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イェンス・ペイタ・ヤーカプスン『ニルス・リューヌ』

1864年2月1日~7月20日、プロイセンウスタライヒデンマークとの間で第二次スレースヴィスケ戦争(2. Slesvigske Krig)が起きた。

この戦争により、デンマークはホルステイン公爵領(Hertugdømmet Holsten)、ラウンボー公爵領(Hertugdømmet Lauenborg)、スレースヴィク公爵領 (Hertugdømmet Slesvig)の割譲を余儀なくされた。

1880年(明治13年)、クブンハウンで、イェンス・ペイタ・ヤーカプスン(Jens Peter Jacobsen、1847年4月7日~1885年4月30日)の小説『ニルス・リューヌ』Niels Lyhne(Gyldendalske Boghandels Forlag)が刊行された。

第二次スレースヴィスケ戦争で主人公ニルス・リューヌが戦死するまでの生涯を描いた。

1904年(明治37年)4月2日、 28歳のライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke、1875年12月4日~1926年12月29日)は、ローマから54歳のエレン・ケイ(Ellen Key 1849年12月11日~1926年4月25日)に宛てた手紙で、1896年(明治29年)か1897年(明治30年)にムンシェンで初めてヤーカプスンの『ニルス・リューヌ』Niels Lyhneと『マリア・グルペ夫人』Fru Marie Grubbe(1876)を読んだと述べている。

1910年(明治43年)3月、ライプツィヒで、34歳のライナー・マリア・リルケの散文作品『メルテ・ラウリス・ブリゲの雑記』Die Aufzeichnungen des Malte Laurids Brigge(Insel Verlang)が刊行された。

主人公の架空のデンスカラ人の詩人メルテ・ラウリス・ブリゲのモデルは、ノルマン人の詩人セグビョン・オプストゥフェルデル(Sigbjørn Obstfelder、1866年11月21日~1900年7月29日)とされる。

1929年(昭和4年)1月6日、ライプツィヒで、「インゼル文庫(Insel-Bücherei」406巻、 ライナー・マリア・リルケの書簡集『若き詩人への手紙』Briefe an einen jungen Dichter(Insel Verlag)が刊行された。

1939年(昭和14年)10月12日、ライナァ・マリア・リルケ作、35歳の大山定一(おおやま・ていいち、1904年4月30日~1974年7月1日)譯『マルテの手記マルテ・ラウリツ・ブリッゲの手記)』(白水社、1円50銭)が刊行された。

1940年(昭和15年)1月1日発行の『スタア』(スタア社)新年特別号(35銭)に掲載された、37歳の飯島正(1902年3月5日~1996年1月5日)の「ブック・レヴィウ」、R・M・リルケマルテの手記」を転記する(59頁)。

 なん年もまへから、僕は「マルテ・ラウリッド・ブリッゲの手記」の完譯があらはれるのを、まつてゐた。堀辰雄氏の部分譯が、雜誌にのつたこともある。しかし、それだけでは渇がいやされない。また、モオリス・ベッスのフランス語譯が出てゐるのだが、フランスのものを讀むほうがついさきになり、まだ讀んでゐない。ドイツ語では、齒がたたない。といふわけで、大山定一氏のこの飜譯を手にしたときは、本當にうれしかつた。
「マルテの手記」の讀後感を書くには、まだ僕にそれだけのきまつた考へがない。これは、さまざまな面をあはせもつた小說である。一貫した筋をもつ普通の小說ではなく、書いてゆくリルケとともに、つねに發展してゆく精神のうごきが、その内容となつてゐる言葉の圖であるからである。四百ペイジたらずの本のなかに、人間の過去と現在と未來が、ごく内輪なしかもそのふかさには比類のない秘密の線として、こめられてゐるのである。言葉が、これを、たえざる命として、たもちつづけてゐる。

 日常の中に滅びた憐れな言葉
 目立たぬ言葉を私は愛する
 私のうたげから私がそれに色を與へると
 言葉は微笑んで徐に樂しくなる。
 彼等が臆病に内に押し入れた本性が
 はつきりと新になつて誰にも見えて來る。
 一度も未だ歌の中で歩まなかつたのが
 ふるへながら私の小曲の中を歩く。
             (茅野蕭々氏譯)

