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今更、大江健三郎(4 )

なぜ再び大江作品を読もうと思ったのか。

第1回目に書き記した大江健三郎初期作品群47作品のうち現在手に出来る45作品をようやく読み終えました。

初期45作を断続的に読み続け、大江ワールドに浸る読書時間を過ごすことができたこの数か月です。
まず初期45作品の中で私が特に好きだった作品、心に響いた作品を挙げてみたいと思います。

『芽むしり仔撃ち』(1958年)

この作品は45作品中群をぬいて好きだった作品です。
もし、初めて読む大江作品がこの一作だったら、大江作品に対する私の第一印象はもう少し違っていたかもしれないと思われるような作品でした。
この他の作品もそれぞれに魅力があり選ぶのはとても難しいのですが、特に好きだった作品10作を執筆年代順に記します。

〇『飼育』(1958年)
〇『人間の羊』(1958年)
〇『不意の啞』(1958年)
〇『遅れてきた青年』(1960年)
〇『幸福な若いギリアク人』(1961年)
〇『不満足』(1962年)
〇『叫び声』(1962年)
〇『日常生活の冒険』(1963年)
〇『空の怪物アグイー』(1964年)
〇『個人的な体験』(1964年)

45作品中ここに挙げなかった作品にも素晴らしい作品が沢山ありました。初期の作品群を読んでみると、私が最初に抱いたイメージとは違う世界を感じることができて、やはり食わず嫌いは勿体ないと感じました。
大江作品以外にも、まだまだ食わず嫌いをしたままの作家は多いのかもしれません。

さて、私がこれまで自分の好みではないと思っていた大江健三郎作品を今になってなぜ再び読もうと思ったのか、今回はそのきっかけについて書きます。

私が大江作品を再び読んでみようと思ったのは、村上春樹作品『ねじまき鳥クロニクル』を読んだことがきっかけです。

私は若い頃、村上作品がとても好きで初期から中期の作品を熱心に読んでいたのですが、いつの頃からか村上作品を次第に読まなくなっていました。

最近になって、ある時SNSで知り合った方に、『ねじまき鳥クロニクル』を積んだまま読んでいないという話をしたところ、その方からこの作品を積読にしておくのは勿体ない、最初つまらないと思っても途中から面白くなるので是非読んだ方が良い、と薦められ読んでみたのです。
この作品は冒頭の部分が自分に合わず、途中で中断してそのまま読まずにいたのです。しかしあらためて読み進むと想像とは全く違う展開になっていて、確かに大変不思議な読み応えのある作品でした。

村上春樹作品『ねじまき鳥クロニクル』(新潮文庫)

その後で、『ねじまき鳥クロニクル』についてネットで幾つかの評を読んでみると、大江健三郎作品との共通性を指摘する評が散見されたのです。
これは私には少々意外な発見でした。
学生の頃何作か読んだ大江作品と、私が夢中になっていた村上作品は全く異質な文学世界だと思えたからです。
しかしそれでも何人かの方が指摘されているからには、それなりの根拠があるのかもしれない、と思いなおし大江作品を読んでみようと思ったのです。

これが大江文学とのあらためての出会いです。

今回大江作品の初期作品群を読み終えて、村上作品との共通性についてどう思ったかというと、大江文学と村上文学の根底にある世界観、文学のスタイルは私にはやはり全く違うもののように感じられました。
確かに村上春樹さんは大江文学から非常に大きな影響を受けているようです。
『1973年のピンボール』が『万延元年のフットボール』というタイトルのオマージュであったり、狭い壁に囲まれた空間に起こる出来事、性(セックス)の描写が頻出すること、歴史の再認識や暴力の描き方など、表面的には共通性があると思われる部分も多いです。
しかし大江文学の底に流れる、人間存在を根底から暴く描き方や、世の中との対峙の仕方、土俗性というものは村上文学とはまた違う世界ではないかと感じられました。
村上作品と大江作品の共通性や影響を指摘する評はありますが、私はむしろ両者の文学が全く違う世界だと感じられて良かったと思っています。
村上作品が大江文学から多くの影響を受けていたとしても、両者は全く違う世界を確立しているからこそ、それぞれが素晴らしいのだと思えるからです。

けれど、私はまだ大江文学の初期作品に触れただけなので、この感想も中途半端なものかもしれません。今後もこの点については引き続き注目してみたいと思います。

今回もお読みいただきましてありがとうございます。
次回は私が初期作品群の中で最も魅力を感じた『芽むしり仔撃ち』についての感想を書いてみたいと思います。

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