短編小説「輪舞曲(ロンド)」
囚われた姫は鍵が掛かった牢へ入れられ、外界との連絡を絶たれた。牢は薄暗くて狭く、殺風景で、下等な造りの床は冷える。どことなく嫌なにおいがした。鉄格子の向こうには誰も姿を現さない。自分の呼吸以外の音はほとんど聞こえない。こんなところに閉じ込められて、なんと惨めなことだろう。
姫はひたすら、愛する王子が助けに来るのを待っている。
***
私は陽二を初めて見たときから、陽二のことが好きだった。いや、好きなんて言葉では言い表せないくらい大きく深い愛を彼に注ぎ続けて生きてきた。
陽二は私のいとこで、かなり幼い頃から顔を合わせてきたから、向こうは初対面がいつだったかなんて覚えていないかもしれない。でも私は覚えている。私が三歳で陽二は四歳のとき、彼は伯母と彼の兄と一緒に初めてうちの庭に現れた。陽二はあまりにも美しくて可愛くて、太陽の光を集めたようにまぶしかった。
シルクのような白い肌とリスのような楕円形の真っ黒な瞳、通った鼻筋、薄い唇、端正な輪郭。今の彼の美しさは、そのとき既に、確かに彼の上にあった。庭遊びをしていた私が幼いながらに見惚れていると、彼は私の方を見た。目と目が合った。あの瞬間に、私は宿命の恋に落ちた。
陽二と会うとき私はいつも彼の隣にいた。ゲームやトランプやカルタをするとき、私たちはいつも二人一組で他の子どもたちと戦った。陽二は遊びが始まると、「さやか、来な」と私を呼んだ。大人たちは私たちの様子に感心して「将来は結婚だな」とか「さやかと陽二はぴったんこね」と言ったりした。私は一つ一つの言葉が嬉しくて、当然大人になってからもこうして一緒にいるのだろうと確信を深めていった。
一度、陽二に
「大きくなったら結婚しようね」
と言ったら
「ええー」
と照れていた。約束の言葉が欲しかったから、
「他の女の人と結婚しないでしょ?」
と聞いてみた。すると陽二は顔を真っ赤にしてうなずいた。
「しないよ」
私は歓喜した。陽二と私は両思いだ。大人になったら結婚できる。二十歳になったら結婚しよう。結婚式では白無垢ではなくウエディングドレスを着たい、などと具体的に空想した。それが一番楽しい時間だった。
でも陽二は小学五年生になったとき、それまでのように私と一緒にいたがらなくなった。
あのときの彼は見た目からしてワイルドな雰囲気を漂わせており、人が変わってしまったかのようだった。以前はどこまでもかわいらしい男の子だったのに、急になんだか乱暴で怒りっぽくなってしまった。伯父や伯母に常に反抗していた。
私がいつも通り隣へ行こうとすると、
「お前なんでこっち来んの?」
なんてひどいことを言ってくるので、抱きついてみると
「触んな」
と私を突き飛ばして身体を離してしまった。私は大泣きした。陽二は反省するかと思いきや、
「うるせえ」
と言って席を立ち、家の外へ出てしまった。伯母が連れ戻しに行った。
親戚が帰ってしまってから、母は私に思いがけないことを言った。
「陽二はもう年頃だから、ベタベタするの嫌なんだと思うよ」
そんなことがあってはたまらない。私たちは将来を誓った仲であって、いつも一緒でいなければならないし、結ばれなければならない。私は子どもの戯言で陽二に愛を伝えていたわけではない。陽二は私の全てだし、私のものなのだ。どうして陽二はあんなに意地悪なんだろう。
その後も陽二の粗暴さは直らなかった。私が抱きつくことを二度と許してくれなかった。以前とは真逆の態度が胸に突き刺さった。
しかしあるとき理解した。彼は思春期だから、異性の私と仲良くするのが恥ずかしいのだ。ただそれだけのことであって、私のことを好きなのは変わらないし将来結ばれるのも変わらない。なぜならそれは最初から決まっていたことだからだ。
私たちは許嫁だ。両親と伯父伯母が決めたわけではなく、天がそう決めたのだ。私たちは結ばれる運命にある。宿命なのだ。それが飲み込めると、彼の素直でない言動も許せるようになった。
