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子供たちに車椅子について教える方法

私は子供がもっと小さい頃、3~4年くらいの間ずっと坊主頭でした。理由は外出したときに車椅子を押していると危険なことが頻繁に起こっていたからです。

・人の多い所ではよくぶつかってこられて車椅子に鞄が当たって車いすが壊れたり、子供に当たったりする
・見知らぬ人から暴言を吐かれる
・挙動不審な人に追いかけられる、怒鳴られる
・車椅子を停めておくと勝手にいたずらされて壊される

ということがあったのですが、私が頭を剃って坊主頭にした途端そういうことは激減しました。

友達などは「その身長でその服装で坊主頭だなんて日本刀を振り回しながら歩いている人と同じくらいの威圧感がある。怖くて誰も近寄れない、あははは!そりゃ効果があるわ!」と笑いました。

「女性が坊主頭にしている」ということは何かしらの意味があるのだろうと人に一瞬で思わせます。「怖い人なのかも」と思って距離を取る人もいます。おかげで駅の構内などの人通りの多い所を歩いていても、私の周りには直径2メートルほどの空間ができて、私の子供に鞄を当ててきたりする人はいなくなりました。

今私の子供は7歳ですが今までに車椅子とベビーカーを7台買い替えています。頻繁に破損した理由は誰かに壊されるからです。車椅子を預けなければならない場所で預けた車椅子が戻ってきたときには破損していたり、とにかく自分の目の届かない場所に置いておくと壊される。購入後1週間で激しく投げられて壊滅されたこともありました。

障害児用の車椅子というのは受注生産なうえ診断書が必要なので申請手続きに手間がかかります。注文してから出来上がってくるまで最短でも5か月はかかります。長い時は8か月以上またされることも。だから本当はきちんとした車椅子に乗りたくてもすぐに買えるバギーやベビーカーを使うことも多かったのですがそれもよく壊されました。

坊主頭というのは本当に偉大なもので、それがピタリと収まります。
私は坊主頭が大好きでした。手入れは楽だし、バリカンを買えば美容院代はかからない。美容院に行く時間を子供のお世話に使えます。

バリカンは6mmが最高!


自治体や大学病院などに用事があっていくと、誰もがちょっと困ったような顔をして私にこう言いました。

「何か私にできることはありますか?」
「お母さんが坊主にしなくてもいいような世の中にしてあげたい」
「どうにかして助けてあげたい」

私の髪の長い頃を知る人はみんな「このままではいけない、助けてあげたい」と言うのですが、それはどうしようもないことだったし坊主にしていれば解決する問題だったので私はその頃あまり深く考えていませんでした。

車椅子で出かけると見ず知らずの人に暴言を吐かれたり暴力を受けたりする。ただその相手が大人ではなく子供だったから。

たいていが小学生以下の小さい子供だったから、「子供は小さくてモノがわかっていないからそういうことをするのだ、もっと大きくなってくれたら変わるだろう。子供のすることだし、私が我慢するか何か工夫すればいい。」と思って、小さい子供がいそうな場所に行かないようにして自衛していました。対処方法は明確でした。

・小さい子供のいるところには行かない
・車椅子から目を離さない
・丸坊主になる

たったこれだけ。

坊主頭で解決していた理由は、暴言と暴力と器物破損の犯人たちが子供だったからです。



犯人は子供

実は私は「障がい者に対する差別を感じることがありましたか?」と尋ねられる時「ありません、皆さん良くしてくださっていて本当に助かっています」と答えていました。大人の方には本当に良くしていただいていると思っています。私はレストランなどでもちゃんとした席を用意してもらったりしていたし、障碍者用のトイレが少ないと思ったことはあっても頑張って探せばなんとかなったので想像していたようなひどい差別を受けたことはありません。大人から暴言を吐かれたことなどありません。世の中がそういったことに対して積極的に改善していこうと動いている証拠だと思います。

ただし幼稚園児や小学生の子供たちから酷い暴言を頻繁に受けました。

「そんな重い病気なら早く死んじゃえば楽なのにね!なんで殺してあげないの?!障害のある子を殺すのは親の役目じゃないの?周りに迷惑しかかけないんだから!」
「病気の子供が生まれたら殺してあげるのが親切じゃないの?昔はそうしてたよ?なんでしないの?殺せば?」
「障害を持って生まれなくて本当にうちはよかった!よかった!本当に良かった!病気の子供を持つ母親なんて完全に負け犬!不幸!本当に不幸!」
「なんで車椅子なん?前世でどんな悪いことをしたらそんなひどい病気になれるん?親が悪いん?お前がわるいん?地獄に堕ちろ!」
「車椅子に乗るってことはバカなの?頭は一度悪くなったらもう二度と治らないってお母さんが言ってた、もうこの子のバカは治らないね。あははは」