 とうたつたリルケの「目立たぬ言葉」を、飜譯によつて云云することは不可能であらう。しかし、言葉のさししめす對象は、イメエジによつてあきらかにされてゐるし、さういふ言葉を、いかなる方法によつて、はこんで行つたか、といふことは、おぼろげながら察しうるのである。なによりも、ありがたいことは、リルケが、おのれの見る對象をその本質においてつかまうとする努力とその結果が、どんな平凡な事物であらうと、對象をぢかに觸れうるものとして、そのあたらしい面をゑがき出してゐる、といふ點である。さうするためにリルケは、つねに、ものごとの過去を追ふ。そして、過去からうかびあがる對象の始原的な本質を、現在にも生かし、未來にも生かさうとする。その歷史圖が、たえざるリルケの言葉のすがたとなつてゐるのである。リルケにかかると、それまで死んでゐたやうな事物が、にはかに、いきいきとしてくる。肉感化してくる。「視は愛である」といふリルケは、自分の感情を表現するために、自然の風物のうつくしさなどを借りてくるロマンチクッとはことなり、對象そのもののなかに、對象の本質とともに在るといふべきであらう。
 ハンス・カロッサの「ライナッ・マリア・リルケとの會見」(N・R・F、本年九月號所載)によれば、リルケは「靈感は無であり、努力がすべてである仕事についてのごとく、詩についてかたる」といふ靈感は外部的なものにすぎない。他奇ない平凡な對象に對する努力こそ、むしろ先にむかつてひらく藝術のすがたであらう。
「マルテの手記」は、マルテ・ラウリッド・ブリッゲといふデムマアクの無名作家がパリで、孤獨無緣のまづしい生活をおくる記錄である。一面からいへば、これは、リルケのパリにおけるわびしい生活の記錄であるともいへる。しかし、かういふ實話的興味を、この作品に對していだくことは、意味がない。なぜならば、リルケのゑがくこの無名作家の生活は、すでに、對象として、獨立の肉感的生活をいとなみ、そのなかからリルケが生長し、そのなかかが、本質的な人間像そのものであるからである。そこには死の影がつねにつきまとつてゐる。しかし、なんといふあかるい、生に近い死であらう。「マルテの手記」の内容をかいつまんでか[ママ]ることは到底出來ない。讀んでもらふよりしかたがない。最後に、た[ママ]ふたたび、この本を譯された大山定一氏に感謝したい。(大山定一譯、白水社發行、定價、一圓五十錢。)

1940年(昭和15年)6月22日、ドイチュ人帝界が衛星国のフランセ人国(État français)と休戦協定を結んだ。
フランスの半分以上がドイチェス帝界の防衛軍(Wehrmacht)、イターリア王国イタリアーノ陸軍に占領された。

1940年(昭和15年)9月、ニュー・ヨークとランドゥンで、55歳のアンドゥレ・モルワ(André Maurois、1885年7月26日~1967年10月9日)著、36歳のデンヴァー・リンドゥリー(Denver Lindley、1904年3月25日~1982年2月11日)訳『フランスにおける悲劇ある目撃者の証言』Tragedy in France: An Eyewitness Account(Harper & Brothers)が刊行された。

1940年(昭和15年)11月2日、アンドレ・モーロア著、38歳の高野彌一郎(1902年2月11日~1992年7月21日)譯『フランス敗れたり』(大觀堂書店、1円30銭)が刊行された。

1940年(昭和15年)11月13日、ヤコブセン著、33歳の山室静(やまむろ・しずか、1906年12月15日~2000年3月23日)譯『ニイルス・リーネ』(大觀堂書店、1円70銭)が刊行された。
装幀は田坂乾(たさか・けん、1905年~1997年)だ。

1940年(昭和15年)11月26日、35歳の上田廣(うえだ・ひろし、1905年6月18日~1966年2月27日)著『指導物語或る國鐵機關士の述懐』(大觀堂書店、1円70銭)が刊行された。
装幀は無緣寺心澄(むえんじ・しんちょう、1905年~1945年)だ。

1946年(昭和21年)1月20日、「岩波文庫」、リルケ作、44歳の望月市恵(もちづき・いちえ、1901年1月25日~1991年9月8日)譯『マルテの手記』(岩波書店、3円80銭)が刊行された。