やがて私は高校へ行くようになった。だが高校は最低の場所だった。
小学校では好きな人の話になったとき、
「私には決まった相手がいるの」
と言うと周りはどよめいて、どういうことかと興味津々に聞いてきた。私が答えると、皆感心したものだった。
だが中学校に上がって、同じように言うと、
「それ決まった相手って言うの?」
「言わなくね?」
と疑問を呈され、馬鹿にされた。どうして私と陽二の深い関係に疑いを差し挟む余地があるのか、全く理解できなかった。私は懸命に言葉を尽くして説明したが、分かってもらえなかった。不協和音はそのやりとりを機に始まって、私は中学校では頭がおかしい人でもあるかのように扱われ、誰と話しても彼らが他の生徒に対するときとは違う態度であしわられた。まともに相手にされなかったと言ってよい。
そして高校では、誰も私と口を利いてくれなくなった。談笑しているグループに私が近づくと、みんな無言で目を逸らして離れていってしまう。取り残された私はただ立ち尽くすしかない。
結局、私は二年生には上がらないことになった。
「無理して行くことない」
と父に言われて、私は学校をやめた。いよいよ陽二のところにお嫁入りする準備を始めるから、高校なんてつらいところには行かなくてよいことになったのだろうと思った。いいお嫁さんにならなくては、と思って、料理の仕方を調べたり、化粧をし始めたりした。
次の秋、私は陽二にあげるセーターを編むことにした。編み物なんてしたことがなかったけれど、愛する彼のためと決意し、毛糸と編み針、編み物の本を買ってきて、相当頑張って作った。失敗をたくさん繰り返したが、めげずにやり続け、一着作った。陽二のためだけにこんなに一生懸命になる私は、やはり陽二に心底惚れているんだなと実感した。
できあがったのは、みかんのような濃いオレンジ色のセーターだった。
お正月の集まりのとき、私は両親に、
「親戚と会うのなんて面倒だろうから、出なくていい。部屋にいてくつろい
でなよ」
と言われていた。でも当然頃合いを見計らい、できあがったセーターを手に部屋を出て、陽二に会いに行った。
私が近づいても、陽二は私の方を見ようともしなかった。なんて照れ屋なんだろう。
「陽二、これあげる。着てね」
とセーターを渡した。すると陽二はセーターをちらっと見て
「いらねえ」
と言い、顔を背けた。
「なんで? 陽二のために二ヶ月かけて作ったんだよ。全部私の手編みで、愛情がたっぷりこもったセーターだよ?」
「いらねえって」
なるほど、皆の前だと受け取るのが恥ずかしいのだ。後で一人になったと
き渡そうと決めた。私のところに母がやってきて
「部屋にいなさい」
と小声で、しかし強い調子で言ってきた。私は一旦部屋へ戻った。
数時間後、一階から聞こえる音で、集まっていた客たちが帰るのが分かった。私の部屋がある二階の、階段の上から、陽二が帰ろうと靴を履いているのが見えた。今だ! 私はセーターを持って、彼に近づいた。
だが伯母が変な笑顔を見せながら陽二と私の間に立ち塞がるようにして話しかけてきた。
「そのセーター、うちの陽二なんかにはもったいないよ。大丈夫。心配してくれてありがとうね。さやかちゃん、それ、自分で着たら? すごく素敵よ。自分で編んだセーターを着るなんて大人っぽくてかっこいいじゃない」
なんて、何も分かっていない、的外れ極まりないことを次々と言ってきて、邪魔で仕方がなかった。そうする間に陽二は靴を履き終え、外へ出て、
車へ乗り込んでしまった。
「伯母さんから、渡してください」
と私はきれいに畳んだセーターを両手で差し出したが、
「本当に大丈夫だから」
と言って伯母も靴を履き出した。外へ出るとき伯母は
「もっといい人見つけてね」
