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足立透の変容過程Ⅱ-八十稲羽市を震撼させたトリックスターの救世主的逆転劇(P4G・P4U2考察)-

この考察はかつてトゥギャッターに挙げたものをノートにまとめ直したものです。既に公開したものに関しては無料で読めるようにしてあります。(5)以下は続編を新しく書き起こしたものです。もし面白いと思っていただけた方で、気前のいい方は100円投げてやってくれると嬉しいです。また既に挙げた『足立透の変容過程Ⅰ』からお読みいただけると幸いです。

(3)死のインスピレーション
 トリックスター元型の憑依状態のままに、欲望のままに、やりたい放題の世界を望み、人間がことごとく闇の中で蠢くシャドウとなる世界がしゅったいすることを望んだ足立であったが、その望みは叶わなかった。主人公・鳴上悠率いる自称特別捜査隊によって、自身のみならず、自身を依り代とした集合的シャドウの権化であるアメノサギリを打ち倒されたからである。戦闘前及び戦闘中における足立の発言は、トリックスター元型の憑依状態の、力の所有とその力の行使による活力の歓喜からの昂揚感に溢れたものであった。しかしアメノサギリが撃退され、そのことによりアメノサギリが足立を依り代として憑依していた状態から抜けた足立の「なんだよ、これで終わりか…」以下の発言は、まるで力の行使による活力の歓喜の充溢状態から消耗して気が抜けたかのようなものであった。そのさまもまた、アレイスター・クロウリーの欲望のアルカナについての記述と合致するものである。

 インスピレーション(霊感・吸息)の肉感的なまでの充溢において汝は消耗してしまう。(アレイスター・クロウリー『トートの書』第二部アテュ Ⅺ:欲望)

 これは欲望に駆り立てられた人間における力の運動について端的に示されたものだということができる。クロウリーが最初に述べていたことに再び立ち戻れば、欲望とは力であるだけでなく、力を行使する歓びであって、それは活力であり、活力の歓喜である。これまで見てきたように、足立がトリックスター元型の憑依状態となり、さらにアメノサギリに完全に乗っ取られてまで爆発させたそれはまさにこの欲望そのものであり、この欲望が目指した対象は、大衆的な神秘的融即ないしウロボロス近親相姦の世界であった。ジョルジュ・バタイユ風に言い換えれば、それは非連続的な個々人の間にある引き裂かれた深淵の解消、即ち非連続性から連続性への過程だということができる。バタイユは「生き物が非連続性から引き離されることこそ最も暴力的だ」と述べ、さらに「我々にとって最も暴力的なものは、[我々が我々非連続の存在を維持するのに必要な粘り強さからまさに我々を引き離してしまう]死である」と述べている。先に記した「ウロボロス近親相姦」としての神秘的融即における一体化が、「快楽の海と愛による死の中で消滅することである」ということを思い起こしていただきたい。トリックスター元型の憑依状態となった足立が爆発させた欲望は、まさにアメノサギリに依り代とされ、乗っ取られることで自我意識を失うまでのものであったが、この足立に見られた欲望の爆発状態における力の行使と活力の歓喜とは、まさにバタイユが最も暴力的だというところの死を目指すものであった。足立において見られた欲望の爆発、即ち過剰な力の行使とそれによる活力の歓喜、それはバタイユの言及に基づけば、もはや暴力的なものだと言わなければならないものである。

 非連続性から連続性への過程の中で活を入れられるのは、根本的な存在の全体なのだ。暴力だけが、暴力と暴力に関係した名づけがたい混乱だけが、全てに活を入れることができるのである!(ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』)

 ただ暴力だけが、理性に還元可能な世界の限界を破る一つの狂気的な暴力だけが、我々に連続性への道を開いてくれるのだ!(ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』)

 「死ぬこと」と「限界の外へと出ること」とは同じ一つのことだとバタイユは述べている。ここでもうひとつ付け加えなければならないことがある。バタイユが付け加えていることであるが、それは、我々が「「死」を思い浮かべる」と、つまり「我々の中にある非連続の個体性が突如として消滅するということを思い浮かべる」と、通常はその過程をへる度胸がなく、「死」の恐怖から我々の勇気が挫けてしまうということである。果たして欲望を爆発させていたトリックスター元型の憑依状態にあった足立において、本当にこの「死ぬこと」即ち「大衆的な神秘的融即ないしウロボロス近親相姦という非連続性から連続性へという過程」を、「自力でたどる度胸や勇気」が通常時からあっただろうか。著者はなかったと考える。それは自称特捜隊のメンバーである天城雪子や白鐘直斗が図星をついた言葉を放ち、それに動揺する足立という描写に基づいている。

