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【古代オリエント12】 新アッシリア⑴ 〜「帝国」への道〜

 前回の「アッシリア帝国前史」に続き,前1000年紀の新アッシリア帝国について2回に分けて記します。
 これ以降のオリエント世界は,強大な「帝国」が栄枯盛衰を繰り返す時代に突入します。

1) 「帝国」への序章

▶︎前1000年を挟む混乱期

 前2000年紀の終わりに,メソポタミアを襲った大飢饉とそれに続くシリア砂漠周辺からのアラム人(西方セム語系)の流入で,アッシリアは大打撃を受け,急速に領土を奪われました。

 また,ヒッタイト滅亡後,アナトリア南東部からシリア北部やユーフラテス川上流域に新ヒッタイト(ルウィ系)の都市国家群が建国されて,アラム人と対立していました。

 一方,バビロニアでは,前11世紀末にイシン第2王朝が滅びた後,前1000年紀初めには,短期間にいくつもの王朝が入れ替わりました。
 
 この間,バビロニアでは,アラム人に加えてカルデア人(西方セム語系?)が侵入し,いくつかの部族集団ごとに南部に定住しました。
 東方のエラムとの争いも相変わらず続いており,政治情勢は複雑で非常に不安定でした。

前10世紀後半のアッシリアと周辺

▶︎鉄器・騎馬隊・ラクダ

 前10世紀後半から,アッシリアは失われた「アッシュルの地」の回復を目指して軍事遠征を繰り返し,しだいに勢力を盛り返し始めます。

 前9世紀には中アッシリア時代の版図をほぼ取り戻し,さらに拡大を続けました。新アッシリア時代の急速な領土拡張には,下記のような要因があったとされます。

 まず,前1000年紀に入って広く鉄器が普及したこと。
 武器だけでなく,農具や工具も鉄製になりました。それによって山岳部にも耕作地を広げることができるようになり,居住地も広がりました。

 そして,機動力や戦闘力に優れた騎兵隊(騎馬隊)を取り入れたこと。
 アッシリアは最も早く戦闘に騎兵を導入したとされ,従来からの戦闘用二輪馬車に加えて用いられました。

 さらに,荷役獣としてラクダが家畜化されるようになったこと。
 前1100年頃,山岳運搬用のフタコブラクダが,前700年頃,砂漠輸送用のヒトコブラクダが導入され,砂漠を横断する遠征も可能になったのです。

[写真]カルフ出土の騎兵隊のレリーフ(前728年頃)
 カルフは,前9世紀前半から前713年頃までアッシリアの首都が置かれた都市。前9世紀には,王宮の文書やレリーフに「騎兵」が登場するようになります。
 アッシリア軍に早くから騎兵が導入された背景には,カフカス山脈の北方からメソポタミアに侵入した騎馬遊牧民(キンメリア人やスキタイ人)との接触の影響を指摘する説があります。

(ロンドン・大英博物館所蔵)

2) 先帝国期(前9世紀)

 前9世紀のアッシリアは,前8世紀半ばからの「帝国期」に先立つ時代として「先帝国期」と呼ばれ,主に二人の王が中心になります。

▶︎アッシュル=ナツィルパル2世

 一人はアッシュル=ナツィルパル2世(前883〜859)で,その治世にアッシリアの領土は,北はティグリス川上流域,東はザグロス山脈やクルディスタン,南はバビロニアとの境界にまで及びました。ただし,バビロニアの征服には至りませんでした。

 また,地中海方面へ何度も遠征し,ビブロス・シドン・ティルスなどフェニキア人都市にも貢納を課しました。

 そして,古都アッシュルの北郊に,新都カルフ(ニムルド)を建設して遷都しました。カルフは,その後約150年間,アッシリアの首都となります。

[写真]アッシュル=ナツィルパル2世と宦官(前9世紀前半)
 カルフの宮殿跡で発見されたレリーフの一部。左はアッシュル=ナツィルパル2世,右は王に仕える宦官と考えられています。宦官は去勢されて王宮に仕えた男子で,ひげがない姿で表現されます。
 写真の宦官が右手に持つのはハエなどを追い払う道具,左手に持つのはオイルランプか,または王の盃にワインを注ぐ器具ではないかと推測されています。
 宦官たちは,やがて官僚として力を持つようになり,属州の長官などの要職にも就きました。

