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疲れてる、すべてに。


今日は、なにも書きたくない。

疲れてるし、絶望してるし、虚無感。

泣きたいほどなのに、涙は出てこない。

口を開けばネガティブなことばかりで、沈んでしまうと思ったら怖くて、なかなかnoteも書く氣になれなかった。


そとはすごい風が、音を立てて吹いている。

束の間、現実を離れ、“安心”でいられた。

また戻るのか、あの家に、と思うと、これから先がなくてもいいかなとふと思う。


母に、
「もう限界なんだ。お母さんの前では平氣で元氣に見せていたけれど、ほんとはれい、もうけっこう辛いんだ」
って言うことを考えたら、やっと涙が出てきた。

FaceIDがわたしのことを認識できないほど、今のわたしの顔は、涙で歪んでいるらしい。


今日はね、魂に響く衝撃を受けたの。

たんにショックだったっていうだけじゃないし、ただ“悪い”出来事だったわけでもない。

そのおかげで、わたしはまだ、じぶんをごまかして、うまくいけるって思ってたんだなってことに氣づいた。

“疲れた”は、からだだけじゃなくて、そんな生き方をしてることすべてに、魂が疲れてるんだなって思った。


わたしの今年のテーマを“参”にしていて、これは、降参、参加、Sun、33の意味合いがある。

“降参”ってね、“こうあるべき”を“やめる”ことなんだって。

諦めるとか、手放すとか、明け渡すの前に。

“こうしなければならない”と思っているすべてのがんばりと戦いをやめて、

“こうでなければ”というじぶんになろうとすること、ものごとをうまくまとめて、うまく行かせようとすることにウンザリして、

すべてを諦めて手放したとき、“奇跡”は起きる。

じぶんの人生の“本来の姿”を体験できる。

“無限の可能性”という人生を。

まあ、結果はどうでもいいんだけど。

いや、いいことに越したことはないんだけども。

宇宙はわたしにうんざりさせたかったのかなあって思う。

もううんざり!ってとこまで行かせて、一旦じぶんが描いている狭いリミッターの世界をぶっ壊したかったのかなあ。

たしかに、わたしはじぶんの夢を、じぶんが想像できる範囲で、しかも“いい”とされるイメージのものしか描けていなかった。

どこか頭で描いた、想定の範囲内のイメージで、心底、ワクワクはしていなかった。


“こうありたい”でも“こうでなきゃ”がわたしのなかでいつもいがみ合ってた氣がする。


いったん、“こうあるべき”理想の“夢”を諦めます。

わたしは、そうならなくたっていい。

じぶんを許すこと、ありのままのじぶんを認めること、これが一番怖くてできなかった。

どうしても、“こうでなきゃいけない”じぶんが出てくる。

一度ちゃんと、素直に開き直って、全力のサポートを求めて、治療に向き合ってみよう。


今日、こどもと遊んでいて、一生懸命草の根っこを抜いていたら、「『がんばる』はしなくていいんじゃない」って言われて、肩の力が抜けた。

こどものやさしさに、こころが救われた。

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