これを小さい子供たちが言うのです。
大人ではなく幼稚園や小学生の子供が言うんです。

もちろん全員に言われるわけではないけれど、20人いたら1人くらいには言われるのでまあまあな確率だと思います。

最初は「どうして車椅子に乗ってるの?」という程度の声かけをされるのですが、「いつ歩けるようになるの?」とこちらもわからないような、聞かれても困るようなことを聞かれ、「前世で悪いことをしたから病気の子供が生まれたの?」というようにエスカレートしていき、車椅子にゴミを勝手に詰め込んだり棒を突っ込んできたり勝手に押して走り出したりされました。私の子供は怖がってしばらく車椅子に乗れなくなりました。

そういう時子供の親が傍にいたら、大抵は焦って子供の口を塞いで叱りながら走って逃げます。子供は「どうして?!ちゃんと言ってやったのに!」という態度で反発しますが、親はひたすら謝りながら逃げます。

子供たちは大好きな親が間違ったことを言うとは思っていないわけですから、正しいことをしているつもりで暴言を吐きます。その言葉の意味をどのくらい理解しているのかはわからないけれど、普段親が言っていることと全く同じ言葉遣いで言ってくるのでしょう。普通は小さい子供がそういう考え方をしていて自分で考えて自分の言葉でそれを言うとは思えません。

それを見ていた通りがかりの人は「あの人は外面は良いけれど普段裏ではあんなことを言ってたんだ」という目で見ます。

「障がい者差別はいけない」という常識は知っているものの、根深く残るその心は家庭内で悪口という形で現れ「まだ小さいからわからないだろう」と思っていた小さな子供たちに聞かれることで継承されていく。

そして「まだ小さいからわからないけれど、大きくなるにつれて少しずつ理解してくれるようになるだろう」と私は何となく思っていました。

でもそれは全然違いました。
私の知る限り、そういった子は育つにしたがって暴力がエスカレートするんです。

同じマンションに態度の悪い男の子がいました。その子は私の子供と同い年で、会うたびに「どうして死なないの?」などと言ってきていました。しばらくするとその子が通っていた幼稚園に通えなくなったという話を聞きました。理由はほかの子供を虐めていたからです。酷い暴力をふるうので親御さんがいたたまれなくなってそこに通えなくなったそうです。その男の子はどちらかというと優秀なタイプだったと思います。定型発達で賢くて運動も勉強も得意な子でした。ただどんなに指導されても弱い子を見つけて暴力をふるっていました。それは小学校に上がってからも変わらず、いつも加害者だったんです。その子の親はいつも憔悴しきっていました。自分の子供が誰かに近づくたびにビクっとして、何か言う前に引き離そうとしていました。そして結局知っている人がいない田舎に引っ越して行ってしまいました。

それを見て近所のおばあさんたちは「三つ子の魂百までだねぇ」と言いました。私は最初意味が分からなくて尋ねるとおばあさんたちはこういいました。

「あの子の母親に表裏があって家の外と中で言うことが違ったら、子供は迷う。子供は誰だって親が好きだから親の言うことを信じたいのに親が間違ったことを言ったり言わなかったりすると何を信じていいのかわからない。せっかく学校の先生に正しいことを教わっていても大人の言うことを信じて聞くことができなくなっているから治らない。親の悪口を聞いて育っていると誰かを悪く思う習慣が子供についてしまっている。一度そうなってしまったら大きくなって修正しようとしても難しい。あの子はずっと加害者になる可能性を抱えて生きていかなくちゃいけない。親は大変だと思うけどあれも自業自得かもしれない。だってずっとあんなひどい悪口を言っていたんだから自分が悪いよ。あの子よく人を殴るけど親も家でいっぱい殴ってるんだろうね。子供は親と同じようにするから鏡みたいなものだよ」

その子は私の子供に対して「殺してやるのが親切」と言った子です。殺してやるのが親切だと思っているようなら、暴力くらい平気でふるいます。

その子の親が殴って「自分が同じ目にあったら嫌でしょう?!」と教えようとしても治りません。親がすることを真似するだけです。子供は自分の親が大好きなので、いつだって真似するんです。それがたとえ間違っているとわかっていたとしても。自分の親が好きだから。

