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【古代オリエント13】 新アッシリア⑵ 〜世界帝国とその崩壊〜

 アッシリア史の3回目(最終回)は,新アッシリア帝国の絶頂期と,そのあまりにも呆気ない幕切れについて紐解きます。

1) 「世界帝国」完成へ

 サルゴン2世の治世までに獲得した広大な領土をもとに,史上初の「世界帝国」に成長した前7世紀初めからの約70年間は,アッシリアにとってまさに絶頂期でした。

サルゴン2世の最大版図(再掲)

▶︎センナケリブ 〜ユダ攻撃とバビロン破壊〜

 サルゴン2世の没後,皇太子として父王を補佐してきたセンナケリブ(前704〜681)が王位につきます。

 センナケリブは,父王が遠征途上で惨殺されたことを受け,新都ドゥル・シャルキンを放棄してニネヴェに遷都します。
 これ以降,アッシリア滅亡までニネヴェが帝国の首都となります。

 また,センナケリブは拡大一辺倒だった領土政策を転換し,無用な遠征を控えるようになりました。
 ただ,アッシリアの利害を脅かす相手には容赦ない報復を与えました。

 前701年,ユダ王国のヒゼキヤ王がエジプトと結んで反乱軍に加わったため,センナケリブはアッシリア王として初めてユダを攻撃しました。
 首都イェルサレム以外の都市をことごとく征服して破壊し,王の居所イェルサレムを包囲しました。

 結果的に,この時イェルサレムは陥落せず,アッシリア軍は撤退します。その事情について旧約聖書に3か所の記事があり,そのうちの一つに,ヒゼキヤ王が降伏して貢納したことが記されています。

 ユダ王国はその後,アッシリアより100年以上長く存続します。

[写真]ヒゼキヤ・トンネルの出口(イェルサレム)
 ユダのヒゼキヤ王は,アッシリアとのイェルサレム決戦に備えて準備をしていました。
 イェルサレムでの籠城を想定し,水を確保するため,城壁外の水源から城壁内の池まで水を引く地下水道を掘らせたのです。全長500mを超える曲がりくねった水道は「ヒゼキヤ・トンネル」と呼ばれ,現在,観光が可能です。
 写真はヒゼキヤ・トンネルの出口に,のちのビザンツ時代につくられた貯水池の遺跡です。

 一方,バビロニア情勢はより複雑でした。

 サルゴン2世の時代にアッシリアはバビロニアの覇権を奪回しましたが,伝統あるシュメール・アッカド諸都市の扱いは難しく,さらにカルデア人アラム人の勢力が,東方エラムの支援を得て反乱を繰り返していました。

 センナケリブは一旦反乱を鎮圧し,長男をバビロニア王に立てました。しかし,前694年,反アッシリア勢力がこの新王をエラムに引き渡して,王位を奪ってしまいます。

 これに対して,センナケリブは数度のバビロニア遠征でエラム軍を破り,首都バビロンを包囲します。
 前689年,センナケリブはバビロンを征服して徹底的に破壊し,最高神マルドゥク神像を捕囚。翌年,自らバビロニア王となりました。

 その後,センナケリブは末子のエサルハドンを王位継承者としましたが,これに不満を募らせた他の息子たちにより暗殺されてしまいます。

▶︎エサルハドン 〜世界帝国建設〜

 父王を殺されたエサルハドン(前680〜669)は,身の危険を感じて国外に亡命しましたが,その後,反対勢力を一掃して王位に就きます。

 当初からアッシリア王とバビロニア王を兼ねていたエサルハドンは,父のセンナケリブが悲惨な死に方をしたのは,バビロンの破壊によりマルドゥク神の怒りをかったためだと考え,バビロン復興に取り組みました。

 政治・宗教・文化に渡って,メソポタミア全域に絶対の求心力を誇るバビロンの統治は,この後もアッシリアにとって難題として残っていきます。

 一方,この時代にも,シリア・パレスチナの属国の反乱は収まらず,業を煮やしたエサルハドンは,背後で反アッシリア勢力を扇動するエジプト(第25王朝/クシュ)に遠征を行います。

 前671年,エサルハドンはついにエジプトへ侵攻し,メンフィスを占領します。エジプト王は故地ヌビアへ敗走し,アッシリアは初めてエジプト(下エジプト)を支配下に組み込みました。