1946年(昭和21年)2月16日、日本政府が予告なしに新円への切り替えを発表し、17日から預金封鎖が実施された。

1947年(昭和22年)7月15日、40歳の山室静譯『ヤコブセン全集』第2巻『死と愛』(蒼樹社、70円)が刊行された。
ニイルス・リーネ』の改題だ。

1947年(昭和22年)7月20日、山室静譯『ヤコブセン全集』第1巻『ここに薔薇あらば』(蒼樹社、66円)が刊行された。

モーゲンス Mogens (1872)
霧の中の射撃 
Et Skud i Taagen(1875)
二つの世界 
To verdener (1879)
ここに薔薇あらば 
 Fra Skitsebogen (1882)
ベルガモの黒死病(ペスト) 
Pesten i Bergamo(1881)
フエーンス夫人   Fru Fønss(1882)
サボテンの花ひらく(習作) 
En Cactus springer ud(1871)
秋おもひ   
Efteraar
一つのアラベスク 
En Arabesk
異郷人   
Udlændinge
ギユレの唄    
Gurresange
コルマクとステンゲルデ   
Kormak og Stengerde

1947年(昭和22年)10月15日、ライナァ・マリア・リルケ作、大山定一譯『マルテ・ラウリツ・ブリッゲの手記』第7版(白水社、90円)が刊行された。

1949年(昭和24年)11月30日、奈良県丹波市町で、リルケ著、36歳の高安國世(たかやす・くによ、1913年8月11日~1984年7月30日)譯『若き詩人への手紙 附 若き女性への手紙』(養徳社、120円)が刊行された。

1950年(昭和25年)2月5日、「思索選書」、ヤコブセン著、山室静譯『死と愛ニールス・リーネ』(思索社、200円)が刊行された。

1950年(昭和25年)2月20日、奈良県丹波市町で、リルケ著、大山定一譯『マルテの手記』(養徳社、320円)が刊行された。

1951年(昭和26年)11月30日、「角川文庫」、ヤコブセン著、山室静訳『死と愛ニイルス・リイネ』(角川書店、100円)が刊行された。

1953年(昭和28年)1月31日、「現代世界文學全集」6、リルケ作『マルテの手記・ロダン』(新潮社、350円)が刊行された。
大山定一譯『マルテの手記』を収めた。

1954年(昭和29年)6月15日、「世界文學全集」第14巻、『リルケマルテの手記他二篇ツヴァイクジョゼフ・フーシェ」、カロッサ美しき惑いの年」』(河出書房、385円、地方定価390円)が刊行された。
30歳の生野幸吉(しょうの・こうきち、1924年5月13日~ 1991年3月31日)譯『マルテ・ラウリヅ・ブリゲの手記』を収めた。

1957年(昭和32年)12月25日、「世界文學全集」第3期、第15巻『ヤコブセン死と愛」、ビョルンソン日向丘の少女」、ハムスン飢え」「牧神』(河出書房新社、385円、地方定価390円)が刊行された。
ヤコブセン著、山室静訳「死と愛」、「フューンス夫人」を収めた。

1965年(昭和40年)7月13日、「世界文学全集」Ⅲ―14、『リルケマルテの手記」「神様の話」、ヤコブセンニイルス・リイネ」』(河出書房新社、650円)が刊行された。
生野幸吉訳「マルテの手記」、山室静訳「ニイルス・リイネ死と愛」を収めた。

1966年(昭和41年)9月20日、「角川文庫」、ヤコブセン著、59歳の山室静訳『改訳 死と愛ニイルス・リイネ』(角川書店、120円)が刊行された。

1975年(昭和50年)7月30日、山室静訳『ヤコブセン全集』全一巻(青蛾書房、3,500円)が刊行された。
装幀は道吉剛(みちよし・ごう、1933年~2019年9月10日)だ。

モーンス
霧の中の射撃
二つの世界
ここに薔薇があるとよかった
ベルガモの黒死病(ペスト)
フューンス夫人
詩抄
マリイ・グルッペ夫人 
ニイルス・リイネ(死と愛)

1980年(昭和55年)5月31日、「北欧文化シリーズ」、73歳の山室静著『北欧文学ノート』(東海大学出版会、2,200円)が刊行された。

1980年(昭和55年)11月30日、「河出世界文学大系」(全100巻+自由日記)57、『リルケマルテの手記」「神様の話」、ヤコブセンニイルス・リイネ」』(河出書房新社)が刊行された。
生野幸吉訳「マルテの手記」、山室静訳「ニイルス・リイネ死と愛」を収めた。

2021年(令和3年)6月8日、「ルリユール叢書」、イェンス・ピータ・ヤコブセン著、奥山裕介(1983年~)訳『ニルス・リューネ』(幻戯書房、本体3,600円)が刊行された。


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