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足立透の変容過程Ⅰ-八十稲羽市を震撼させたトリックスターの救世主的逆転劇(P4G・P4U2考察)-

(この考察はかつてトゥギャッターにあげたものをノートにまとめ直したものです。既に公開したものなので無料で一番下まで全文読めるようにしてあります。もし面白いと思っていただけ方で、気前の良い方は、100円投げてやってください。)

0.序
 Play Station Vita用ゲーム『Persona 4 The Golden』(以下P4G)にて、そのストーリーの舞台である稲葉市一円のみならず世間を震撼させた張本人である足立透。その続編に当たるPlay Station 3用ゲーム『Persona 4 The ULTIMAX ULTRA SUPLEX HOLD』(以下P4U2)では、逮捕された後の足立透にスポットを当てた「足立編」のストーリーが描かれている。P4Gの真エンディングからP4U2の「足立編」まで通して見てみると、足立透はユングが錬金術のメルクリウスやヘルメス・トートなどをさして言うのと同じく「トリックスターの典型的ないくつかのモチーフを一人で持ち合わせている例」として挙げることができるのではないかと思われた。ここでは足立透にスポットを当てて、彼のトリックスターとしての元型的イメージについてとり上げてみることにする。私がここで足立透について取り上げようと思ったのは、P4U2までの彼のストーリーにおいて描かれた彼のトリックスターの元型的イメージが、特に思わせぶりなことを含ませることもなく、完成度の高い形で、極めて強烈なヌーメン性を放ちながら、しかも「さりげなく」描かれていると思われたからであり、この点について高く評価したくなったからである。以下において書き綴るのはその考察であり、ネタバレを含むのでご注意を。

1.足立における「確かな経験」と「信条」の形成(P4G篇考察)
(1)総括
 P4U2の「足立編」は、足立視点での彼のこれまでの経験と現状、そしてそれらに基づいて彼が抱いた「信条」と、その彼の行動がその「信条」に忠実に動くものであるということが、彼自身によって強調して綴られている。「信条」はラテン語ではSymbolumにあたり、これは「象徴」(Symbol)と両義の言葉である。ユングによれば、どんな「信条」も一方では元々ヌーメン的なもののの経験に基づいて表されたものであり、他方では事実はっきりと経験されたヌーメン的な作用の経験とそこから起こる意識の変化に対する忠誠に基づいているとされる。彼の「信条」やそれに基づいた行動は、彼のヌーメン的なものの経験によって変化した意識に特有の態度であり、それらは内的経験の領域における心的因子の発現について原則的につきとめられる一切のこと、つまり神話と同じく内的経験の精髄の吐露であり、集合的無意識を構成している実効性のある諸原理、即ち諸々の元型の一つがイメージとなって表れたものである。というのは、足立が「事件後の自分に残されたのは“確かな経験“とルールであり、それらをぶち壊しにされることは自分の矜持が許さない」と述べているからそう言えるのである。彼がいう「確かな経験」とは、稲葉市における諸々の事件の最大の黒幕であるイザナミ(伊邪那美大神)から与えられた、ある種の、人間の内的世界と言える「テレビの中の世界」に自身や他者を入れ込むことのできる力や、その力をきっかけにして自分の始めた諸々の犯罪行為、鳴上悠率いる「自称特別捜査隊」のメンバーたちとの対決、そして得体の知れないものがのしかかってくる重圧等、彼にとって名状しがたいがスリルのあるものとして彼を昂揚させた、彼の言う「ゲーム」からのものである。また、その「ゲーム」において自身のとった態度・行動もまたその「確かな経験」に含まれている。それらの経験こそはまさに足立の自我意識におけるヌーメン的なものの経験、即ち集合的無意識を構成する諸元型と彼の自我意識の間における経時的・共時的相対と相互作用の経験であった。この「確かな経験」が足立の自我意識に頑なな「信条」を形づくらせたのであり、またその態度・行動も一貫してそれに則ったものとさせたのである。