なんて腹立つ台詞を投げつけてきた。邪魔者に阻まれたせいでせっかく作ったセーターを陽二に渡せなかった。あんなに時間をかけて苦労して作ったのに。本当なら、陽二は渡したときその場ですぐこれを着てくれるはずだったのに。
私は激怒して、陽二がもらってくれないんじゃこんなものあっても仕方がない、とセーターを引き裂いた。絡みあった毛糸をいくら引きちぎっても怒りは収まらなかった。
もうすでに、私の世界の全ては陽二だった。
耳にする恋愛ソングは全て私と陽二の曲に聞こえた。私がわざと当てはめているのではない。自然と全ての曲が私たちの歌に聞こえるのだ。明るい曲なら幸せな気分になれたが、失恋ソングを聞くと一気につらくなった。
音楽だけではない。信号も電柱も草花も、空も雲も、色違いのペンも、目にするもの耳に入るもの、触れるもの嗅ぐもの味わうもの、あらゆる全てが、全て私と陽二の関係を示しているように見えた。何に接しても、私たちはこんな風に寄り添って生きるのね、と確認できる。これだけ私の周りの全てが陽二一色に染まっているのは、陽二が私のことを想うときの強いエネルギーがこちらまで伝わってきていることの表れに違いないから、陽二の気持ちをも確認できる。とても嬉しい。今もずっと変わらない。
これだけ私が想っている相手が、私のものにならないはずがないのだ。そんなの道理が通らない。陽二は私のものだし、そうあるべきなのだ。陽二と私は何があっても結ばれなければならない。
両親と姉が私の前で陽二の話をしないようにしているのは知っていた。だが陽二が大学生になると同時に一人暮らしを始めることは聞いた。ならば、私たちの関係を理解しない人間しかいないこんな家を出て、彼と一緒に住もうと決心した。
彼が入学するのはどこの大学かは教えられなかったが、とっくの昔に陽二が運営しているSNSアカウントを突き止めてずっと見張っていたので、難なく知ることができた。両親や姉に話すと妨害されることが見えていたので、こっそりと計画を進めた。
私は自分の部屋で荷物をリュックに詰められるだけ詰めて家を出た。長い距離を行くための高い切符を買い、電車に乗って、彼が通う大学まで歩いていった。大学の門の前で正午から夕方まで、半日くらい陽二が出てくるのを待った。彼のためならそれだけ待つことくらい平気だった。春半ば、日差しの暖かさが弱まって夜の冷えが頭をもたげる頃、陽二は友だちと一緒に大学の構内から出てきた。私は久しぶりに彼の顔を見た。彼は当たり前に、昔と変わらず美しかった。
私は彼の側に駆け寄りながら叫んだ。
「おーい陽二、陽二! こっちこっち」
彼はこちらを向いた。私を見た瞬間、驚いた様子で顔をこわばらせた。
「え、どうして」
「私、陽二と二人で住むために家を出てきたの。一緒に帰ろう。家まで案内
して」
陽二は戸惑った様子で慌てていた。二人いる彼の友だちがこちらを伺ってくる。
「この人、木原の知り合いなの?」
「誰?」
怪訝な顔で言って探るような目つきでこちらを見てくるので失礼だと感じたが、陽二のために我慢した。だが陽二はつれない返事をぶつけてきた。
「来ないでくれ。家帰れ。ついてくんなよ?」
そして友だちの服の肩の辺りをそれぞれひっぱるようにして、
「何でもない。行こうぜ」
と言って遠ざかってしまった。
やはり友だちの前で未来の結婚相手と話すのは恥ずかしかったのだろう。私はそのままバレないように後をつけて、彼が住んでいる学生アパートの場所をつきとめた。
次の日、今度は学生アパートの入り口の前で待っていた。彼一人なら、心にもない冷たいことを言わず、私を部屋へ入れてくれるだろう。リュックは重かったので、背負っているのが大変だった。それでも愛の力で耐えて待った。
学生アパートに入っていくのは男の子ばかりで、男子寮なのだと察した。みんな私のことを睨みつけながら横を通り過ぎていくので、居心地が悪かった。陽二がこの人たちに私を紹介したとき、きちんと歓迎してくれるか不安だった。