足立「これからの世界、お前らみたいなメンドくせーガキこそ、要らねーんだよ!!」
天城「ガキはあなたよ!生きるのも面倒、死ぬのもイヤ…、そんなの理解されないに決まってるでしょ!!ダダコネてるだけじゃない!!」
白鐘「人は一人では生きられない。だから社会と折り合うことを投げたら、生き辛いに決まってるんだ。なのにお前は立ち向かわず、去る度胸もなく、人であること自体から逃げてごまかそうとしている。世の中を面倒と言ったくせに、大勢の他人を巻き込んでな!お前の理屈は全部、コドモ以下の、単なるわがままだ!」
足立「う、うるせえ!強がってんじゃねえよ…、俺を否定しないと、お前らが立ってられないんだろ!何も苦労していない、ケツの青い高校生に、お、俺の何が分かんだよぉぉ!!」


 「生きるのも面倒であり死ぬのも嫌である、しかし大勢の他人を巻き添えにして「死ぬこと」を望む」というところからは、通常時の足立が「決定的な一歩を踏み出さずに、絶対的な時空の中に分化している非連続的な個々人の自我意識の集積である「この世」にとどまりながら、大衆的な神秘的融即ないしウロボロス近親相姦の相対的時空連続性の世界に到達することを欲していた」という様を露呈している。バタイユは「我々は死の鼻息を浴びながら、強制でもされなければ自分から極限[=「死ぬ」こと]まで歩き通そうなどとはしない」と述べている。クロウリーが欲望のアルカナについての項で「インスピレーション」というところのそれは、欲望のアルカナが『法の書』において最重要とされる「汝の欲するところを為せ」という格言が具現化されたものであるという点からして、その格言そのものと捉えることができるだろう。足立はトリックスター元型の憑依状態、ないしアメノサギリとその背後にいるイザナミの手引による「死」のインスピレーション(吸息・霊感)によって欲望を爆発させでもしなければ、自分の意志で決定的な一歩を踏み出して「死ぬ」こと、即ち「非連続性から連続性へと至る過程」を最後まで歩き通そうとはしなかった。天城雪子や白鐘直斗らから図星を突かれて動揺する足立からは、無意識から侵入してくる内容が自我意識を完全に圧倒し、自我意識が無意識内容に対して独自の立場を保たず、自我意識がその内容と同一化している分だけ心を奪われてしまっている状態(つまり憑依状態)にでもならない限り、その過程を自力で最後まで歩き通そうなどとすることはできなかったという度胸や勇気のなさが露呈していると言わざるをえないのである。だが、足立はトリックスター元型の憑依状態となり、欲望を爆発させたことで、「死ぬ」ことへの決定的な一歩を踏み出した。足立はこの「「死」のインスピレーション」によって、肉感的なまでの、連続性の中で引き裂かれ消滅していくことに伴う活力の歓喜の充溢を体験した。しかし、結局鳴上悠率いる自称特別捜査隊との戦いのなかで自身及びアメノサギリの双方を打ち倒されることにより、大衆的な神秘的融即ないしウロボロス近親相姦の世界のしゅったいを挫かれ、精根尽き果てて如何ともしがたくなるほど消耗してしまった(バタイユの言葉を流用すれば「焼尽」ということになるだろうか)。これが「なんだよ、これで終わりか…」以下の、自称特別捜査隊との戦いの前の驕り高ぶった発言とは打って変わった気の抜けた言葉が発せられたことの正体である。