そして彼の信条を形づくらせることになった「確かな経験」のうち、彼自身のとった態度・行動を導いていたのが、日本神話における神々の一柱として(つまり諸々の元型の一つとして)登場する「境界を司る神」であるアメノサギリ(天之狭霧神・天霧)と同じ名前を持つ巨大な眼として表現された「集合的シャドウ」、「トリックスター元型」ないしは「大衆人間元型」のヌーメン的な力作用の否定的な側面であったと考えられる(もっと言えばこの否定的な側面を手引したのは、ストーリー内でアメノサギリとクニノサギリを生み出したとされる、太母の否定的な側面が神格化したイザナミである)。

(2)P4G篇の足立・アメノサギリ・イザナミの諸相関
 「イザナミ」によって「絶望」「虚無」「希望」を象徴する者として選定された三人のうち「絶望」を象徴する者とされた足立透。稲葉市における事件を起こしていた当時の彼においては、「バカみたいな人間関係、つまらない仕事、腐りきった社会を全てぶっ壊してやれば自分の望む世界がつくれる」という愉しみ本位の無目的な破壊欲からの秩序転覆、そのおどけた調子も含めた半ば面白半分で半ば悪意のある狡猾なトリックによって人々を騙したり言い逃れたりしようとする性癖、しかしその狡猾なトリックは、自分よりも優れた能力を持つ者に対しては通用しない穴を元から見せてしまっていてそれを見ぬかれてしまうという愚鈍さを露呈させていたということ(これは「歩く情報漏洩」ともいい表し得るほどの愚鈍さであるが、本人は主人公たちに対して自分が犯人であることに気づくかどうかギリギリの線で緊張感とスリルのあるものとして楽しんでいる)、また以上も含めて彼の行動はほぼ全て露骨な欲望本位のものであったという、まさにトリックスターの元型的イメージに見られる大半のモチーフを、否定的な意味で併せ持ったイメージが見られていた(「ほぼ」といったのは、彼の上司である堂島遼太郎とその娘である菜々子が危機にさらされた際などには彼らを本気で心配するといった、少々例外的な行動をとっているからである)。P4Gで真エンドルートに向かう展開においては、主人公と足立とのコミュを表すアルカナは「道化師」のアルカナから「欲望」のアルカナへと変化する。アレイスター・クロウリーは『トートの書』において、トート・タロットの「欲望」のアルカナについての説明の項で「欲望とは力ばかりでなく、力を行使する歓びを意味する。それは活力であり、活力の歓喜である」と述べている。まさに露骨な欲望が彼の行動の動機となっており、彼は本能的次元に生きている。彼はイザナミから与えられた特別な「力」を行使することに歓喜しており、それが彼の言う「つまらない現実」のなかで生きてきた彼にとっては活力の源になっていた。今しがた述べた「本能的次元に生きている」というのは「元型的次元に生きている」というのとほぼ同意義である。つまり彼においては、いかなる点から見てもその自我意識の状態は未分化で、無意識的であるということが最大の特徴であって、彼はただ彼の自我意識がヌーメン的な元型の自律的な力作用の犠牲のままに任せて行動することに歓喜しており、それが彼の活力の源となっていたのだとみなすことができる。たとえば彼の「自分はこの世界(テレビの中の世界)に気に入られたらしい、全てを得た気分だ」という発言や、主人公ら「自称特別捜査隊」のメンバーたちと対峙した時の彼の、時に他人のことなど言えたものではないようなものさえ含まれている嘲罵の数々を見ればあからさまである。その嘲罵の数々の拠り所となっているものこそは「力」であり、「力を行使する歓び」であり、「活力の歓喜」だったのである。
