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シナイ戦線の第四次中東戦争 その1

第四次中東戦争のシナイ戦線についてです。第四次中東戦争は、贅沢な戦利品を貰ったイスラエルにエジプトとシリアが挑む最後の戦争である。特にシナイ半島を巡る攻防は、因縁の相手でもあるエジプトとイスラエルとのタイマンの場であった。今回はその前史、特にエジプト側について記す。

なおイスラエル及びガザを応援する意図で書いてないことをここに記す(この文言はハマス・イスラエル戦争が終わり次第消します)。

復讐に燃えるエジプト

様々な緑色の地域が、イスラエルが占領した地域

1948年から始まったアラブ・イスラエル戦争は、中東戦争の区分としては1967年6月6日には三回目を迎える(第三次中東戦争)。第三次中東戦争はイスラエルには贅沢すぎる戦利品は、それほどアラブ諸国諸国に屈辱を与えた。特にエジプトのシナイ半島喪失は、主要収入源であるスエズ運河の通行料が入らなくなること(事実上の封鎖)を意味した。同国の大統領であるガマール・アブドゥル=ナセルは特にショックを受け、シナイ半島を喪失した6月8日に辞任宣言を行うほどであった。しかし、エジプト国民はそれでもナセルを支持した。彼はアラブの星であり、そのカリスマ性でアラブ・イスラエル戦争でアラブ諸国を引っ張ってきた。このことを受けて戦争が終わった6月10日に辞任宣言を撤回した。そしてナセルはシナイ半島奪還の試みとして、消耗戦争を展開した。第三次中東戦争は、アラブ諸国に「イスラエルと全面戦争に勝つのは無理である」との認識が蔓延し、エジプトの国民も、ナセルも例外ではなかった。更にエジプト軍は第三次中東戦争でコテンパンにされたので、そもそも全面戦争が不可能であった。だがアラブの指導者はイスラエルを軍事的・政治的に支配することに固執しており、ナセルもその1人であった。散発的な軍事衝突でイスラエルに圧力を加えて、イスラエルとの講和の糸口を探るものであった。だが消耗戦争の本質は消耗戦であり、ヤーコフ・バル=シマン=トフの著作『イスラエルとエジプトの消耗戦』によれば、交戦国が一般的に消耗戦の戦略をとるのは、軍事力に限界があり、他の政治・軍事戦略を展開できない場合であると主張している。現にナセルの選択肢はその通りであり、言ってしまえばナセルの「苦肉の策」であった。実際、ナセルは平和的解決などを試み、国連でも国連安保理決議242号でも「最近の紛争で占領した領土すべて」においてイスラエル軍の撤退が明記された。ただし、イスラエルは断固にも受け入れなかった。

軍事戦略上イスラエルはその立場を格段に改善し、国民大多数の目には、アラブはもう戦えないから和平交渉の気運もでてくる、と見えた。今度こそは、イスラエルが交渉のカードを握っているのである。...戦争はこれが最後、まもなく平和がくる。イスラエルはそう確信した。

ハイム ヘルツォーグ『図解 中東戦争』191頁

イスラエルからしてみれば、アラブ諸国は1948年の第一次中東戦争から1967年の第三次中東戦争に至るまで、軍事的な勝利を収めてきた。その自信があるからこそ、アラブの望む和平ではなく、イスラエルの望む和平が彼らにとって最適と見ていた。だからナセルは「戦争でも平和でもない」状態を消耗戦争で示し、糸口を探り出そうとした。そして、このナセルの戦略は、後の第四次中東戦争の戦略となる。

消耗戦におけるエジプトの目的は、イスラエルをシナイから撤退させることだった。エジプトはイスラエル軍を半島から全面的に退去させるつもりはなかったが、一連の限定的な軍事作戦を通じて、イスラエルにシナイ半島の占領継続は持続不可能であると確信させることを意図していた。ナセルの狙いはイスラエルを完膚なきまでに打ち負かすことではなく、ユダヤ人国家に苦痛を与えることで交渉上の地位を向上させ、国際的な注目を集めることであった。

Steven R. Meek『The Illusion ofDefeat:Egyptian Strategic Thinking and the
1973 Yom Kippur War』24頁