昨日より大分待った。陽二はようやく私の前に現れた。
彼は私を見るなり
「ふざけんなよ」
と嫌そうな顔つきで吐き出すように言うので驚いた。
「今は人前じゃないからそんな風に言わなくて大丈夫だよ」
「なんでここ知ってんの? 誰かに聞いた?」
「私は陽二のことは何でも知ってるの」
陽二は不愉快そうに顔を歪めるばかりで、私は訳が分からず泣きそうだった。
「二度と来ないでくれ。記憶からみんな消してくれ。頼むから」
「何でそんなひどいこと言うの?」
「マジでそれ言ってんの? うわあ。勘弁してくれよ」
彼は顔を背けた。
「親に言うからな。次俺の前に現れたら警察にもってく。言ったからな。……本当に本当にもう来ないでください。お願いします」
彼はそう言うと俯いて入り口から素早く建物の中に入ってしまった。私も入ろうとしたが、自動ドアはオートロックらしく、すぐ閉まってしまって入ることができなかった。
きっとよほど機嫌が悪くて私に八つ当たりしてしまったのだろう。親しくない相手ならどうしても気を遣うから当たり散らしたりできないはずで、機嫌の悪さを出してしまうのは私に心を開いている証拠である。やはり陽二は私のことが好きなのだ。
機嫌がよいときもあるだろうから、そのときを狙って話をすることにした。基本的に陽二は朝ここを出て大学へ行き、夕方帰ってくるはずだ。アルバイトや遊びのために出かけるかもしれなかったが、そのタイミングは分からない。建物の周りを探索したところ、学生アパートにはこの入り口しか出入りできる場所がないことが分かったから、ずっとここにいさえすれば陽二とまた会える。
それから何日も私は学生アパートの前から動かなかった。入り口の段差に座っていたり、前の道路を何メートルか歩いたりして時間を潰した。若い男の子たちがかなりの人数住んでいるらしく、たくさん出入りがある。一瞬の隙もなく張り付いて見ているので、陽二が出るときも入るときも見逃さなかった。
不機嫌はいつまで続くのか、陽二は私が近づいて話しかけても無視して走って行ってしまう。つれない態度が悲しくてたまらない。
ある日、学生アパートから年取った男の人が出てきて、私に声をかけてきた。
「あんた最近ずっといるけど、ここで何してんの?」
「ここに住んでいる人と話をするためです。嫌なことがあるのかずっと無視
されてて、話ができなくて」
「学生たちみんな迷惑しているんで、やめてもらえませんか。帰ってください」
「私も話ができなくて、困っているんです」
「警察を呼びますよ」
「だって私、何も悪いことしてませんよ」
話が通じない年寄りだなと思って苛立っていたら、いきなり後ろから誰かに腕を掴まれたので驚いた。
掴んできたのは母だった。姉も一緒にいた。母は血相を変えて叫んだ。
「何してんのさやか!」
「お母さん、陽二が話をしてくれないの」
母は私を無視して、私と話していた年寄りに頭を下げた。
「申し訳ありません。この子病気でして」
「早く連れて帰って下さい」
「すみません」
私は母と姉に両脇から挟まれるような形で身体を掴まれ、無理矢理その場所から引きずられて家まで連れて行かれた。
夕方、父と母にものすごく叱られた。こんなに強く叱られたことは一度もなかった。私がいくら心の中の強い思いを伝えようとしても、両親は聞く耳を持たず、私をひたすら怒鳴りつけた。強い言葉と大きな怒鳴り声に身体を殴られたような衝撃を受け、私は大泣きした。それでも怒られるのは終わらなかった。陽二のことは忘れろと、ありえないことを何度も言われた。
夜、姉が泣きながら
「陽二くんはあなたのお人形さんじゃないのよ」
と私に言ってきた。
私はこの人たちに負けないで陽二と結婚しようと心から誓った。結ばれる
べき相手と結ばれないのは双方の不幸ではないか。