 この無意識的な状態は、人間的・道徳的な意識段階ないしその意識段階の総計としての人間社会・人間世界から脱落していることを暗示させている。事実足立は「落ちこぼれ」として、自身がどのように言おうと田舎に左遷された身でもあった。彼において人間社会・人間世界の現実からの脱落者としての、また逃避者としての発言が多く見られていることは、彼がまさにトリックスター元型の憑依状態であることを示している。それはまた、足立においてトリックスターの「集合的シャドウ」としての像が立ち現れていたとも言うことができる。「トリックスターが集合的シャドウである」というのは、それが「全ての個人の劣等な性格特性の総計」であるということを含意している。主人公たちに犯行がバレてテレビの中の世界に自ら飛び込んだ足立はシャドウに襲われなかった。これは主人公と同じく、イザナミによって元々テレビの中の世界に入り込める力を与えられていたからともとれる。しかし足立本人の言葉を踏まえるならば「シャドウが自分を襲ってこないのは、シャドウの目的が自分と同じだからだ」等と言っているあたり、自らが全てのシャドウの総意を知る者、或いはその総意を代弁する者と位置づけていたように思われる発言があった。そして足立がトリックスター元型の憑依状態であったことを表していることの極めつけは、足立を依り代として現れたアメノサギリのイメージと、そのアメノサギリと足立の発言の共通性、そしてアメノサギリと足立(ないしは大衆)の「我は汝、汝は我」の関係である。
 足立もアメノサギリも、世界が霧に飲み込まれ、人間がことごとく闇の中で蠢くシャドウとなり、直視するのが辛い現実ないし真実を見る必要もなく、盲目となって虚構で楽にすませることが出来ること、それがすべての人々の望みであると述べた。ここに足立ないし足立のいう「すべての人々」とアメノサギリの間に「我は汝、汝は我」の関係が認められる。アメノサギリが「我が望みは人の望み」と述べていたことも想起しておこう。足立はその導き手としての役割を担うこと(即ち預言者であり引導者であること)を引き受けていた。そしてアメノサギリは自らがすべての人々の望みそのものとして、晴れることのない霧で包まれているテレビの中の世界を膨張させ、最終的にはテレビの中の世界と現実の世界の境界線をなく平らかに一つになる世界を創造し、その世界に秩序の主として降りることを目論んだ。テレビの中の世界は人の心のうちに元よりある無意識の海と語られているあたり、諸々の元型で構成されている集合的無意識の世界とみなすことができる。ペルソナの形成と現実適応の能力の発達とは、集合的価値に当たる良心判断中枢としての超自我(いわゆる「禁止」の役割を担うもの)に導かれてなされる。しかしそれは同時に抑制と抑圧の力となり、無意識の中にシャドウ(個々人それぞれの個人的シャドウ及びその総計としての集合的シャドウ)を布置する。アメノサギリが述べている霧に包まれたテレビの中の世界の膨張と全ての人間のシャドウ化について考察すれば、まさにアメノサギリが集合的シャドウの像そのものであることを見て取ることができる。集合的シャドウは個人的シャドウの総計であり、個人的シャドウは人格に必ず備わっている要素であって、そのため集合的シャドウは常に個人的シャドウから都度再生産される。その個人的シャドウから都度再生産されることで集合的シャドウは膨張を続ける。アメノサギリはまさしくそれに当たるものであり、それが象徴的に表現されたものでもあるといえる。アメノサギリをトリックスターないし集合的シャドウの元型そのものと捉え、足立が彼を象徴的に指し示している「欲望」のアルカナの解釈通りに露骨な欲望本位に、即ち本能的次元=元型的次元に生きていて、自我意識がヌーメン的な元型の自律的な力作用の犠牲のままに任せて行動すること、即ちトリックスター元型の憑依状態であることに歓喜していたと捉えるならば、まさに里中千枝が「足立さん、あいつ(アメノサギリ)に操られていたのかな」と直観的な疑問を投げかけたことに対して、白鐘直斗の「さあ、望んでいた面もあったと思いますが」と応えている辺のくだりが適切な解答を示しているということになるだろう。