(4)サド的至上者としての足立透
 足立の声優である真殿光昭は、「黒足立はドS(極端なサディスト)です」と述べているが、このドSという俗語の由来であるサドその人の基本的な思考と足立のそれとはぴったり一致していると言わなければならない。足立がトリックスター元型の憑依状態となり、欲望に駆られて大衆的な神秘的融即ないしウロボロス近親相姦の世界を目指したことは、「他者の無限の否定によって肯定される自分自身の至上権の追求」という、サドの原理と同じところに集約される。モーリス・ブランショの『ロートレアモンとサド』によれば、サドの基本的な思考は「絶対的な孤独」という根本的な事実に基づいている。サドは、「自然は私たち人間を孤独者として誕生せしめた」とする。そのような絶対的に孤独な者は、人間相互の間にいかなる種類の関係もないとみなす。この孤独者の唯一の行動原理は、彼にとって快く感じられるもの全てを選び、たとえ彼の選択が他人に対して悪い結果を及ぼすことになろうとも、そんなことは知ったことではない、一切気にするものか、というものになる。他人にとっての最大の苦痛も、彼の快楽に比べれば物の数ではなく、ほんの僅かな楽しみを手に入れるために、前代未聞の大犯罪をごっそり犯さなければならないとしても、彼には大したことではない。この欲望の追求がまさに「他者の無限の否定によって肯定される自分自身の至上権の追求」なのである。欲望に対する柵である「禁止」が効果を持たない足立においては、その楽しみは彼にとって気持ちのよいものであり、彼の内にあるものだけれども、犯罪の結果は彼にとっては関係がないもので、彼にとっては彼の外にあるものだと思われていた。サド及び足立の「他者の無限の否定によって肯定される自分自身の至上権の追求」という原理の基礎を成しているのは、現実の否定である。現実の人間はだいたい他人との間に絆を結んだり結ばれたりしているから、そういう人間関係の網の目に絡め取られないで完全に孤立している人間などというものは通常は考えられない(これは実際には足立もそうである)。人間同士の相互依存がなければ、いかなる人間の生もありえない。しかし、この相互依存の関係の網の目に絡め取られている状態では、人間は他者に隷属した時間しか持てず、他者のために力を割譲することによって己の力を分散させるのみで、自分自身の力の可能性を浪費し枯渇させるばかりか、さらに己の行為を弱さの上に基礎づけている。というのは、相互依存がなければありえない人間の生においては、他者を尊重し、他者を頼りにすることが必要であり、したがって他人のために力を尽くすのは当然であると信じるようになるからである。他者の価値を認めるものはこのように必然的に自分を制約し、衰弱していく一方になる。こうした現実の構造を、アニメ版(P4GA)の足立は「「絆」とは「「キズ」の「ナ」め合い(傷の舐め合い)」」と称していた。サドや足立の「他者の無限の否定によって肯定される自分自身の至上権の追求」は、こうした自らを衰弱させる現実の構造を否定する違犯の運動の極致である。それは違犯の頂点に達するまでは止まろうとしない欲望の運動である。私は先に、集合的シャドウないしトリックスターの元型が「禁止」を無効化するほどの「無制限な違犯」を引き起こす可能性を持っており、トリックスター元型の憑依状態となった足立においては「禁止」が意味を失って抑制されていた欲望が堰を切って溢れだしたと述べておいた。その欲望の対象である大衆的な神秘的融即ないしウロボロス近親相姦の世界は、まさにサド的至上者のごとき「他者の無限の否定によって肯定される自分自身の至上権の追求」が目指す究極、すなわち抑制するもののない自由が開く「無」である。バタイユ及びブランショによると、このサド的至上者における至上権の追求は、究極においては当初の「他者の無限の否定による自分自身の肯定」という原理を踏み越えて自己否定になるという。というのは、その無限という特徴が、可能性の極限にまで、個人的快楽の彼方にまで推し進められていくと、いかなる隷属及び衰弱からも解放された至上権を追求するようになるからだというのである。サド的至上者の至上権の追求は、より強烈な、究極は最も強烈な快楽に到達することのみに的が絞られている。その追求においては、より低次な快楽への隷属は拒まれる。それは至上権の追求とは逆である「没落」を意味するからだ。要するに「更なる快楽を!」ということである。足立の追求も「ゲームが興冷めになることを拒否する」という点において、まさにこのサド的至上者の至上権の追求そのものであった。さて、サドが描き出した「さらなる快楽を追求すること」に的が絞られているサド的至上者の至上権の追求は、個人的なエゴイズムを超えて、いわば非個人的なエゴイズムとでもいうべきものを発動させるものにまでなった。「エゴイズムがエゴイズムを超えて、自ら点じた火の中で焼き尽くされる意志にまで高まっていく過程」(バタイユ)を、サドは描いた。P4Gにおいてこれに対応するのは、足立を含めた大衆が「大衆の再集合化」という伝染病に感染し、大衆人間・大衆自己の憑依状態となって自我意識の退行的解体を引き起こしかけたという恐るべき現象である。より一層の快楽を自らに引き出すことを望んだ足立は、自らが「死ぬ」に際して、大勢の他人[=大衆]を巻き添えにして、彼らがあたかも自らの意志で「死ぬこと」を欲するようになることを望んだ。自らが死ぬなら死ぬで、その死から最大級の快楽を、その自分が滅び去るという意識から、全てを滅ぼすという欲求のみが正当化してくれる人生の仕上げを、足立は引き出そうとしたのである。足立における更なる快楽の追求の帰結はまさに「他者の無限の否定によって肯定される自分自身の至上権の追求」というサドの当初の原理を踏み超えて、サドと描き出したその追求の帰結と同じく自分自身の否定となったのである。