また「障がい者は補助金をもらっていてズルい、税金泥棒だ」と言ってきた子供もいました。本当にズルいと思うなら自分もケガをして身障者になってお金を貰えばいい。でも望んでそんなことをする人はいません。実際はもらうお金よりも出ていくお金のほうが多いし全然割に合わない。健康で働いたほうが収入が多いということを誰でも知っているからです。

税金など一度も払ったことのない子供がこういうことを言います。きっとそういう子の親は経済的なリテラシーが低いので同じようにお金に対する感覚の鈍い子供を育てることになると思います。経済と社会の正しい構造と知識を教えず、悪意に満ちた「誰かがどこかで言っていたようなこと」しか言えないのだから。

「これはこういうことだからちゃんと覚えなさいよ」と言われても子供はなかなか覚えないけれど、親の普段の態度から子供が自然と学習して身に着けるものはゆるがない。恐ろしいことだと思いました。

他の車椅子ユーザーのお母さんたちも同じ体験をしていた

そしてたまたま私がそういう体験をしていたというだけでなく、私以外の車椅子ユーザーのお母さんたちも似たり寄ったりの経験をしていました。中には「私は平気よ~!全然そんなことなかったわ~!ハッハッハ、来るなら来いよ!」という豪快なママさんもいましたが、私ほどではなくてもちょっとした嫌な言葉は経験していて、それはみんな大人からではなく子供から受けていました。

「子供だから仕方ない」
「子供の言うことだから」
「車椅子に接する機会がないせいだ」
「いつかわかってくれる日が来る」

そう思ってどのお母さんも我慢していたんです。いい大人がいちいち目くじらを立てるわけにもいきません。だからみんな我慢していて、それを表に出している人は少なかったんです。誰だって本当は嫌ですよね。

ただ坊主頭になって2年目あたりから、我慢することは良くないことだといろいろな人から指摘を受けました。

「だってそれじゃ外出するのも怖いだろうし実際車椅子を壊されたりして被害を受けている。小学校だって行けない。私たちが考えていた以上にしっかりとした差別を受けているじゃないですか」と、自治体の人に驚かれたのです。

「子供のすることだから」と放置していい問題ではないと叱られました。
かといって「そんなこと言っちゃダメよ」と注意したって子供たちは変わりません。大好きな自分の母親が言った言葉の方を信じ続けるから…。


きっかけはありふれた母親たちの何気ない言葉

悪口の根源は母親の正直な気持ちなのだと思います。
「自分の子供は病気じゃなくて良かった、病気の子供を持っている母親は不幸だけど自分はそうじゃない、良かった」と安堵する母親から漏れ出た一言には悪気もなくただ自分の子供を愛するがゆえだと思います。

でもそんなことを言われて育った子供が母親になったとき、病気の子供が生まれたらどうでしょうか。「お前は不幸だ、お前は悪い。病気の子供を産むなんて恥だ。」と言って家族や親戚に追い詰められたら。誰にもそういわれなくても、三つ子の魂百までで幼いころに母親が言っていた言葉が思い出されたら、子供の病気の受け入れがすんなりいくでしょうか?自分の母親が忌み嫌っていたものに自分がなってしまったのです。

大変な矛盾に苦悩すると思います。だってどんなに病気でも母親は子供がかわいいと思うものだから。

世の中は難病ばかりではありません。発達障害の子供はとても増えていて、以前は8人に1人だと言われていたのにここ数年で「うちの幼稚園では3人に1人が発達障害です」というところもある。思った以上に大勢の母親が「病児の母」になる時代です。そしてその多くが病気の受け入れに困難を感じている。

それは多くの人が勘違いしているからです。病気の子供を持つことは不幸なことだと思ってる。宗教的な考え方をしている人ほど「悪い所が本人にあったから病気で生まれてきた」と言います。そんなわけはありませんよね。現代社会でそんなことを人前で言うと笑われるので誰も言いませんが、それでもそういう考えを持っている人もいます。


「病気の子供を持つことは大変なことは多いけれど不幸なことではない」

私はずっとそう思っていました。それよりもせっかく産んだ子供と仲良くなれないほうがずっと嫌です。私は自分の母親と仲が良くなかったのでその辛さがわかります。五体満足で生まれた子供にすら「あそこがいやだここがいやだ」と気に入らない部分を指摘して子供を傷つけている人はいます。私はそんな風にはなりたくなかった。

病気の子供の母になるよりも、子供と仲のよくない母親になるほうがずっと嫌だった。「病気なんて、それくらい何よ」って思っています。病気であることは子供を嫌いになる理由になんかならない。