 ユングの高弟エーリッヒ・ノイマンは、現代人において布置された劣等な人間部分の総計であるこの集合的シャドウのことを「大衆人間」ないし「大衆自己」と言い表した。「大衆」という言葉はアメノサギリも主人公たちとの戦いの直前の会話において主人公たちをさして「大衆の意志を煽り、熱狂させる良い役者だった」と述べるところで使っている。ここでの「大衆」という人々の結びつき方は、「名ばかりの結びつき方」であり、ゲシュタルト理論でいうところの「加算的断片」にあたり、オルテガ・イ・ガセットが『大衆の反逆』の冒頭において大衆をさして「蝟集」・「充満」等と呼んで例に挙げた集まり方と同じである。この「大衆人間」ないし「大衆自己」は、自我意識や文化世界と対立し、自我意識の形成や発達と対立し、非合理的で反個人的、情動的で破壊的である。これは集合的シャドウないしトリックスターが「禁止」の対象そのものであると同時に、それが「禁止」を無効化するほどの「無制限な違犯」を引き起こす可能性を持っているということである。足立の台詞の中には「シャドウは本音のままに動いている、お前らが(それを抑圧して)楯突くから暴れる」というのがあるが、イザナミとの握手を通して得た「力」に対する気付きと、それを行使する歓喜から始まったと言えるトリックスター元型の憑依状態である足立において生じていたのは、その常識はずれの力を手にしたことによって、欲望に対する柵である「禁止」が効果を持たなくなったことを見て取り(それは「面白いことになった」とか「テレビの中に人を入れたなどと警察が相手にするはずがない」等というような趣旨の発言に見られる)、彼において「禁止」が意味を失い、抑制されていた欲望が堰を切って溢れだしたということである。その時から開き直り、やりたい放題言いたい放題になることを恐れなくなったのはそのためである。トリックスターは集合的シャドウであり、またそれが「大衆人間」とか「大衆自己」と呼び表されるように、大衆的な遍在性を持つ心理素である。文字通りトリックスター元型の憑依状態である足立は「大衆の総意」を代表する発言を繰り返した。ノイマンによれば、集合的シャドウである「大衆人間」ないし「大衆自己」に圧倒されその憑依状態となると、「大衆の再集合化」という伝染病が立ち現れ、そこで「自我意識の退行的解体」という怖ろしい現象が引き起こされるという。トリックスター元型の憑依状態である足立の発言、及びアメノサギリの発言にある、「境界を司る者」であるアメノサギリが霧で満たされた世界を膨張させて世界の全ての境界をなくし、平らかに一つとなった世界をしゅったいさせる、ないし人間を全てシャドウと化さんとすることは、全ての人間の自我意識の退行的解体という意味を含んでいる。実際、足立の嘲罵の数々は退行現象を起こしているものといえる。自我意識の退行的解体とは「中心志向」(ノイマンにおいて個体生命の身体組織全体の形状維持・保存とその個体の活動を可能にしていると仮定されている機能)の破壊を含んでおり、それは「神秘的融即」の世界のしゅったいを意味する。まさに「神秘的融即」こそは、昔から「大衆の再集合化」という伝染病を羅患した者(それはまさにトリックスター元型の憑依状態となった者)が、大衆を誘惑する際に用いる餌なのである。アメノサギリが噴き出している霧は「大衆の再集合化」において現れて自我意識を盲目にする狂躁的な幻覚現象そのものなのだ。足立やアメノサギリが大衆の総意を代表する発言をしているというのは、P4Gのモブたちの発言を通して見ることができる。彼らの中にはまさに「霧に包まれた状態では他人の目を気にする必要がないから楽だ」などと述べている者たちがいる。このようなモブたちは、まさにその「モブ」という言葉の意味からしても「大衆を構成する原子化された個人たち」であり、「加算的断片」であって、アメノサギリの自我を盲目にする幻覚現象としての霧に覆われた状況に安直に陶酔してしまっている。足立の発言によれば、異常気象として認知されているアメノサギリの霧について恐れる者もいるが、実際には恐れている者もこの状況を望んでいる、という。これもまたモブたちのなかに、恐怖に怯える者、また恐怖を煽りながらその状況を楽しんでいる者など、そのような者たちがいるように描かれている。このような足立やモブを含めた「大衆人間」の有り様は、オルテガが『大衆の反逆』において「「大衆の反逆」とは人間の生が我々の時代に至って経験した驚異的な成長そのものであり、表面から見れば楽観的な様相を示しているが、その裏側は人類の根本的な道徳的退廃という実に怖ろしい様相を呈している」と述べているところの「大衆の反逆」の様相そのものだともいえよう。