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【クラウドトーク 004:君は社会化されたのか?】

前回の「自己疑問」から発展し、今週は「社会化」、または社会への適応について話し合った。体制外で育った僕たちにとって、まるで「社会外」で育ったようなもので、狼の子供ほどではないが、確かに多くの「違い」に直面することが多い。

僕は森林小学校を卒業後、1日だけ公立の中学校に通った。
子供の頃、包み靴を履くことに慣れていなかったので、「包み靴を履く」という規則のために特別に靴を買った。学校に着くと、主任が僕をクラス担任に紹介し、「ねね、森林小学校の子だぞ」と耳打ちした。

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その後、教室に入ると、全クラス36人中35人が既に座っていて、僕は唯一の空席に座った。クラスの35人は全員同じ小学校を卒業していたので、先生は僕一人に自己紹介を求めた。「いいよ、僕は人を知らなくてもいいってことだね」と思い、「どうせ僕を知る人は知るし、自己紹介してもしなくても同じだと思う」と立ち上がって言い、また座った。

次の休み時間に、自分の本を取り出して読み、靴を脱いで足を休めた。すると隣の二人の同級生がささやき始めた。

「おい、あいつ靴を脱いだぞ!」 「うわ、靴を脱いだ!」

僕はパンツを脱いだわけでもないのに、何に驚いているんだろう?そう思い、家に帰って母に「もう行かない、全人中学校に行きたい」と言った。

僕のもう一つの「社会」に入った時期は大学だ。大学では、多くの先生が授業で教科書やPPTを読むだけのスタイルに衝撃を受けた。そこで、「内容が同じなら教科書は何のためにあるのか?」と疑問に思った。もしくは「教科書を買ったなら、何のために授業に出るのか?」と感じた。これまでの学習スタイルでは、教科書があるなら各自で読んで授業で討論するのが当たり前だった。

先生と話し合った結果、「読んでくれる学生がいないので、最初から全部教えるほうが確実だ」という結論に至った。

クラスメートの行動を見て理解したのは、教科書は試験前の一夜漬けのために使われるということだ。

それで、このスタイルは体制内の試験教育のモデルに基づいていることに気づき、なぜ理解できなかったのかがわかった。一方で、情熱のない学生が教授たちの教育熱を奪う悪循環を形成しているとも感じた。結局、学生のモチベーションの問題であり、さらに掘り下げれば公教育が台湾の若者を蝕んでいるという歴史的な問題に行き着く。あら、結局これらから逃れられないのか。そう思い、2年生の時に「自資之明」というグループを設立し、学生の学習意欲を高めることのために動いてた。

ここで議論を広げたいと思ったが、すぐに鋭いコメントが飛んできた:
「社会化について全く話してないじゃないか!」 
「だって僕は社会化してないもん!」

社会に対して、僕は中学時代には「逃げる」ことを選び、大学時代には「抗う」ことを選んだ。森林小学校の多くの仲間たちは「逃げる」ことを選ばず、体制内に入り、様々な違いに直面し、次第に輝きを失っていった。結局、「抗う」ことがうまくいかない場合や、「従う」ことで自分を失うことは、どちらも非常に苦痛だと感じる。

その中で、体制内に入った森林小学校卒業生の中には、両親との協力で「8目のコマ*」を受けないなどの空間を確保し、あまり苦しむことなくやり過ごした人もいる。もちろん、先週述べたように、心にバリアを張り、表面的に従順でありながら自己を守る人もいる。

「社会化とは何か?」については、「自己を失う過程」と言う人もいれば、「社会との付き合い方を感じ取り、決定する過程」と言う人もいる。僕個人としては、「社会や多くの人の考えやルールを理解する過程」だと考える。例えば、赤信号や青信号を理解することだ。もちろん、「僕は僕であり、自分のやり方で横断歩道を渡る」とは言えないが、このルールを理解すれば、もっとスムーズで快適に生きることができる。赤信号で止まることが自己を失うことにはならない。

この「社会や多くの人の考えやルールを理解する過程」は、高みから見下ろすような視点を持っているため、傲慢や自負のように見えることがある。だから、学校運営のレベルに戻ると、「では、どのように学生を育てたいのか?」という問題が出てくる。僕と同じ観察視点を持つ存在にするのか、それとも社会に溶け込む存在にするのか?

日本では、基本的に「反社会化」の路線を取らざるを得ないと思う。つまり、オルタナティブ教育の本質は社会を批判することにあると考えている。日本人はよく「批判ではないけど」と言うが、僕は心の中で批判の意志を持つべきだと思っている。

どのように育てたいかというと、僕は社会化に関して重要なのは思考力だと考えている。そして最終的には批判的思考だ。「社会においで多くの人の考え」と「あなたがそう考えるべきだ」を区別できるかどうかが非常に重要だ。

批判的な思考の教育で「世界を嫌うバカ」を育てることになるのか?僕にとって「思考」自体は「教える」必要がない。生まれ持った能力だからで、それを抑圧しないことが最も重要だ。だから、ディスカッションベースの授業を増やし、「絶対の正解」を減らし、自分の意見を発表することを励し尊重すること、全校ミーティングのような「共に議論し、決定する場」を設けることが基本的に違いを生むと考えている。

8目のコマ*:台湾で「第八節」っていう4時から5時まで、一日の八番目のコマである。法律的には強制的な授業ではなく、サポート的な目的に設置したもの。だけど、多くの学校はこの時間をカリキュラムにすることで、強制的に全員参加を前提にする。

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