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”我欲”にのみ込まれず、共存していく。
生理的欲求、承認欲求、安全的欲求、自己実現欲求、あらゆる欲求があるが、その欲望は自分の意思にどの程度影響を与えているのだろうか。
それはコントロールできるのか。
まずは欲を認識しないといけない。
欲望、つまり”我欲”により
自分の意思をどんな風に捻じ曲げられているか観察しなければ。
食事の後は眠くなり寝てしまう。そして1日が終わる。
ダイエット中なのに、頑張ったご褒美として食べてしまう。
これらはよく聞く話だが。
出世のため、給料のために勉強する。
これは承認欲求のほかに、安全的欲求も強く入っていると思う。
置いてかれないように、蹴落とされないように。
安全の欲求は、生理的欲求の次に強い欲求だとされる。
それに加えて承認欲求も強い欲求だ。手に負えない。
受験に就職、出世など、どの程度自分の意思が反映されているのか。
我欲はどこまで影響を与えているか。
もしかすると自分の意思はほとんどないのかもしれない。
そう思わされているということに気づいていないのか。
こんなに人間がたくさんいるのに、みんな同じ方向を向いていることに違和感を感じないか。
何か遺伝子レベルで同じ方向を向くように仕向けられているようにしか思えない。
そしてこういった人間の直感は、間違ってはいないものだ。
どこまで影響を与えているか、影響を受けている側からは見えないものだ。
ではどうするのか。
我欲が意思に反して動きすぎると、感情も揺れるのではないか。
そういった仮定をしてみる。
怒りの感情が表出した時、自分の価値が陥れられたと安全の欲求が警報を鳴らしていると考えられる。
その感情に乗って行動をすることは、我欲に影響を受けていると言えるのではないだろうか。
分かりやすく行動に影響を与えている我欲しか認識できない方法だが、感情のコントロールはしやすくなるかもしれない。
だが分かりづらい影響も認識したい。
いつの間にか遺伝子に操作され、
自分の意思とは関係なく行動しているかもしれないから。
遺伝子に刻まれているものだから、消すことはできない。
よく宗教で欲望を消そうとしているが、遺伝子組み換えでもしない限り無理なのではないかと思う。
共存するしかない。
それならば、全ての行動が我欲に動かされていると仮定して、自分の目的に合った我欲を選択していくしかないだろう。
それは行動の選択と違うのかと言われるかもしれない。
全ての行動が我欲に影響を受けていると考えると、行動の選択はどこまでが自分の意思なんだ?
また同じ疑問に返ってきてしまう。
我欲の認識から始めると、こいつに乗っかってしまうとこの欲の目的は最終的に私の目的とは合わないと考えることができる。
行動の選択から始めると、もし欲望と目的が合っていなかった場合、常に邪魔されることになるのではないか。
それはつらいことだ。
欲望は自分自身だ。
自分自身と喧嘩しながら行動するのは苦しいのは目に見えている。
唯一絶対の味方が敵に回るのだから。
私は我欲を色の着いたモヤのようなものとイメージしている。
体の周りに常にいるモヤに、我欲の種類に応じて色がつくイメージだ。
その他にも大きさが変わったり揺れたりする。
いちいち、これはあの我欲だと言葉にする必要はない。
好き勝手イメージすればいい。
嫌な雰囲気であればそのモヤが無色になるのを待てばいい。
良いと思ったらモヤが変わる前に、行動する。
我欲の力を借りるんだ。
共存とはそういうものだ。
意見が一致すれば一緒に行動しないし、一致すれば一緒に楽しむ。
我欲を認識せずにいれば、話し合いもできない。
操縦席が2つあるようなものだ。
目に見えないものはイメージにより存在を与えることができる。
脳はイメージと現実の区別ができない。
賢いようで賢くないんだ。
辛いものを想像すると唾液が増えるように。
我欲に存在を与えられたら話し合おう。
これはスピリチュアルの世界ではない。
現実だ。
遺伝子により勝手に行動を決められないように、自分の頭で考えても良い時代だということを理解すること。
昔は頭で考えていると死ぬ状況が多かったから、
思考の自動化が進んだのだろう。
今はそんな時代ではない。
自分が楽しむために自分の頭で考える余裕がある時代だ。
自分自身と不自然に争いながら生きるのではなく、
共存により楽しく生きよう。
我欲は悪者ではない。私自身だ。
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