病気の子供が生まれるのは確率上仕方のないことです。動物が子供を産む限りそのリスクをはらんでいる。でもそれを支えるのが社会です。人間は弱い動物だからこそ集まって協力して生きている。一切の病気にならない人は世の中一人もいません。病気とケガはつきものです。人は簡単に死んでしまうよわい動物だから社会性を持って共同で生きている。病気を無駄に恐れるのではなく、そのリスクを共に乗り越えることで人類は発展していく。

呪われた言葉以上に、人間が暮らしやすくなるような良い言葉が世のなかに広まって、病児の母親の心を支えてくれたらいいと思います。

それが成熟した社会の英知だと思います。


病気の子供も言われたことの意味は理解してる

でもどうして車椅子に乗っているだけで酷く侮られなければならないのでしょうか。

車椅子に乗っているからと言って知能が低いとは限らないし、どんなに知能が低くてもそういうことは言われたら誰だってわかります。

でもみんな勘違いしていて「車椅子に乗っている子には酷いことを言っても理解できないだろう」と思っている。

だから私の子供が「こんにちは!元気!?今日は暑いね!」と我先に挨拶をしたら、みんなビクっとして逃げ去ります。

うちのベビーシッターさんが「嫌な子供が近づいてきて危ないと思ったら大きい声であいさつをしろ」と教えてくれたんです。

「挨拶は正しいやり方でしょ?何も悪いことはしていなくても悪いやつに対応できる。虐めてくる奴はしょせんその程度のつまんないやつなんだ。だから心配するな、怖がるな。できるだけ大きな声であいさつをしろよ。ちゃんと喋れると思ったら車椅子だからってナメられない。だってしゃべれるなら虐めたことを大人にチクられると思うからな!あいつらはすぐに逃げるぞ!」と言うんです。

それは本当に効果があったので私の子供の言語発達が進むにつれて、徐々に私は髪の毛を伸ばすことができるようになりました。

挨拶をした時、必ず私の子供は私のほうを見て「挨拶をしたよ!」と言うんです。それは「嫌なことは言われなかったからお母さんは傷つかないで」という意味です。こんなにも小さいのに、こんなにも不自由な体をしているのにいつも私を思いやって私を守ろうとしてくれる。自分だっていやなのに、私のことを思いやってくれる。私がへこたれているわけにはいきません。

「どうしてその子を殺してあげないの?」と自分の親が言われているのを見た体の不自由な子供の気持ちがどんなものか、思いやりの心を持つ人ならそれがどれだけ酷いことかわかるでしょう。

私の子供は顔に麻痺があって「あーあーあー」としか言えなかったころでもドラマを見て笑ったり映画が大好きで、言葉は大人並みに理解していたんです。とても傷ついたと思います。同年代の子供をチラッと見るだけでも怖がっていました。

本当は自分だって怖いのに、それに耐えてでも私が傷つかないように頑張って挨拶をしているんです。酷いことを言われるたびに私が嫌な思いをしているのを知っているから。

そのことの意味を、私はよく考えなければならないです。


坊主頭の私が子供の傍にいれば私の子供は暴言を吐かれませんが、私がいなければ近所の子供に殴られたりします。根本的に何かを変えていかなければならないと私は思っていたけれど、そういう子供たちのいない場所で暮らすということしかできていませんでした。

だから私は就学に関しての聞き取りがあったときに「健常児が怖いので普通の小学校にはいかせられない」と行政や教育委員会に伝えました。「自分の子供がけがをさせられても困るけれど相手の子を加害者にするわけにはいかない。普通の小学校にいくということは考えられない。だって必ずいじめの加害者を作ってしまう。それは良くないことだから」と。

行政や社会福祉に携わる人ほど、「根本的に変える何かが必要ですよ。これは構造的な問題だから私たちは何かしなければいけない。加害者である子供を指導の機会もなく放置している限り将来いじめにもつながってくるし、子供のすることだからと放置していいことじゃないし、このことを誰も知らないことの方が問題ですよ」と心配してくれていました。


改善する方法をみんなで考える

大人は車椅子がどんなものか知っていますが、子供は知りません。車椅子が子供たちにとってもっともっと身近なものになればよいのですが病気の子供は普通の保育園も幼稚園も小学校も断られることが多いので定型発達の健常児が病児と触れ合う機会はとても少ないです。