 この頃,鉄鉱石の主産地を領有するアッシリアが鉄製武器を用いたのに対し,鉄に乏しいエジプトは青銅製武器が中心で,戦力的に差がありました。

 こうしてアッシリアは,西アジアからエジプトにいたる最大版図を達成し,史上初の「世界帝国」と呼ばれることになります。

新アッシリア帝国の最大版図 アッシュル=バニパルの頃

 しかし,強国アッシリアといえども,遠隔地の大国エジプトを統治し続けることは困難でした。

 前669年にはフェニキア都市ティルスとエジプトが同盟して反攻。エサルハドンはティルスを討伐し,その後,再びエジプトへ進軍しますが,その途上,病死してしまいます。

<一口メモ> 「世界帝国」とは
 「世界帝国」という言葉に明確な定義があるわけではありませんが…
 一般に,広大な領土を征服し,さまざまな民族を服属させて支配する国家を「帝国」と呼びます。その中でも,複数の大陸にまたがるほど強大な国家を「世界帝国」と呼ぶことがあります。
 新アッシリア帝国が「史上初の世界帝国」と呼ばれるのは,わずかな期間ながらエジプトを支配下に収め,アジア・アフリカにまたがる領土を獲得したことがポイントのようです。
 一方で,アケメネス朝ペルシアを初の世界帝国とする見方もあります。アケメネス朝は西アジアを中心に,東はインド国境,西はリビア,アナトリア,バルカン半島(ヨーロッパ)にまで拡大し,三大陸にまたがりました。

《参考文献》阿部拓児著『アケメネス朝ペルシア』(中公新書) 中央公論新社 2021

2) 強王アッシュル=バニパル

 エサルハドンは,生前,息子のアッシュル=バニパルをアッシリア王とし,その兄をバビロニア王とする王位継承を定めていました。
 エサルハドンの死後,その定めに則って王位継承が行われます。

[写真]アッシュル=バニパル王のライオン狩り
 中央で弓を引くのがアッシュル=バニパル。アッシリアのレリーフは美術史上でも評価が高く,特にアッシュル=バニパル時代のライオン狩りの図像は傑作と言われています。
 古代のメソポタミアは現在より湿潤な気候で,ライオンが生息していました。王のライオン狩りは宗教儀礼の一つでもありました。
 アッシュル=バニパルは,当時の王としては珍しく識字力があり,ニネヴェに図書館を築いて,多くの粘土板文書を収集していました。

ロンドン・大英博物館所蔵

▶︎エジプト全土征服

 アッシュル=バニパル(前668〜627)は,父王の遺志を継いでエジプト遠征を継続しました。前663年にはテーベを陥落させ,第25王朝の王を再びヌビアへ追いやって,エジプト全土を手中に収めます。

 アッシュル=バニパルは,臣従を誓った下エジプトのリビア系勢力(サイスが根拠地)にエジプトの管理を任せました。

 やがて,このリビア系勢力の王プサメテク1世が台頭し,エジプト第26王朝(前664〜前525)を開きます。

 第26王朝は,前655年,アッシリアから独立を回復します。しかし,これ以降,エジプトのアッシリアに対する反攻は影を潜めました。

[写真]プサメテク1世の彫像(前664〜610)
 下エジプトのサイスを根拠地とする王家の出身で,リビア系エジプト人が興した第24王朝の血統とされます。
 プサメテクが興した第26王朝エジプト土着の王家による王朝で,テーベの豪族と友好関係を結んで上エジプトまでを支配下に収め,エジプト全土を統一しました。古代エジプト最後の繁栄期ともいわれます。

ニューヨーク・メトロポリタン美術館所蔵

▶︎兄弟戦争と宿敵エラム討伐

 アッシュル=バニパルが即位した頃,エラム王国ではテウマンと呼ばれる人物が王位につき,エラム全土を統一してアッシリアと敵対しました。

 前653年,アッシュル=バニパルはエラムに遠征して,テウマンとその息子を倒し,エラムを2つに分割して属国としました。

 一方,バビロニアでも反アッシリア勢力が結集していました。

 アッシュル=バニパルの兄が統治するバビロニアは,当初からアッシリアに従属させられ,アッシュル=バニパルは,バビロニアの内政に干渉していました。

 このような状況に不満をつのらせたバビロニア王は,前652年,ついにアッシリアに対して反旗を翻し,兄弟戦争に突入します。

 バビロニア側には,カルデア人アラム人をはじめ,エラム人アラブ人の諸部族が支援していました。

 アッシュル=バニパルはバビロニアの諸都市に書簡を送り,バビロニア王を「兄弟にあらざる者」とし,彼を信じないよう諭しました。
 これに呼応して南部のウル,ウルクなどがアッシリア側につきます。

