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サラバ、思いやり


いつもは降ろしているブラインドを、今日は降ろしていない。

部屋の明かりが、窓越しの街の夜景に重なって、映画のワンシーンを見ているようだ。

街で灯る明かりが、ぼやんとかすんで瞬いていて、窓ガラスが歪んでいるのか、窓に雨のしずくが滴っているのかと一瞬思った。

そういえば、きのうの夜も、わたしにはシトシトと降る雨音のようなものが聞こえて、ここちよい雨のなかに抱かれて眠るような心地で眠った。

その雨はなかったのだと、朝目覚めて知ったのだった。


母親は同じだけれど、まったくのちがう人間になったな、と思った。

親が、わたしたち姉妹を隔てるように育てたんだ、と思った。

そう思うことを、じぶんのうちから、それらの想いが湧いてくることを、許した。

わたしは、そう思ってるんだな。

わたしのなかには、そういう想いがあるんだな。

それを、ただ見た。

どんな状況でも、なったこともない、じぶんでもない“姉”の立場になろうとして、なれないからわかろうとして、いつだって想いやろうとしてきた。

でも、そんなこと、無理だ。

しなくていい。

やさしさという名の偽善だ。

そんなものを、いつまでもじぶんに押しつけるな。

ちがう人間だもん、姉妹だとしても、他人よりもわかり合えなくても、しょうがない。

だから、わかろうとしなくていいし、わかったふりしなくていい。

寄り添おうとしたり、想いやろうとしたりしてきたけれど、苦しかった。

それは、見せかけだから。

本心からじゃないから。

じぶんの本音を掘り当てられたほうが、じぶんにとってどれだけ幸せで、すべてのひとにとってどれだけ平和なことか。

本音では、“おまえのことなんか、わかってたまるか”だったし、“おまえだけが辛いわけじゃねーんだよ”だった。

そして、“でも、おまえにしかないものが、すごいと思ってたし、羨ましかったし、脅威でもあった”。

そう、“わたしは、あなたを恐れていた”んだ。

同時に“おまえに囚われて生きるじぶんが、悔しかった”。

でも、“おまえなんか”って、認めず目を背ければ背けるほど、その影は濃く強く大きくなっていった。

逃げたいのに、わたしはその影のなかでしか生きられない氣がしていた。

だけど、その“恐れ”を“平氣”なふりした仮面のしたに忍ばせたまま、偽りのやさしさで武装して歩み寄ったつもりでも、結局はどちらが相手より愛されるか、というパワーコントロールのシーソーのうえにいるだけだったんだ。

わたしは、“より愛されるのはどっちだ”という綱引きに、ほとほと疲れ切ってしまったのだと思う。

だから、今日わたしのなかから出てきた、それらの“真実”を、今までは決して“聞こえてこなかった”その本音を、聞くことができたことを、喜ばしいことだとお祝いしたい。


これからは、じぶんの喜びを、ほんとうの意味で、じぶんで賄っていかないと、と思った。

職場のOさんといい感じになれた、っていうことに今までは喜びを感じていた。

でも、そのためにわたしはじぶんにとって都合のいいところだけを見ようとしていた。

“彼は、わたしのパートナーになれるかもしれない”っていう目で相手を見ることで、恋のドキドキやわくわくをもらっていた。

でも、失望や幻滅もセットだった。

そういうのに、いちいち落ち込んでいたくない。

彼を、ひとりの人間として見よう。

まっすぐに、ありのままに、ダメなところも、見たくないところも。

そして、わたしも、ありのまま、ダメなままのじぶんでいよう。

目の前に未来のパートナーがいなくたって、今がクライマックスのBGMが流れていなくたって、わたしはどんなときだってじぶんとの物語を最高に生きている。


あと今日、おふろでふと考えていたことなのだけれど、たとえば1,000って数字は、9を足したら1,009になる、さらに99を足したら1,099になる、そして999を足したら1,999になる。

このなかでは999を足した1,999が一番大きい。

でも、1,000に“0”を“足した”だけで10,000になるんだよね。

この“ゼロ”の力ってすごいなと思ったの。

それと同じように、1に“ゼロを足す”と10、さらに“ゼロを足していく”と100、1,000、10,000…ってなっていく。

これは、ひととひとが出会って、いっしょに手を取り合っていくときに起きているんじゃないかなあと思ったの。

ひとりだったひとが、あるひとと出会うと10倍のパワーに、そしてもうひとり出会えば100倍に、もうひとり増えれば1,000倍というように。

1+1=2じゃなくて1+1=∞であるように。

ひとつぶが万倍になっていくような、ひととの出会いにはそんな力が働いているんじゃないかな。




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