でもこれは普通のお母さんたちにも言えます。子供たちが車椅子の子供への対応を知らないだけでなく、多くのお母さんたちもその方法は知らないから子供に教えられない。知らないから恐れ、恐れは悪口になります。悪口とは無知から来るものです。知らないからこそ知っているかのように言葉を選ぶ。だからこそその言葉は定型文で誰もが同じことを言う。

インクルーシブ教育に理想を掲げる人たちがどれだけ障害児と健常児を一緒に教育しようとしても無駄です。その時にはもう遅い。本当はもっと早く、まだ赤ちゃんのうちから刷り込まれているのだから、途中からは変わらない。

悪口を言うお母さんたちに「言うな」と言ったって言うでしょう。
恐れる母親をコントロールすることは難しい。


だったら方法は1つしかない。

教師による教育が始まる前に、教えられない親の代わりに子供たちに教えてくれる人が必要です。


私ずっと言っていたんです。

誰かに「私に何ができますか?お母さんが坊主頭にしなくてもよくなるように、何ができますか?」と尋ねられるたびに。

「アニメのキャラクターに車椅子の子供を登場させてほしい、そうすれば子供たちは自然に覚えてくれると思う。病気の子供とも仲良くなれるんだってことを。親が教えられないならアニメが教えてくれたらいい。親や教師の言うことを聞けなくても子供たちは好きなアニメのキャラクターの言う事だったら聞ける。子供が見るTV番組や玩具に車椅子を登場させてほしい、そして見慣れてくれて、それが悪いものではないと学習してほしい」って。


私の子供はしまじろうが大好きです。最初は車椅子も嫌いだったと思いますが、車椅子に乗るしまじろうを知ってから変わりました。

しまじろうのわお!に車椅子レーサーの松永仁志選手が出演しているのを見て真似して自分で漕ぎ始めたんです。それまでは乗っているだけでした。しまじろうが車椅子に乗っているから、車椅子を好きになれたんです。療育を拒絶していたので車椅子の乗り方などは習っていませんでしたが、その動画から学んですぐにできるようになりました。公園に行くたびに、まるで選手のような動きで漕いでいたんです。

当事者だって変わるのだから、それ以外の子だってきっと変わると信じたい。


車椅子はカッコいいってことを。
車椅子は弱者の象徴ではなく、カッコいいものだってことを。
車椅子に乗っている子供は特殊な存在ではなく普通の子供だってことを伝えて欲しい。

車椅子に乗っている子にもそうでない子にも知って欲しい。

目が見えない人が眼鏡をかけるように、足が悪いひとは車椅子を使う。
カッコいい眼鏡があるようにカッコいい車椅子がある。
義足だってカッコいい。
眼鏡が似合う人がいるように車椅子のスペシャリストがいる。
たとえ事故や病気で車椅子に乗ることになっても、カッコいい人になればいいだけだってこと。それはうわべのカッコ良さじゃなくて内面がとても大事だってこと。

理屈じゃなくみんなの心に届けて欲しい。
カッコいいんだってこと。
病気に負けない強い子供たちのカッコよさを知って欲しい。

「障がい者の差別はいけない」「優しくしなければいけない」なんて習う必要なんてどこにもない。「弱いから助ける」なんて思わなくていい。友達だから助けたいと思ってもらえないと意味がない。

「差別の心」というのは突き詰めれば「自分さえよければいい、他人はどうでもいい」という心を持つということです。でも友達ならそうは思わない。

誰かに教えられて覚えるのではなく、自然と覚えられるのがいい。
叱られても心が動かなければ人は学べない。

こんなこといつか誰も言わなくても済む社会になったらいい。

たとえ多くの母親に子供を教育することが難しくても、社会が教育していく。

「弱い人を支えることは、すべての人にとって利益になることだ」

という人類が見つけた知恵を理解できない人がまだ多くても、私の坊主頭を心配してくれた多くの人が「自分さえ、自分の子供さえよければいい」とは思わず「自分以外の子供も正しく育てたい。いつか自分の子供や孫が困ることが起きないように」と思ってくれた結果が、最近実になり始めています。


最近しまじろうのわおに車椅子のキャラクターが出てきていて、驚きました。

普通はアニメに車椅子の子が登場することで健常児のいじめの加害者を抑制できるなどとは誰も想像がつかないことだと思います。でもそれは確実に社会を動かすでしょう。

障害児を虐める子は誰だって虐めます。普通の子も虐めます。弱い人を支えることはみんなのためになるとはこういうことです。


一歩、踏み出したのだと思いました。

誰がどう働きかけて実現したのかはわからないけれど、ありがとう。




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