私は一人で家から出してもらえなくなった。「泥棒が入ったら危ないから」と言いながら両親と姉は私の部屋に外からしか開けられない鍵を取り付けた。夜中は鍵を掛けられてしまい、外に出られない。
連れ戻されて一ヶ月経った頃から母に何度か病院へ連れて行かれた。四十代くらいの、白衣を着た女の人と、部屋で二人きりで話をさせられた。私の言うこと全てに、妙に共感を示してきて、気味が悪かった。
お医者さんには薬を出された。私は病気ではないから薬なんて飲む必要がないのに。飲みたくなかったが、毎晩両親に怒られるので、飲む振りをした。いつも錠剤を口の中に入れておいて、後で吐き出し、トイレに流した。夜はいつも舌が苦い。
そのうち、福田さんという母より少し若いくらいの太った女の人が家に出入りするようになった。ケアマネージャーだとか名乗っていた。福田さんが家にいる間に、母はよく外出していた。父と母と姉と福田さんが交代で見張り、私を外に出られなくしていた。彼らは、そのことを私は理解していないと思っているようだったが、私は当然知っていた。あまりにも人を馬鹿にしている。
何年も陽二に会えなかった。連絡を取る手段もなかった。陽二に会いに行かせてほしいと何度両親に頼んだか分からない。しかし叶わなかった。
ある法事のとき、私は福田さんと留守番させられていたが、終わってから、両親と姉とともに親戚のおじさんが家までやってきた。
私はリビングでスマートフォンをいじっていたが、両親はおじさんと話をしていた。あるときおじさんが
「あれ、木原さんとこの陽二くんは結婚したんだよね」
と父に言った。父は慌てた様子を見せ、私の方に目をやったが、すぐにおじさんに向き直って
「去年式を挙げてね、向こうの家は兄弟とも相手見つかったからよかった」
なんて言っていた。
私は立ち上がって部屋へ行った。聞き捨てならない。
その後母から私に、陽二は結婚して幸せに暮らしていると話をされた。もう諦めたとは思うけど、変なことをしないようにね、お母さんさやかのことを信じているから、とも。
私は平気な振りをした。ここで動き出したら確実に止められる。胸の中では強烈な怒りと悲しみが巨大な渦となって全てを蹴散らしていたけれど。
陽二に近づこうとすればするほど彼が遠ざかっていくのはどうしてだろう。
ある平日の昼間、私は見張り役の姉がトイレへ行ったとき、トイレの戸の前に重い椅子を重ねて置いて、姉が出られないようにした。
そして支度をして、落ち着いて家を出た。トイレからは姉の叫び声と拳で戸を叩く音が響いていたが気に留めなかった。
陽二は大学生のときにSNSアカウントを一度削除していたが、少し経ってから再度作り直した。私は彼の友だちのアカウントも見張り続けていて、全力を出して陽二の新しいアカウントを見つけた。それはずっと前のことではあったけれど。でも結婚した話はどこにも出ていなかった。
事前に、SNSに書かれていた情報と写真をインターネットの情報と照らし合わせて、陽二が暮らす社宅がどこか突き止めてあった。陽二が仕事に行っている時間帯も。
陽二が家にいない時間を見計らって、勝手に妻を名乗っている女に会いに行く。女がどう出るか分からないから、護身用にホームセンターで包丁を買っていった。駅のトイレの個室に入り、パッケージを取り払って、刃の部分をハンカチで巻き、リュックに忍ばせた。
目当ての社宅に着いて、インターフォンを押すと、本当に若い女が出てきた。
「はい」
女は太り気味の体型で、目が大きめなこと以外どこも見た目に取り柄がなさそうだった。
「陽二と結婚したって本当ですか?」
「はい?」
「自分は木原陽二の妻だと思ってるのは本当かと聞いているんです」
女は眉を寄せて、不審そうな目で私を見てきた。
「どちら様でしょうか」
「陽二のいとこです。家入れて」
「あの人の親戚の方なんですか」
「そうです。早く中に入れてください」
しぶしぶ女は扉を開けて、私を家の中に入れた。
