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中編小説「Thirteen」第十一話  再会

 目が覚めると昼前であった。琴音は一階に降りて無言で朝食を済ませた。父母は疲れた顔でテレビの方へ目をやっていた。ハイテンションな情報番組が流れていた。ひどく場違いであった。手持ち無沙汰なために付けっぱなしにするときのテレビ番組が往々にしてそうなるように。
 琴音は番組のノリに流されてしばらく観ていたが、じきに気分が冷め、自室へ戻った。
 画面を下にしてベッドの上に置いたスマートフォンを見ると、麻理恵からメッセージが入っていた。呑気なものだと呆れながらアプリを開くと、意外な文章が送られてきている。
「ねえ、寿馬がもうウチは帰った方がいいとか意味分かんないこと言うの」
 直後にカーチャが大泣きしているスタンプ。続いて
「ウチら逃亡して遠くで一緒に暮らす約束なのに意味分かんない。助けて琴音」
 琴音はいたく失望した。男女の仲と言っても結局白田先生はいざとなると麻理恵を子ども扱いするのだ。それは随分自分勝手で虫の良い態度に思えた。
「ひどいね」と琴音は送った。「ひどいって言ってやんなよ」
 すぐに返信があった。
「寿馬にそんなこと言えないよ。嫌われちゃうよ」
そして続けて
「寿馬戻ってきたからまた後で」
とあった。
 収束は早そうだ。琴音はせめてもの気晴らしにと音楽をかけた。しかしどの曲も耳障りであった。病気の時に口にする菓子に似た不快感があった。諦めてファッション雑誌をめくり、無聊を慰めた。麻理恵の恋愛は、悲しいことに失敗に終わったのだと、ページの端をつまんだとき琴音の脳裏に浮かんだ。目を閉じて、意識の上でも理解し、噛みしめた。

 すっかり暗くなってから電話が入った。琴音が慌ててスマートフォンを手繰り寄せると、発信者は麻理恵だった。
「もしもし?」
「もしもし琴音、あのさ、香穂叔母さんに、もう帰るからってパパに伝えるよう言ってもらえない?」
「帰ってくるの?」
「うん。明日は学校だからね」
 不自然なくらい落ち着いた麻理恵の口調からは悲痛な諦念が滲み出ていて、琴音は胸を痛めた。あの子は大いに期待させられていきなり裏切られたのだ。子ども騙しの理屈で無理やり納得させられ突き放された、その悔しさには琴音にも覚えがあった。大人はいくら子どもの味方の振りをしていても、都合次第で教育者に成り代わる。そしてその杜撰な欺瞞が気づかれないとでも勘違いしているのだ。身勝手にも程がある。
 憤慨しつつも、琴音は渦中の麻理恵と繋がったままのスマートフォンを母に手渡した。母は意外にも落ち着き払った態度で詳しい居場所を姪から聞き出した。
 すぐに伯父へ連絡が行った。伯父も伯母も麻理恵を探すために遠くの親戚の家に泊まり込んでいたので、琴音の両親が迎えに行くことになった。琴音は家で待つと強く主張したが、心配した母は留守番を許さなかった。

 父が運転し、母は助手席に座った。後部座席の琴音は自然と両親に背を向けられる格好となった。運転席の後ろ側だけを見つめながら、琴音は両親の会話を聞く。胸中では激しい感情が渦巻いているはずなのに、彼らは普段と変わらない冷静な口調で淡々と麻理恵の居場所と連れてくるときの段取りを確認し合っていた。麻理恵が家出した状況についてはあえて触れずにいるのがはっきり伝わってきて、琴音は気まずかった。
 夜の車内は真っ暗だった。道沿いに並ぶ看板の光が次々と窓から落ちてきて、膝の上を通り頭の後ろへ流れていった。家族を乗せた車は既に普段通る範囲を越えていて、旅行の際に一度だけ来たことがある道へ入った。あのときは小学生であった。一年に一度の遠出に心を弾ませ、高揚した気分でこの景色を眺めた。まさかこんなに深刻な気分であの思い出と再開するとは思わなかった。琴音は自分の行いがいかに不純で邪なものであったのかと、自らの胸にするどい刃を突き立てた。
 留め具が悲鳴を上げた。
 目的地に近づくにつれ、琴音は患部に触られるような痛みを覚えた。これ以上痛いところに入っていかないでほしかった。心臓が激しく動く。冷や汗が出てくる。手は思わずドアポケットを掴んでいた。

