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書道と夫 | エッセイ

 真白な紙に、黒がすぅっと走る。

 伸びやかな線が踊り、三十秒ほどで一文字が作られた。べったりとした墨が筆を通すと途端に軽やかな文字になる様子は、いつ見ても不思議な気持ちになる。
 まあ、読めないのだが。

「それ、なんて読むの」
「秋」

 私の質問に答えながら夫はもう次の字を書いている。
 ぐっぐっと筆に力を込めてゆっくり書いているのに、滲むこともぶれることもないのはなぜだろう。私が習字をすると必ず、べちゃべちゃで曲がった記号のようなものばかりが発生するのに。

「その字は?」

 夫は答えつつ書き進める。
 自室にこもって作業をする夫についてまわっては喋り続ける私を、夫が邪険にしたことは一度もない。

 結局なにを書いたの、と聞くと、一枚書き終えた夫は反故紙(ボツになった習字の紙)の端に『秋聲連蟋蟀 寒色上梧桐』と筆先でさらりと読めるように記した。

「漢詩かな、どんな意味なの?」

 興味津々で聞く私に、首をかしげて夫は答える。

「知らない、良さそうなところを抜き出しただけ」

 そう、夫は内容にまったく興味がないのだ。
 書家を父に持つ夫は幼少期から二十五年、文字単体の美しさを突き詰めてきた。意味合いなど知らないこの書も、きっとまたなにかの賞をとるのだろう。
 字そのものなんてどうでもいい、内容に関心がある私はむくれてスマートフォンを取り出す。

 そんな私を見て夫は笑った。

「きみが詩をつくったら書かせてね」

 たったひとことで私の機嫌はたちまち直ってしまう。正反対の私たちは、今日も気ままにふたりで生活している。


「雨夜」明代、何景明の詩より


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