私は玄関から上がって廊下を歩いていった。リビングへ通された。リビングは散らかり気味で、生活感に溢れていた。人間が二人で暮らすために必要ながらくたが部屋を埋めていた。
陽二とこういう風に仲良く暮らすのは私のはずなのに。どうして私ではなくこんな女が奥さんをやっているんだ。
「今日はどういったご用件でいらっしゃったんですか」
「あの」
「はい」
「別れてください。今すぐに」
「はい?」
「陽二と別れろっつってんの。陽二は私のものなんだから。あんたなんかの
ものじゃないの」
「おっしゃっていることがよく分からないのですが」
「私は子どもの頃からずっと陽二と一緒で、ずっと好きだったの。それは陽二もそう。あんたなんかとくっついたのは、何かの間違いなんだよ!」
中々理解されない苛立ちから、足で床を蹴りながら大きな声で話した。それでもいまいち伝わらないらしく頭にきた。
「あの、えっと、陽二さんの親戚の方でいらっしゃるんですよね?」
「そうだっつってんでしょ」
「何が言いたいんですか?」
「だーかーら、別れろってそれだけ。早く別れてよ、陽二を返して!」
女は最初困惑した様子だったが、不快感を露わにし始めた。
「おっしゃっている意味が分かりません。今日はお引き取り願えませんか」
「こっちだって意味分かんない。早く別れろ。はーやーくー! 離婚しろ。離婚離婚離婚」
「帰って下さい」
やがて女は吐き気がするとでもいう風に右手を口の前に持ってきた。そして信じられないことを口にした。
「私、お腹に子どもがいて、体調が悪くなりやすいんです。そういった意味の分からないお話をされると身体がつらいんです」
「妊娠?」
「そうです」
「陽二との子だなんて言うんじゃないでしょうね!?」
「陽二さんの子どもですけど」
「はああああ!?」
陽二との子どもをこの女は妊娠している。陽二と身体の関係を結んだということ。陽二といやらしいことをして……。
頭の中が沸騰しそうだった。訳が分からない。そんなことが許されてたまるものか。私以外の女と陽二がセックスしたなんて。二人でこっそりベッドに入って裸になったなんて。契りを結んだなんて。
有無を言わせぬ猛烈な殺意が胸の底からせり上がってきた。憎い憎い憎い! 私の男をこの女は奪った。奪って肉の関係を結んだ。殺してやりたい! 何がなんでも亡き者にしなければならない! 火がついたように頭が熱く、熱を帯びた涙が大量に流れてくる。
「そんな、そんなの許さない! ふざけんな!」
そして一瞬で理解した。この女さえいなくなれば、陽二は戻ってくる。こいつとその子どもさえ亡き者にしてしまえば。陽二と二人でここに住むのは私だ。私はリュックから包丁を取り出した。
「殺してやる! おろせ! そんな子ども認めない! あんたのことも認めない! 死ね」
女は悲鳴をあげて怯えきった表情を見せた。
「やめて、やめてください」
刺してやろうとしたが、向こうもおろおろしながら必死で逃げるのでうまくいかない。逃げられると余計に怒りが湧いてくる。私から陽二を奪ったくせに、小癪にも逃げるなんて、許せない。殺してやろうと追いかけた。女は玄関に向かって逃げた。外に出るつもりらしかった。
扉の外に出られる前に刺さなければと、私は全てを捨てる勢いで女に向かって突進した。
すると突然扉が開いた。
入ってきたのは大人になった、スーツ姿の陽二だった。女の顔を見て言う。
「華ちゃん、どうした」
「助けて!」
「おい、何をしているんだ!」
陽二が私を見つけて、叫んだ。
「陽二、迎えに来たの。こんな女と別れて、私と結婚しよ」
「華子から離れろ!」
女は陽二の後ろに隠れてしまった。陽二は両腕を広げて私の前に立ちはだかった。これでは殺すことができない。
「そんな女殺してあげるからさー! 私と一緒になってよ!」
「警察を呼ぶからな」
既に女は陽二の後ろで泣きながらスマートフォンを耳に当て、電話をかけていた。