(5)エクスピレーションと経験的所有及び笑い
 クロウリーの欲望のアルカナについての記述は、先に引用した記述で終わっているわけではなく、以下のような続きがある。

 エクスピレーション(呼息)は死よりも心地よく、[それは]〈地獄〉そのものの虫けらの抱擁よりも迅速で、笑いを誘うものである。(アレイスター・クロウリー『トートの書』第二部アテュ Ⅺ:欲望)

 この記述と足立の間にもまた布置連関がある。死のインスピレーションが死への欲望の過剰な力の爆発を引き起こすのに対して、エクスピレーションはその逆である。つまり死への欲望の鎮静化である。死への欲望は絶頂に達してエネルギーを焼尽すると一気にすぼむ。だからエクスピレーションは文字通り「迅速」なのだ。「なんだよ、これで終わりか…」以下の、気の抜けた足立の様を見ればそのままであろう。
 だがそれが死よりも心地よいとはどういうことなのだろうか。またそれが笑いを誘うとはどういうことなのだろうか。実際に、足立は自称特捜隊との戦いに敗北した後に弱々しく笑っていた。このクロウリーの字面を追うように敗北後に見せた足立の弱々しい笑いは一体何だったのか。これはサド的至上者の如き至上権の追求から「没落」したことで己がこれから直面することになるであろうおのれ自身の重々しい悲劇的本性、絶望、恐怖、不幸、救いの無さ、愚かさなどといった、己にとって嫌悪感を抱かせる事柄を、身体的・質料的な次元で、なるだけ重々しいものとせず軽くしてやりすごそうとして生じた、苦痛への否定としての、自分自身の不幸を笑った自分自身への笑いであるとしかいいようがない。私はここまで「没落」という概念について無造作に使用したままであったが、この概念はフリードリヒ・ニーチェの以下の文からの借用である。

 悲劇が始まる(Incipit tragoedia)。[…]我は、深みへと降りゆかねばならぬ。汝が夕べに海の彼方へ沈みゆくことにより、なお新たに下界へ光をもたらすがごとくに。汝、豊かさ溢れる天球よ!――我も汝と同じく、下りゆかねばならぬ。我がそのもとへと下りゆこうとする人々、これを呼んで「没落す」と言う。[…]ツァラトゥストラは再び人間になろうと欲する。――こうしてツァラトゥストラの没落が始まった。(フリードリヒ・ニーチェ『悦ばしき知識』§342)

 ここから借用した「没落」とはさしあたって、「孤独から世間へと下りくだる」という意味である。そしてここでは、「「没落」が始まる」ということがそのまま冒頭の「悲劇が始まる」ということ、及び「人間になる」ということと同義となっている。「人間になる」ということは、そのまま「人々の間にある」ということと同義である。このさしあたっての意味を踏まえたうえで、「サド的至上者と同じ至上権を追求することからの「没落」」という言い回し方をしていることをここで断っておく。つまり、サド的至上者であることからの没落とは、「他者の無限の否定による自分自身の肯定」を追求する絶対的孤独者であることから人間同士の相互依存からなる関係の網の目という「現実」に戻ることを意味している。他者に隷属した時間しか持てず、他者のために力を割譲することによって己の力を分散させるのみで、自分自身の力を浪費し枯渇させるだけのその「現実」は、足立にとっては苦痛・苦悩に満ちたウザいものであり、クソだと嫌悪感を抱かせるものであった。それはニーチェが『悲劇の誕生』において述べた、個体化の状態を源泉とする苦悩の状態、即ちディオニュソス=ザグレウスの悲劇的本性そのものであるといえる。

 […]悲劇的人物たちについては、たとえば次のように語ることができよう。真に実在する一人のディオニュソスが多数の人物となり、戦う主人公の仮面をつけ、いわば個体的意志の網にからみ込まれて現象するのであると。今や現象する神が語り行動するとき、彼は、迷い努め悩む個人に似ている。そして彼がそもそもこのような叙事詩的確実さと明瞭さをもって現象するということは、夢の占者アポロンの作用であり、アポロンは合唱隊に彼らのディオニュソス的な状態をかの比喩的な現象によって解き明かすのである。しかし実際は、かの主人公は密儀の悩めるディオニュソスであり、個体化の苦悩をその身に経験するあの神であって、不思議な神話はこの神について次のように語っている。彼は少年の時巨人たちによって寸断され、今やこの状態のままザグレウスとして敬われていると。ここに暗示されているのは、真にディオニュソス的な苦悩たるこの寸断は地水火風への変化と等しきものであり、従って我々は個体化の状態をあらゆる苦悩の源泉と根源として、それ自体忌避さるべきものとして見なければならないということである。(ニーチェ『悲劇の誕生』§10)