さすがに「大衆化過程」とか「大衆の再集合化」といったユング心理学における専門用語は用いられてはいないが、P4Gストーリー内におけるモブたちにおいては他にも、「マヨナカテレビ」や殺人事件に対する他人ごとのように切り捨てる反応などがあり、モブたちに注目して見ていけば、八十稲羽市の人々において大衆化過程がかなりの程度推し進められていることが理解できる。大衆状況の毒性作用とは自我意識や良心判断中枢の破壊と関連する狂躁的・陶酔的性格にある。このトリックスター元型の憑依状態となった足立及び大衆と、集合的シャドウとしてのトリックスターの像そのもののイメージとして現れたアメノサギリの「我は汝、汝は我」という関係に加えて、この「大衆の再集合化」という伝染病を伝搬させようとする点は、トート・タロットの「欲望」のアルカナをさしてアレイスター・クロウリーが加えた解釈において綴られたことと符合する。

 出で来たれ、おお子どもたちよ、星々の下へ。そして心ゆくまで愛を満喫するがよい!我は汝の上方にあり、また、汝の内にもある。我が脱我は汝の脱我に宿るのだ。我が悦びは汝の悦びを観ることに等しい。
 美と強さ、弾けるような笑いと心よいけだるさ、力と火、これらこそは我々に相応しい。
 我は、〈知識〉と〈悦び〉と輝かしい栄光とを与え、人心を酩酊でかき乱す〈蛇〉である。我を崇拝しようと思うならば、我が我の預言者に告げるつもりの葡萄酒と一風変わった薬剤を採り上げて、それから酔っ払ってしまえ!そういうことをしたからといって汝らに害が及ぶことは全くない。自己に対するこの愚行こそは虚偽である。無垢の暴露などというのは虚言なのだ。おお人間よ!官能と狂喜をもたらすありとあらゆることを貪欲に享受するがよい。このために自分を拒む〈神〉がいるのではないか、などと恐れるなかれ。(アレイスター・クロウリー『トートの書』第二部アテュ Ⅺ:欲望)

 この「欲望」のアルカナについてクロウリーが語っていることは、そのままアメノサギリと足立に当てはめて考えることができる。「星々の下へと誘う」というのは「元型的威力そのものの下へ誘う」ということであり、子どもたちとは大衆化過程の進んだ大衆の自我意識である。「大衆の再集合化」においては、大衆の自我意識は疲弊し生気を失っているため、クロウリーのこのような記述の通り、深淵の〈蛇〉(この場合「大衆人間」ないし「大衆自己」の象徴であり、また自我意識がゼロとなり全ての境界が取り払われた「神秘的融即」の状態を表す象徴でもある)を、その解体・溶解と死の性質にも関わらず、たとえその中で我が身が消滅してしまおうが、敵対的なものとは感じていない。むしろそこでの大衆は、その中で狂躁的に融即しつつ快感を感じ再情動化されている。大衆は「巨大な眼」であるアメノサギリの吹き出す霧を「包み込みもの」と見なしている。「巨大な眼」として描かれた「境界を司る神」であり「神秘的融即」の世界の主として降り立たんとしたアメノサギリは、上記の〈蛇〉[=ウロボロス]と同一の象徴的存在として理解できる。そのイメージの意味はまさしく「大衆自己」としてのウロボロスと同種なのである。ユングによると、星空や暗い水に映しだされた星々の煌き、大地や海の深みにある唯一の眼、火花、円環の蛇ウロボロスなどといった象徴的表現は、絶対的な時空の中に分化していることを特徴的とする自我意識とは対照的な、心理的に相対的な時空連続性を特徴とする無意識の状態を捉える内視的な直観に基づいているという。それらは元型的威力そのものの象徴的表現でもある。アメノサギリは明らかに「心理素」、すなわち「我々の上方にありかつ内にもある」、元型的心的構造の一部をなすものである。文字通り、足立が「テレビの中の世界」に入り込んで形成したダンジョンは「マガツマンダラ(禍津曼荼羅、直訳すれば「災厄のマンダラ」)」といったが、足立がダンジョンとして形成したマガツマンダラもまた集合的シャドウである「大衆人間」ないし「大衆自己」を象徴的に表現したものだった。これらに共通して言えるのは、「大衆の再集合化」という形での神秘的融即の世界が象徴的に表現されたものだったということである。