愛しの陽二からは敵意しか感じられない。私は涙を拭うこともせず叫ぶ。
「なんでいつもそんなに冷たいの!?」
「俺は華子と一緒になって幸せに暮らしているんだ。どうしてお前こそ、いつも勝手な言い分で俺に絡みつこうとしてくるんだ」
「私は陽二と結婚するために生きてきたの」
「俺はお前とは結婚しない」
「なんでよ」
感情が爆発して、私は地団駄を踏んだ。
「私は昔からこんなに陽二のことが好きで、陽二のことだけ考えて生きてきたのに、なんで陽二は私のことを好きになってくれないの? 私のことを選ばないの? 私にはあなたしかいないのに。あなたのことで頭がいっぱいで、そんな女なんかよりずっとずっとものすごく陽二のこと想っているのに、なんで私じゃなくてそんな女を選ぶのよ! 結婚するって約束したじゃない」
「そんな覚えはない」
「したんだよ! 覚えてないなんて言わせない。私以外の女とは結婚しないって約束したじゃない! 陽二は私のものなの! 小さい頃からずっとそうだったじゃないの。私は好きだって言ってんのにどうして皆で私の言うことも気持ちも無視するの? どうしてこんなに好きなのにあなた一人のことさえも手に入らないの!? ……ねえ、なんとか言ってよ! 無視しないで! わああああ」
顔がぐしゃぐしゃになって、涙が滝のように流れてきて、鼻水も出てきて、声はうわずってうまく出なくなってきた。頭にきて、片足で地面を蹴りながら、しゃがれ声で叫び続けた。あまりにも無力だ。そうするうちにサイレンの音が近づいてきた。
そして警察官たちが家に入ってきた。あの女と陽二をかばいながら、二人と私の間に入ってきて、私に鋭い眼差しを向けた。彼らは怒鳴る。
「凶器を捨てなさい!」
「陽二と話をさせて」
「武器を捨てなさいと言っている!」
「嫌!」
すると警官が三人私に近づいてきた。包丁を向けたが、一人が固い棒で私の右の腕を思い切り叩いてきた。骨が折れるかと思った。
「痛っ! ひどいよ」
だが肝心の包丁は落ちてしまった。警官たちは私の腕を力づくで背中に回
し、身体を壁に向かって押さえつけた。逮捕する、と言って私の両手首に手錠をかけてきた。私はそのまま強引に連れて行かれて、パトカーに押し込まれた。
「木原陽二さんとはどういう関係ですか?」
「陽二は私の夫です。夫を奪われたから、取り返しに来たんです」
「本当に木原陽二さんはあなたの夫なのですか?」
「はい。私たちは子どもの頃から結婚する約束をしていました」
「包丁を持って押し入った動機は何ですか?」
「だから、夫を奪われたから取り返しに行ったんです。頭にきて頭にきて。私が持って大切にしていたおもちゃを他の子どもが我が物顔で使っていたら許せないでしょう? 怒って当然でしょう?」
警官は全く共感する様子がなかった。どうでもいい質問を繰り返した。疲れてきて、私が適当な返事をすると
「真面目に答えなさい」
と厳しい態度で言ってきて、怖かった。
私は家に帰してもらえず、写真を撮られ、指紋も取られた。しばらくここにいてもらうことになる、と静かな建物に連れて行かれた。そこでは手荷物を没収された。ベルトも取るよう言われ、ボタンがついているからとカー
ディガンも持って行かれた。靴はサンダルに履き替えさせられた。
ここは留置場という場所らしかった。こんな場所があるなんて知らなかった。私がある場所に入ると、外から鍵が掛けられた。目の前は鉄格子で囲われている。どうやっても外に出られそうにない。ほとんど何もない空間だ。トイレは内部に取り付けられていた。こんなところで用を足せだなんて、屈辱だった。
私は隅でしゃがんで、陽二が助けに来るのをひたすら待っている。何日
経っても誰も会いに来ないが、私の陽二は必ずやってくる。私は信じている。
了
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