八歳くらいの間は、私達は『未完成』なのだという考え方が、教科書や大人達の大半を占めていた。中学生の私は窮屈に思いながらも、それを信じていた。だから彼の、自分という存在は今が一番で、もう完成されていて、後はその美しさを失っていくばかりなのだという主張に感銘を受けた。これだ!と思った。私もこの少年のように、自分の死ぬ瞬間を自分で見定めて、美しく完璧に死を遂行してみせようと思った。
 少年の生と死には傍観者がいる。彼に惹かれ、物語の最後にその死を悼む傍観者の少年が。あの子はきっと大人になる。大人になって、不意に何かの折に美しい少年のことを思い出したりする。
 傍観者にはなりたくなかった。美しい少年とその傍観者の少年の間には明確な線引きがあるように思えて、私は美しい少年の側に行きたかったのだ。
 中学生の時も高校生の時も自分の容姿を「今が一番良い」なんてとても肯定できなかった。不満ばかり抱いていた、こんな姿で雪の上で死んでいても様にならないと本気で思っていた。


 十九歳になる少し前から、理想の通りに死ぬならこの年齢しかないとぼんやり思っていた。二十歳になる直前。今しかない。この機を逃せば、私はあの線の向こう側に行ってしまう。大学はつまらなかった。面白いと思う授業もあったけれど、友人もいたけれど、高校までの暮らしよりも圧倒的に「世間」というものを感じて私は無気力に生きていた。
 夏休みに、当時姉が住んでいたイスラエルのテルアビブに行った。朝は空爆の警報で目覚めて、アパートの住民達とだらだらと階段を降り、アパートの入り口に座り込んで警報が解除されるのを待った。昼間はアパートから歩いて十数分のビーチに寝そべり、飽きることなく濡れた黒い砂を握りしめた。私は今も、テルアビブのビーチの湿り気を含んだ砂の触り心地が一等好きだ。夜は姉の友達とテキーラをショットグラスで煽り、そのほとんどをこぼし、夜明けになるともう一度ビーチに行ってパンツとブラだけを身につけ海へ飛び込んだ。

 ひりひりするくらいあの旅行が楽しかったのは、もう自分に後が無いと思っていたからだろう。
 十九歳の冬とうとう死ななくてはと思っていた。憧れの死に方をなぞるなら、一面の銀世界で息絶えなくてはいけない。北海道や青森はあまりに縁遠くて、誰にも気づいてもらえないだろうと思った。親戚がいるのは群馬だけど、群馬の雪深いところ、例えば片品村とか、でも片品で死ぬのは、スキーが趣味で冬の間はしょっちゅう片品に行っている母への嫌がらせと受け取られてしまいそうで気が引けた。
 うだうだを言い訳を連ねているうちに真冬の峠は越えて、三月の終わりに私は二十歳になった。

 時計の針が午前零時零分を差して三月三十日の時を刻み出す音を聞きながら、私は実家のリビングで一人、死に損ねたなぁと思った。リビングには私以外誰もいなくて、こっこっこっ……と秒針の刻む音を静かに聞いていた。

 中学、高校は部活が楽しかったし大学に入って弓道部は辞めたけど友人と出掛けるのは楽しかったし好きな人にした告白も、一人で歩く道も初めて行く喫茶店も本も漫画もアニメも映画も旅行も全部楽しかった。私のなかの大半の「私」は死にたくなかった。手首を切って死ぬなんて想像するだけで物凄く痛そうだったし高いところから下を見下ろすと足の裏がぞわぞわした。イスラエルからヨルダンへ初めての陸づたいの越境をした時、もっともっと色んなところに出掛けてもっと色んな経験をしたいと心の底から思った。

 あの少年のように美しく死にたいと願った私は年々私のなかで小さくなっていったけれど、それでも消えずに真剣にそれを望んでいた。私は十九歳という一年をかけてその小さな愚かな、かけがえのない私を殺したのだった。二十五歳まで生きた今も、小さな私を殺したことを後悔して、悼んでいる私がいる。どうせこの先も生きて行くくせに、あの時美しく死ねていたらよかったのかもしれないと振り返る。
 
 十九歳を過ぎて、人生の色んな節目で端から見てもちょっと躓いて、生きるのが下手くそだなと自覚して生きている。非凡だから、とか他人と違うから、とは思えない。弱くて、狡くて、不恰好に生きている。時折死にたくなるくらい下手くそに生きている。到底今の私は、完成された、あるいは完成する直前の私ではない。だから今は死ねない。
 だって生きるのが下手くそな時に死んだら、きっと死ぬのも下手くそだ。もっと愛しくて、私の好きな私に、私が肯定できる私になれるのが何年先か何十年先かわからないけど、そういう私になれたと思ったら、その時また考えよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?