 コンビニの駐車場に停車し、父と琴音は座ったまま母が麻理恵を連れてくるのを待っていた。父は何も言わなかった。車で誰かを待つときはたいてい煙草を吸いに行くのに、今日は動かなかった。ハンドルに手を掛けたまま母が向かった方へ視線を向けていた。琴音は息が苦しかった。水が欲しいから買いに行きたいと言い出そうか迷っていた。だが言うタイミングをつかめない。
 いつまでもこのままでいたかった。琴音は、麻理恵が来るのが怖ろしくてたまらなかった。父と母が麻理恵に本気で説教したらあまりにもいたたまれない。それが不安であった。今の両親は怖い声を出しかねないように見えた。
 父が様子を変えて動き出し、母が少し微笑みながら麻理恵と一緒に姿を現したことに琴音は気づいた。ロックが開く音がして、助手席のドアが開き、外の音が急に鮮明になった。麻理恵を後部座席に座るよう促す母の声が聞こえた。麻理恵はドアを開けるなりはしゃいだ。
「琴音ー、来たんだ。久しぶりー」
 呑気で人懐っこい従妹の声を聞き、琴音は苦笑いして手を振った。麻理恵は見覚えのない大人びたコートを着ていて、ブーツを履いていた。一瞬付いた車内灯に照らされた顔は薄く化粧をしているようであった。首元には金色のネックレスがぶら下がっていて、漂う香りは明らかにシャンプーの香料ではなく香水であった。琴音は自分が身につけているジャージとスニーカーがひどく野暮ったく思えた。
「発車していいかな?」
と父は前を向いたまま言った。琴音が大丈夫、と返事をした。
 
 帰り道、父母は麻理恵を叱らなかった。問いただすこともなかった。ただ子どもたちに背を向けて前方を見つめていた。マナーの悪い車を見て文句を言うだけで、核心に触れることはなかった。
 琴音は麻理恵が漂わせる匂いに気絶しそうであった。彼女が纏っていた雰囲気はあまりに挑発的で色っぽかった。私が全く知らない領域にこの子は足を踏み入れ、堪能していた。性の正体を知ってしまった。すっかり大人になってしまって元には戻らないのだ。両親は、この子の変化を私より敏感に察知して、それでいて気づいていない振りをしているのだ。こんな場面、耐えられない。逃げたい、逃げたい。琴音は苦痛にさらされながら密かにうめき続けた。
 ある瞬間に、とうとうねじが砕けた。限界だった。
 
 悲痛で深刻なはずなのに、麻理恵は無邪気にスマートフォンをいじっていた。平気なのかと琴音は横目で見ていたが、車が藤沢の家の前に着いて、麻理恵が降りようとした瞬間、父が
「お父さんとお母さんには、全てを話さないとダメだよ」
と忠告し、麻理恵の表情は一気に崩れた。分かったよ、と言った声には涙が混じっていた。降りた後で泣くのだろうと、琴音には分かった。
 
 しかし琴音にとって最もつらかったのは麻理恵の泣き声ではなく、直後の両親のやりとりであった。
「あの人たち大丈夫かしら。こんなことになって」
「大丈夫なはずがないだろう。あんなの、昔なら追い出していたところだ。大馬鹿。まともに口を利く気にもなれない」
 留め具が弾け飛んだ。琴音の心は決壊した。

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