 ニーチェの『ツァラトゥストラ』に関して言えば、彼はツァラトゥストラの没落を初めから悲劇的なものとして描き出しているわけだが、そのツァラトゥストラの没落の結末を、彼は悲劇的な死として構想した場合もあったことは遺稿から明らかとなっている。

 ツァラトゥストラはどこへ行ったのか?誰がそれを知ろうか?しかし、彼が没落したことは確かだ。一つの星が、荒涼たる空間の中で消えた。空間は荒涼となった…。(ニーチェ遺稿)

 私の言うことを信ぜよ、ツァラトゥストラは死んで、もはやいない。一つの星が荒涼たる空間のなかで消えた。しかし、その光は ―― ―― ――(ニーチェ遺稿)

 足立の場合、二件の殺人事件及び多数の余罪という、愚かで救いようのないことをしでかしてしまったがために、犯罪者として、現実のルールに従って裁きを受けるということがこれから先待ち受けている。世間の目からすれば冷ややかな目で受け止められるものであろう。またP4U2では文字通り、理不尽ながらも、冒頭から彼は横暴な刑事にボコボコにされるなどしている。彼の人生の結末は、P4U2で足立本人も言っている通り、極刑とてありうるものだ(模範囚であるということ以外は、裁判等でどういう判決がくだされたかなど実際にどうなったかは語られないままである)。そのような現実への埋没は、どれもこれも足立にしてみれば苦悩や苦痛への埋没でしかなく、その結末は悲劇的死である可能性が濃厚であるといえよう。にもかかわらず、彼は自称特捜隊との対決の後に弱々しいながらも笑っていた。超人願望を持ちながらも結局は没落を欲したツァラトゥストラと同様に、足立もサディスティックな至上者たらんとしながらもまた「人間になろう」と欲した。足立にとって「人間になる」ことはお笑い種なのであるが、実際には鳴上との会話の中で、「(鳴上と)同じ力があるのに、こんなに結末が違うなんてな…」というような後悔をしていたり、「君みたいに生きていたら、少しは違ったかもな」と「人間になる」ことへの一種の憧憬・魅力のようなもの感じていたりもしてもいた。「人間になる」ことの心地よさもあることを、彼自身認めざるをえないのである。そのあらゆる意味で矛盾する対立物の総体である自分自身の悲劇的本性を、サド的至上者の至上権を追求しながらも結局は没落をも欲する自分自身を、足立は笑ったのだ。足立の笑いは自称特捜隊との対決の際においては他人を嘲罵するという性格を持った笑いであったが、この時の笑いは自分自身を笑うという性格を持ったのである。他人を嘲罵するという性格を持った笑いでは、まだ他人との関係を解消するものではない。それは自己から顔を背けて笑うという種類の笑いである。だが敗北を味わったところで弱々しいながらも笑った足立の笑いは、自分自身の不幸を笑うという種類の笑いだった。それは苦痛を和らげてなるべく解消しようとして誘われる種類の笑いなのである。自分自身の不幸という苦痛、それもまた笑いを誘うものなのだ。足立の笑いは、ニーチェやバタイユが言うような自己の不幸を腹の底から笑い飛ばすというような大笑いとは程遠い種類の弱々しい笑いだが、芯の芯までトリックスター的である足立の、力尽き果てた弱々しい笑いも、自らの悲劇、自らが没落していくのを眺めながら、なおそれを笑いえたものとして考えることはできるのではなかろうか。

 諸々の悲劇的本性が没落していくのを見て、そしてなおかつ、深い理解、感動、同情(共苦)の彼方で、これを笑うことができるのは、神的なことである。(ニーチェ遺稿※)

※これはバタイユが『無神学大全』でよく引用するニーチェの遺稿(1882年-84年の覚書)からの引用(ドイツ語から直訳した)であるが、バタイユ自身が引用するときは仏語訳であるニーチェの『力への意志』(ニーチェの妹エリーザベトが編纂したものとは異なる、大幅に増補された仏語版)からの引用であり、仏語版から訳すと若干異なる訳になる。仏語での引用は『内的体験』や『ニーチェについて』を参照)

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