(ニューヨーク・メトロポリタン美術館所蔵)

▶︎シャルマナセル3世

シャルマナセル3世の領域拡大

 次のシャルマナセル3世(前858〜824)は,地中海に近いユーフラテス川大湾曲部両岸を支配していたアラム系国家を討伐して,西方へ領域を広げ,周辺の要地を属州化しました。

 この頃,北方ではウラルトゥ王国が勢力を広げていました。その領域が鉄鉱石の主産地で鉱物資源が豊かだったため,シャルマナセルは繰り返しウラルトゥへ遠征して戦いました。

 また,シリア・パレスチナでは,ダマスクス(アラム)の王を盟主としてイスラエル,ビブロス,エジプト,アラブなどの王が反アッシリア同盟を結成して反抗しました。
 シャルマナセルは,この同盟軍の抵抗に苦戦しながらも,シリア諸国やイスラエルを服属させていきます。

 一方,バビロニアとの関係は友好的だったようで,バビロニアの内乱に際しては援軍を送って鎮圧し,バビロニア王と条約を結んでいます。

 しかし,シャルマナセルの死後には,王位継承をめぐる争いから王宮の求心力が低下しました。属国からの貢納は滞りがちになり,属州に派遣された州長官が強い権力を持って,王のように振る舞うようになりました。

<一口メモ> イスラエルの王国
 セム語系ヘブライ人(イスラエル人)がパレスチナに統一王国を築いたのは,前1000年頃と考えられています。
 旧約聖書には,ダビデが12の部族を一つにまとめ,対立していたペリシテ人を打倒して強大な王国を築いたこと,ダビデの子ソロモンの時代に王国が繁栄を極めたことなどが記されています。この時代の王については,聖書以外に史料がなく,その信憑性をめぐっては議論があります。
 ソロモンの死後,前926年頃,王国は南北に分裂し,北はイスラエル王国,南はユダ王国となります。これ以降は,聖書のほかにもアッシリアなどの文献にイスラエルとユダの王について言及があるため,比較検証が可能になります。

3) 帝国期の幕開け(前8世紀後半)

▶︎ティグラト=ピレセル3世

 アッシリアに「帝国期」の到来を告げたのは,ティグラト=ピレセル3世(前744〜727)の治世とされます。

 ティグラト=ピレセルは毎年のように各地へ軍事遠征を繰り返しました。

 北方では勢力を拡大していたウラルトゥを征圧し,南方ではバビロニアの王権を奪取して,自らバビロニア王を兼任しました。

 西方はアナトリア南部からシリアにかけて新ヒッタイト系・アラム系の諸国を征服してエジプト国境にまで迫り,東方ではザグロス山脈方面に進出していたイラン系メディア人を撃破しました。

 ティグラト=ピレセル以降,領土拡大に伴って,征服地の住民を強制移住させる大量捕囚政策が本格化しました。
 その目的は,占領地の支配層を根こそぎにして反乱の芽をつみ,捕囚した兵士や労働者,職人を帝国内の必要な場所に供給することにありました。 

 住民がいなくなった占領地には他国の捕囚民を送り込み,属州としてアッシリアに併合しました。また,強くなり過ぎた州長官の権限を制限し,帝国の中央集権化を進めました。

▶︎サルゴン2世 〜帝国の確立〜

サルゴン2世が達成した最大版図

 ティグラト=ピレセル3世を継いだ次王は短命に終わり,そのあとサルゴン2世(前721〜705)が即位します。

 この頃,アッシリアがバビロニアやシリア・パレスチナにまで属州支配を広げようとしたため,これらの地域で交易を行っていた諸国は危機感を募らせ,反アッシリアを旗印に結集しました。