 アッシリア軍はバビロンその他の反抗する都市を包囲。バビロンは2年にわたる包囲戦の末,前648年,ついに陥落し破壊されます。

 兄弟戦争に勝利したアッシュル=バニパルは,前647年頃,反乱に加担したエラムに遠征し,根拠地スサを破壊して壊滅的打撃を与えます。
 弱体化したエラムは,前7世紀末までにメディア王国の支配下に入り,その後,再興されることはありませんでした。

 シュメール初期王朝時代から約2000年に渡ってバビロニアの歴代王朝とせめぎ合い,ウル第3王朝やカッシートを滅亡に追い込んだ宿敵エラムは,こうして歴史から姿を消しました。

[写真]エラム王国のジグラッド(イラン)
 前13世紀頃,エラムの根拠地スサの南郊に築かれた宗教施設の遺構で,チョガ・ザンビールと呼ばれます。
 ジグラッド(聖塔)を中心に寺院や王族の墓があり,市民の居住地(街)ではなかったとされます。また,前7世紀にアッシュル=バニパルに破壊されるまでは使用されていたと考えられています。
 ジグラッドの保存状態がよく,1979年にイランで初めてユネスコの世界遺産に登録されました。

3) 帝国崩壊へ

 前627年,アッシュル=バニパルが亡くなり,40年以上に及んだその治世は終わりを告げます。この後,アッシリア帝国は急速に衰退します。

 それまで多民族からなる広大な帝国を維持できたのは,アッシュル=バニパルなればこその事績でした。
 彼の死からアッシリア滅亡にいたる経緯については,史料がとぼしく詳細はわかりませんが,短期間に王の交代が相次ぎ,混乱したようです。

 バビロニアでは,アッシュル=バニパルが死去した年に,彼が任命した傀儡の王も亡くなり,1年ほど王が不在の空白期間が続きました。

 この間隙にバビロニア南部の指導者ナボポラッサルが台頭し,アッシリア勢力を一掃して,前625年,バビロンに新バビロニア王国カルデア王朝)を樹立します。

 一方,ザグロス山脈をはさんで東方に位置するイラン高原西部では,イラン系メディア人が前8世紀(一説には前672年頃)にメディア王国を築き,アッシリアと敵対していました。

 メディア王国は,一時期,北方から侵攻してきたスキタイ人に支配されましたが,前625年に即位したキュアクサレス2世がスキタイを撃破し,イラン中央部を支配して最盛期を向かえます。

 前615年,キュアクサレス率いるメディア軍はアッシリアの属領や属国を征服。翌年のニネヴェ攻略には失敗しますが,矛先を変えて古都アッシュルを攻め,陥落させました。

 キュアクサレスは,アッシリアと敵対するバビロニアのナボポラッサルと同盟を結びます。

 前612年,バビロニア・メディア連合軍はニネヴェを包囲したのち,ついに陥落させ,新アッシリア帝国の崩壊は決定的となりました。

 アッシリアの残党は,最後の王アッシュル=ウバリト2世を擁して帝国西部の属州へ逃れ,かつての属国エジプトに援軍を求めます。

 アッシュル=ウバリト2世は,エジプト第26王朝ネコ2世の支援のもと,ニネヴェ奪還を目指しますが,新バビロニアに撃退されて果たせず,前609年の記録を最後に歴史から姿を消します。

 こうして,1400年に及ぶアッシリアの歴史は幕を閉じました

《参考文献》
▶︎阿部拓児著『アケメネス朝ペルシア』(中公新書) 中央公論新社 2021
▶︎大貫良夫・前川和也他著『人類の起源と古代オリエント』(世界の歴史1) 中央公論社 1998
▶︎小川英雄・山本由美子著『オリエント世界の発展』(世界の歴史4) 中央公論社 1997
▶︎河合望著『古代エジプト全史』雄山閣 2021
▶︎小林登志子著『古代メソポタミア全史』(中公新書) 中央公論新社 2020
▶︎杉本智俊著『図説 聖書考古学 旧約篇』 河出書房新社 2008
▶︎長谷川修一著『聖書考古学』(中公新書) 中央公論新社 2013
▶前川和也編著『図説 メソポタミア文明』 河出書房新社 2011
▶︎前田徹他著『歴史学の現在 古代オリエント』山川出版社 2000

★「アッシリア史 補筆 〜王の事績簿 & 帝国の構造〜」へつづく

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