 ところでP4Gのアメノサギリは、クニノサギリとともにイザナミによって生み出されたことが説明されている。ノイマンによると、人間の人格内部の無意識的な集合的シャドウ・大衆人間・大衆自己の、神話の中でそれに相当するものは、「太母の否定面」ないし「太母の死の協力者」であると述べている。P4Gのイザナミないし伊邪那美大神の正体は、元々八十稲羽の地母神であったイザナミノミコト(伊耶那美命:P4Gではその中核がマリー=久須美大神とされ、人々が共有する無意識の願いが具現化した存在)から、彼女の「人々の願いを叶えたい」という部分が膨張していき、それが彼女の中に元より核としてあった「人々を守りたい」という念を上回るようになって、イザナミノミコトから神格を分割した「イザナミ」となり、その際に本来ならばイザナミノミコトの本体であった部分はこのイザナミによって記憶を封じ込められ、更に力の大部分を奪い取られて、マリー=久須美大神として貶められたと説明されている。太母は元型としてそれ自体の確立したイメージを持たない。それがイメージとして具体的に現れるときは対立する二項概念として現れる。また太母はその周囲に多くの元型的イメージをもち、投影によりその役割を担う。そもそもの「イザナミノミコト」の「人々の願いを叶える」部分が分割した神格となって「イザナミ」として具現化したのは、大衆化過程が推し進められた大衆において、集合的シャドウ=大衆人間が布置されていき、彼らにおいて「大衆の再集合化」への願望が強まり、その願望が八十稲羽の地母神にして太母であるイザナミノミコトに投影され続けた結果だった。投影は意図的に行われるのではなく、あまりにも無意識的に起こっているので、それが起こっていたということに、普通は気づかないとされる。しかし、投影は間違いなく生じていたのである。まさしく大衆化過程の進んだ大衆における「大衆の再集合化」への願望が、八十稲羽全体に垂れ込めたことで、同時に八十稲羽そのものともいえる、それ自体の確立したイメージを持たない「イザナミノミコト」に無意識のうちに投影され、「呑み込む母」という太母の否定面を活発化させ、それが「イザナミ」という「人々の願いを叶える」部分に太母の否定面が具わった独立した神格を生じさせたのであり、「イザナミ」はその役割を担おうとしたのである。P4Gにおいて一連の事件の真の黒幕と言われるイザナミであるが、元々は大衆における「大衆の再集合化」への願望の肥大化がイザナミノミコトにおける「人々を守る」という概念と「人々の願いを叶える」という概念の不一致を招き、そもそもこれらが対立する二項概念とならしめたことこそが、P4Gにおける悲劇の始まりとしてあったと考えられる。鳴上悠ら「自称特別捜査隊」に追跡された足立の発言の中に、「自分はテレビの中に人を入れただけであり、山野真由美や小西早紀らは「テレビの中の世界」=「人々の意思が反映される世界」に殺された、つまり犯人は外の連中全員だ」といったものがあるが、これは確かに彼の苦しい言い逃れであるけれども、それ以上に、事の発端であるイザナミという神格が生まれて彼女が「大衆」の願望投影から自らの役割を担おうとしただけであるところから考察すると、間違った発言ではなかったのである。アメノサギリはその「イザナミ」によって生み出されたものであり、太母の「死の協力者」だった。そう捉えると、アメノサギリが述べていた神秘的融即の世界のしゅったいは、単に無意識における主客の直接的同一性ないし相対的時空連続性の世界のしゅったいという意味だけでなく、太母と全ての人間の自我意識との直接的同一化をも意味していたことになる。ノイマンはこの場合の「神秘的融即」を「ウロボロス近親相姦」と言い換える。ここまで踏まえた上で、再びアレイスター・クロウリーの「欲望」のアルカナについての記述に戻ってみよう。すると、先の引用に続いて綴られていることは、これまで述べてきた「「神秘的融即」の世界のしゅったい」ということが実際には更に「ウロボロス近親相姦」でもあるということが読み取れる。