 シリア・パレスチナに利害関係を持つエジプト(第25王朝/クシュ王国)と,バビロニアへの進出をねらう東方のエラムは,北方のウラルトゥと結んでアッシリアに征服された国々に反乱を起こすよう仕向けました。

 これに対してサルゴンは,まずシリア・パレスチナの鎮圧に乗り出し,前721年,イスラエル王国(北王国)を滅ぼしました(聖書に異説あり)。 
 さらにユダ王国(南王国)やその他の小国家も征圧しました。しかし,これらの国々は,その後もエジプトと結んで反乱を繰り返します。

 バビロニアでは,前721年,エラムと結んだカルデア人部族の王がアッシリア軍を破ってバビロンを占領し,事実上のバビロニア王となって,その後約10年間君臨しました。
 サルゴンは前710年になってバビロニアに遠征し,苦戦の末,カルデアの王から覇権を奪回します。

 一方でサルゴンは,前713年,ニネヴェの北に新都ドゥル・シャルキン(「サルゴンの城塞」の意)の建設を始め,カルフから遷都しています。

ドゥル・シャルキンのサルゴン2世宮殿(想像図)

 この間,サルゴンは,宿敵ウラルトゥに遠征して打撃をあたえ,ザグロス山脈方面ではメディア人を撃退しています。

 一方,アナトリア進出をねらうサルゴンに対し,新ヒッタイト諸国と結んで対抗していたフリュギア王国が,前709年,アッシリアに和睦を求めました。その理由は,北方からアナトリアに侵攻してきた騎馬遊牧民(キンメリア人)に対抗するためだったとされます。

 こうしてサルゴンは,メソポタミア全域からアナトリア東部,シリア・パレスチナ,ザグロス山脈からクルディスタンに及ぶ広大な領域を手に入れ,「新アッシリア帝国」の領土拡大をほぼ完成しました。

 しかし,間もなくサルゴンは,アナトリア遠征中に敵の罠に落ちて惨殺されてしまいます。
 これは,サルゴンが神の怒りをかったための凶事ととらえられ,次の王の代には,建設中のドゥル・シャルキンが放棄され,ニネヴェに遷都されることになります。

<一口メモ>「サルゴン」とは
 「サルゴン」は旧約聖書に登場するヘブライ語名で,アッカド語では「シャル・キン」といい,「真の王(確固たる王)」を意味します。
 正統な王位継承者が「真の王」を宣言することはなく,王位を奪った者が自らの王権を正当化するために名乗った即位名とされます。
 古代オリエント史には3人の「サルゴン」が登場します。アッカド王国のサルゴンと,アッシリアのサルゴン1世(第35代),サルゴン2世(第110代)です。アッシリアの二人は区別するため1世・2世を付けます。
 ちなみに,アッカドのサルゴンを「サルゴン1世」と表記するのは不適切ですが,現在,数社の「世界史B」の教科書がこの表記を用いており,市販の参考書や大学入試にまで影響しています。新課程の「世界史探究」の教科書では適正化されることを期待したいと思います。


《参考文献》
▶︎青木健著『アーリア人』(講談社選書メチエ) 2009
▶︎大貫良夫・前川和也他著『人類の起源と古代オリエント』(世界の歴史1) 中央公論社 1998
▶︎小川英雄・山本由美子著『オリエント世界の発展』(世界の歴史4) 中央公論社 1997
▶︎小林登志子著『古代メソポタミア全史』(中公新書) 中央公論新社 2020
▶︎杉本智俊著『図説 聖書考古学 旧約篇』 河出書房新社 2008
▶︎長谷川修一著『聖書考古学』(中公新書) 中央公論新社 2013
▶前川和也編著『図説 メソポタミア文明』 河出書房新社 2011
▶︎前田徹他著『歴史学の現在 古代オリエント』山川出版社 2000
▶︎本村凌二著『地中海世界とローマ帝国』(興亡の世界史04) 講談社 2007

★次回予定「古代オリエント13 新アッシリア⑵ 〜世界帝国とその崩壊〜


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