我、育成厨なり
〇〇厨という表現があります。
厳密には蔑称なのですが、派生して中毒者の意味も持ちます。
いわゆるネットスラングで、小説の設定に拘る設定厨、ニコニコ動画の中毒者としてニコ厨という言葉があったり、〇〇の部分に相手の分野を入れ込んで罵倒するのに使われたりします。
罵倒で使われるなどあまり良く無い意味で使われていることもあります。
ところで僕は端くれながら教育業界に身を置いているのですが、この業界に入りたいと思った理由は次のようなものです。
「人物、生物が、関わる以前の個人的な課題を克服、ないし特技を伸長し、先に進んでいくのを見ることに垂涎を留め得ず。
さらに社会がそういった人材、生物によってより先へ進んでいっているように見えるのを見ることに耐え難い興奮を感じるから」
………なんとなく、気色悪いので、ある程度体面を整えようとしたのがこちらです。
「人や生き物が成長し、より先へ進んでいく姿というものに感動し、そういう場面が好みなので、自らがその成長過程の一部として直接ないし間接的に関わることができたらこれ以上の喜びはないと思ったため」
……隠しきれない変態加減が多少ある気がしますが、要は、人や生き物が成長する過程を見るのが好きだから。というものです。
成長過程だけなら生き物を飼えば直接眺めるだけなら目的を達成します。
それでもいいのですが、僕はその中でも「人」の変化の過程が見たいのです。
戦争映画が好きな理由の一つとして「登場人物の変化がわかりやすいから」というのがあります。
頼りなげな新兵だった主人公が後半自分の後発兵士を助ける。
元気だった兵士が人が変わったように冷徹になる。
冷徹だった上官が戦後主人公に柔らかい表情を見せる。
極限状態と非日常が作り上げる人の変化というものにテンションが上がります。
話を教育に戻しますと、やはり日常でそういったものを常日頃目にできるのは教育現場において他ないのではないでしょうか。
義務教育であれそうでないものであれ、教育現場というのは「人の成長、変化」で溢れています。
むしろそれがない現場は「教育」がなされていないといって過言ではないでしょう。
教育現場というところに入ってしまえば、日常業務が好物の「成長観察」となる。
こんなに喜ばしいことはありません。
自身が人の成長を手助けするほどの能力が十分に備わっているかはわかりませんが、踏み台になるくらいのことはできるはず。
そんな動機が第一にあって、教育現場を志しています。
ここではその動機の是非は考えませんが、ご意見あれば拝聴の上検討するべきだとは思います。
それはさておき、「成長」というものほど面白いものはやはりありません。
とりわけ未活躍だったものが、ある程度の変化、成長、世代交代を経て活躍する様は、ある種の感動もあってより素晴らしく、下克上やダークホースといったものが持て囃されるのもやはりそういう魅力があるからではないでしょうか。
こう書くと活躍なき成長は無駄と思っている捉えることも可能ですがそうではありません。
僕自身が興奮するのは経験前後の「変化」そのもので、それが活躍に繋がっていようがいまいが特に関係ないのです。
当然ながら僕が興奮するかどうかも重要ではありません。
先ほどから成長という言葉に合わせて変化という言葉を使っていますが、後退、反転などマイナスの変化も含めて素晴らしいものです。
なぜならマイナスの変化というのは、何かしらの行動や経験の結果そうなっているはずで、マイナスに「なった」ということはプラスに「する」または「しようとする」ことも可能なはずです。
この「しようとする」という試行錯誤の動作が発生するところもまた成長、変化の魅力です。
悩み苦しみ何かをやってみる。
結果が出なくて挫折する。
周囲が立ち上がれない何かを補助する。
この「成長」にまつわる一連の動作全てが面白く、そこにドラマが生まれるのではないでしょうか。
そういったドラマ、いわゆる物語を身近で味わうことができるところに「成長」、そしてそれをもたらす「育成」の魅力があります。
ポケットモンスターを筆頭とする育成系ゲームが流行る理由もこういうところにあるのではないでしょうか。
苦しい練習や試行錯誤を経て偉大な戦果にたどり着く。
この過程が面白く、楽しいからこそ「育成」というものが今なお衰えぬコンテンツになっているのだと思います。
私はゲーム自体はうまくはないかもしれませんが育成厨です。
うまくいかない時はこれはもう成長しないと諦めるのではなく、どうやったらうまくいくかを考える。
必要なのは根気と思考錯誤です。
教育者として上にあげた動機はどうなのかわかりませんが、日々自身の成長も試みつつ周囲の成長剤になっていきたいです。
それではまた。
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