 見よ、これらは重大なる秘儀とならん!なぜなら我が友人たちの中には隠者たらんとする者もいるからなのだ。そうかといって、森の中や山の上で彼らを見つけようなどとは考えてはならぬ。実は、汝らが彼らを見つけるのは紫の床の中なのだ。そこで彼らは、巨大な手足を持ち、眼には火と光を映し、燃え上がる豊かな髪を絡ませてくる、女という荘厳な獣の抱擁を受けているはずだ。汝らは彼らが統治しているところを、勝ち誇る軍隊に所属しているところを、あらゆる歓びを噛み締めているところを目の当たりにするであろう。しかも彼らのうちには、これより百万倍も大きい歓びが宿っているはずなのだ。何人も他のものを強制したりしないように、〈王〉が〈王〉に敵対したりすることのなきよう、気をつけるがよい!熱く燃える心をもって互いに愛し合うのだ。下位の人間どもなどは、汝らの誇りを得たいと物狂おしいまでに渇望しつつ汝らの懲罰の下る日に、地団駄踏むことになる。
 汝の眼の前には光がある。おお預言者よ、望まれてはいないが最も望ましい光が。
 我は汝の心のなかで昂揚せられ、星々の接吻が汝の肉体に雨と降り注ぐ。(アレイスター・クロウリー『トートの書』第二部アテュ Ⅺ:欲望)

 「軍隊」という言い方がされているが、「軍隊」としての結びつき方は「戦争のために攻撃衝動を組織化したもの」という点に帰着するものであり、都市や事務所、工場等での労働に従事する人々と同じように、単に目的を決められて、指導者の立てた計画に従うものである。「軍隊」としての結びつきは、上記において述べた「大衆」と同じくゲシュタルト理論における「加算的断片」としての集まりである。ここでは「大衆の再集合化」と同じ狂躁的・陶酔的な現象が見て取れる。それはまさに「望まれてはいないが最も望ましい光」であるとか「星々の接吻が汝の肉体に雨と降り注ぐ」と謳われていたりする点で、元型的威力に身を任せているという状況であると理解することができる。また「巨大な手足を持ち、眼には火と光を映し、燃え上がる豊かな髪を絡ませてくる女の荘厳な獣の抱擁」というくだりで、それが実は「ウロボロス近親相姦」でもあるということを見て取れるであろう。「ウロボロス近親相姦」としての神秘的融即における一体化は、心地よさと愛とを特徴としている。この一体化は能動的なものではなくて、むしろ溶け込み吸い込まれようとするものであり、奪われるという受け身の体験であって、快楽の海と愛による死の中で消滅することである。太母は疲弊し生気を失って弱体化している人々の自我意識を自らの内に取り入れようとして人々の自我意識を「元型的威力の下へと誘う」のである。P4Gの最後においてベルベット・ルームの主であるイゴールより主人公に託された「見晴らしの珠」によって真の姿をさらけ出すことになる「伊邪那美大神」の姿は、このクロウリーの記述における「女」のイメージにまさるとも劣らぬ不気味さを帯びた、黄泉の国における伊邪那美についての神話の記述よろしく無数の雷を従えた、太母の否定面の権化ともいえるものであった。

 (伊邪那美の身体には)うじたかれころろきて、頭には大雷居り、胸には火雷居り、腹には黒雷居り、陰には折雷居り、左の手には若雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴雷居り、右の足には伏雷居り、并せて八の雷神成り居りき。(『古事記』)

 まさにP4Gにおける太母の否定面が独立した神格となったイザナミは、その字義通りに人々の自我意識に、その願望通りにしようと快楽の海と愛による死の中で消滅することへと「いざなった」のである。「幾千の呪言」によって主人公のパーティを死へと誘い全滅させようとするその描写のイメージなどはそれを非常に生々しく表している。
 私はここまで、P4G時点での足立について書き始めてから、彼の背後にいるアメノサギリと大衆、そしてイザナミについてまで連続して触れなければならなかった。というのは、足立をめぐる諸状況自体が、それらの一つ一つを別々に切り離して書くことのほうが難しいほどに密接に関連し合ったものだった上、足立を象徴するものとして布置された「欲望」のアルカナ自体に、この諸連関がほぼまるごと含まれているからである。足立に限ったことではないが、これらはまさしく象徴が示す神憑り的な必然性をそのままなぞるがごときの展開を見せていたことを表しているのである。(Ⅱに続く)

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