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中編小説「Thirteen」第五話 菊大会

 何年も使っているために色褪せてきた横断幕には「××市菊大会」と大きな字が印字され、周囲には輪郭がぼやけた菊の絵が描かれている。琴音は数名の同級生たちと横断幕の下をくぐって広間に入った。ブロックごとに参加者が育て上げた菊が思い思いの形で展示されている。午前中から夕方まで一般客たちに公開され、最後に審査員が今年の最優秀賞を発表する。毎年恒例の催しだからと市民、とりわけ高齢者や親子連れがこぞって集まるのであった。出店も出るので大半の客はたこ焼きや綿飴や焼きそばを買って食べる。
 一緒に行く人が見つかったことに琴音は安堵していた。同じクラスの三人と他のクラスの二人で構成された今日のグループに何とか入れたのだ。豊子を誘ったときは、琴音ちゃんなんかと行ったら私のランクが下がっちゃうじゃん! と大声ではっきり拒否された。それから密かに、しかし必死に一緒に行く人を探して彼らの中に滑り込んだ。全員と特別仲が良いわけではない。普段ほとんど口を聞く機会がない者も混じっていた。琴音は別に菊が好きなわけではなく、人混みも苦手だ。しかし菊大会にすら行かないで家にいるなんて周囲に思われたくないから行くしかなかったのだ。ぼっち認定されたくない、それだけが今回見に来た理由だった。
 通路を挟んで両側に飾られた菊が並んでいる。道の真ん中を寝ぼけた猫並にゆっくりと歩きながら、彼らはさきほどから同級生の無責任な噂話をし、勝手な決めつけをして盛り上がっている。
「水橋はちょいイケオーラ出してるよねわざと」
「出してる出してる」
「完全ナルシでしょ」
「絶対さあ、しょっちゅう鏡見てるよね」
 琴音は横に並んだ列の左端から、代わる代わる発言する五人を眺め、会話に混じろうと躍起になった。だが話題はよく知らない他のクラスの男子のことであるためうまく言葉が見つからなかった。
「お母さんにさ、もっといいシャンプー買ってくれって」
「言ってる言ってる。普通のじゃ俺の輝きが出ないから! って」
 全員が大笑いしたので琴音も一緒に笑った。正直何のことだかさっぱりわからない。名前くらいは聞いたことがあるが、思い浮かべた顔はぼやけている。何部なのかすら分からない。
「あれは確実に柏木のことライバル視してる」
「えー水橋なんかが柏木に敵うはずないじゃん」
「ねえちょっと皆、見なよ。こいつ超必死じゃん」
「柏木のこと好きだもんね」
 ある一人に視線が集中した。他の者は彼女を冷やかした。琴音は隣の者に
「え、あの子柏木のこと好きなの?」
と尋ねた。
「そうだよ。もうゾッコン」
「ちょっと勝手に教えないでよ」
 それがきっかけで話題はそれぞれの好きな人のことに移った。順番に恋の進捗状況を打ち明けあっているうちにグループは興奮し始めた。表情が無頓着な崩れを見せていやらしく、内緒のはずの話し声は周囲によく響いた。大会に来ても本当は菊なんか全然見る気がないんだなと琴音は一人心の中でつぶやいた。
 ふと気がつくと左端の琴音に皆が注目していた。
「植田はC組の坂下のこと好きなんだよね?」
「進展あった?」
「まさか付き合ってる?」
「顔赤くしてないで正直に言うんだ、さあ!」
「なに、本当にカレカノだったりするの?」
 琴音が対処できないほど次々言葉が浴びせられた。言葉の繋ぎ目を見計らって返答を滑り込ませる。
「いや、なんか最近そんなでもないっていうか」
「付き合って長いからわざわざ好きとか言わなくなった?」
「やるじゃん」
「いや、違うの」
 琴音は両手を身体の前で大きく振って否定する。
「あんまり好きじゃなくなった。もう好きとか感じない」
「えー。なにそれ」
「つまんないの」
「他に好きな人できたとか?」
 琴音がはっきりと、誰のことも好きではないと宣言するやいなや他の者たちは落胆し、早く次の恋愛をしろと口々に勧めた。琴音は必死にごまかしながら、話題が他のことに移らないかとそれだけ願い、顔を引きつらせた。

 そもそも琴音は好きということにしていた男子に本気で恋していたわけではない。周りが何かといえばすぐ恋の話をするから、好きな人の一人もいないと体裁が悪いため、良さげで他の女子の好きな相手と被らない男子を適当に選んで挙げていたのだ。しかし今は恋愛を一切受け付けなかった。何日か前に麻理恵から話を聞いて以来、気持ちが悪くて仕方ないのだ。
 麻理恵は興奮気味に電話を掛けてきた。メッセージでは物足りないといった様子で。
「寿馬の部屋行ってさ、超関係深まったよ。いろんな意味で」
「えっ」
 琴音は青ざめた。額の血管が浮き出たようだった。
「ふふ、分かる?」
「私の想像と一緒かな?」
「一緒か、もっとすごい」
 もう電話を切りたいなと琴音は思った。逃げたい。 
「もう何しても恥ずかしいなんて思わないよね、ウチらは」
「……最後までいったの?」
 声を絞り出して確認した。一呼吸置いてから麻理恵は誇らしげに言った。
「知ってる? 琴音、コンドームってね、表と裏あるんだよ」
 琴音は息をするのも忘れ、瞼を強く閉じた。全身で嫌悪感を感じて気分が悪くなり、本当に吐き気と頭痛をもよおした。

 恋の延長線上にある生々しい世界を知った琴音はもう誰かを好きと思えなかった。そして麻理恵を今までと同じ目では見られないだろうと心を暗くした。あの子は別の領域へ足を踏み入れてしまった。戻ってくることはない。
 琴音は列の右側を眺めた。この子たちは、男と付き合うと何があるのか知っているのだろうか。知っていて、誰が好きとか愛してるとか口にしているのだろうか。この頃私は男と接するのが苦手になって、お父さんと顔を合わせるのすら気まずいのに。

 そんな風に一人考えているうちに、いつの間にか琴音は黄色いビール瓶の入れ物とベニヤ板で作られたベンチに座って、他の者たちと順番にベビーカステラを口に入れていた。小さい頃なら独り占めできたのになあと、自分の手から離れていく入れ物を惜しがった。今はもうお菓子すら他の子たちと共有しなければならない。
 考え事をしているうちに話題に入るのが一段と難しくなり、琴音はうなずいて他の者の発言に共感しているふりをしながら、また麻理恵のことを考えた。今日あの子は白田先生と一緒にここへ来ているのだろうか。一緒に菊を見て、感想を言うのだろうか。
 他の者に見られたら言い訳ができないからそんなことは有り得ないと気づきながらも彼女は想像をやめなかった。
 麻理恵が付き合っている男の人と連れだって歩き、二人だけで催しものの日の時間を過ごすとしたら、何と甘美なことだろう。その世界は氷砂糖で出来ていて、午睡のように恍惚としているだろう。麻理恵が言っていた生々しい行為とはどう考えても結びつかないけれど、愛し合うという神聖なことを、あの子は経験しているのだ。
 うらやましい! 琴音は目を細くした。性行為は考えたくないくらい汚らわしいが、でも誰かと互いだけで愛し合うのはどれくらい美しいことなのだろう。後者だけ私にやってきたらいいのに。
 琴音や他の少女たちは、あと一歩前進する機会があれば全てを知ることが出来るのだと考えていた。自分はすぐ明日にでも大人になれるものだと信じて疑わなかった。

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