結果だけを言えばナセルの戦略は上手くいかなかったし、むしろ損害を被るなどの場合もあった。とは言え、一定の効果はでた。ナセルは消耗戦争中、第三次中東戦争の教訓でソ連から防空兵器やMiG戦闘機を支援してもらい、軍事顧問団なども受け入れた。エジプト兵士は惨めにも消耗戦争で不利な理由をソ連兵器のせいにして、第三次中東戦争の自尊心を取り戻した。更にナセルは自らの手腕を用いて消耗戦争によるイスラエル空軍の空襲を利用してエジプト国の団結力を高めた。消耗戦争の結末は1970年夏にアメリカの介入により3か月の停戦と国連安保理決議242号で将来的に交渉することとなった。

サダトと戦争決意

アンワル・アッ=サダト
(1918 - 1981)

ナセルには対イスラエル戦以外にも、やる事が多すぎた。故に彼は1970年9月28日に心臓発作で病死した。大統領職を引き継いだのはアンワル・アッ=サダトである。サダトは自由将校団からナセルと知り合い、副大統領としてナセルの側近として働いた。彼の就任は良い評価ではなかった。ナセルの偉大なカリスマ性に欠け、野心もなくナセルに従順だから側近に選ばれたとさえ思われた。だがサダトは大統領の就任について後にこう語る。

「ナセル大統領の死去に伴い大統領に就任したその日から、私は戦わなければならないと思っていた」

Edwin S. Cochran『THE EGYPTIAN STAFF SOLUTION: OPERATIONAL ART AND PLANNING FOR THE 1973 ARAB-ISRAELI WAR』3頁

とは言え、彼には国民や軍からの支持基盤はあった。だがエジプトに戦争の選択肢は難しかった。色々な要因があるが、サダトの視点から見ればエジプト経済が原因だろう。ナセルが残したエジプト経済は破綻寸前であった。サダトの回顧録によれば「ナセルが私に残した経済的遺産は、政治的遺産よりもさらに劣悪な状態だった」と書いている。そのため、彼は外交交渉で解決しようとして、1971年2月4日にエジプト議会での演説で打ち出した「和平イニシアチブ」に力を入れた。その土台も消耗戦争の停戦協定にある将来的な交渉もあったからだ。だがその過程でイスラエルと外交交渉で解決するのが不可能であることを悟る。イスラエルは頑な態度で挫折した。イスラエルが頑な態度をした理由は、俗に「イスラエルの安全保障理論」に基づいていた。この理論を噛み砕いて言えば、アラブ諸国はイスラエルに立ち向かう力がないという考え方である。つまり軍事的優位と政治的優位が外交交渉の行き詰まりを生んだのである。また大国を通じて試みようとしても、ソ連はエジプトを自国の影響力を広げるための橋頭堡として考えており、サダトも回顧録によれば「実質的に誰とも関係がなかった」と書いている。アメリカのキッシンジャーと秘密裏に接触はしていたが、キッシンジャーはソ連がバックにいることを鑑みて乗り気ではなかった。このような現実を突きつけられた。

サダトは二十分に理解していた。なぜならば、対等の外交交渉が成立するための前提条件は対等の力関係にある、という国家関係の実態について認識があった。

野中郁次郎/戸部良一/鎌田伸一/寺本義也/杉之尾宜生/村井友秀『戦略の本質』 291頁

イスラエルの安全保障理論は正に、国際関係の力関係に由来している。イスラエルの「力がないアラブ諸国」の認識を打破するには戦争しかなかったが、彼にはエジプト経済の破綻寸前により時間がなく、イスラエルと全面戦争する力も、それを蓄える時間もなく、ナセルのように消耗戦も行えないことを、サダトもよく理解していた。だから彼は「全面戦争」ではなく「限定戦争」で打破し、政治的糸口を導き出そうとした。文献によってサダトが戦争決断をした時期が異なるが、一番早くて1970年5月、ちょうどサダトの外交交渉が頓挫した頃である。同年6月には「(失われた土地を回復するために)100万人のエジプト兵を犠牲にすることも厭わない」などの発表をしている。

サダトの限定戦争戦略

アフマド・イスマイル・アリ国防大臣
(1917 – 1974)

100万にを犠牲にすると発表はしたところで、客観的に見ても、今のエジプト軍で完全にシナイ半島を奪還するのは不可能である。だからこそ、前述したように力関係がイスラエル優位でないことを示さなければならなかった。そのためには以下の2つが要点になる。

  1. 「イスラエルの安全保障理論」の破壊

  2. 超大国に衝撃を与える

第一の要点は前述したように、「イスラエルが完全に優位である」つまりイスラエルが強者であり、アラブは弱者であるという認識を壊し、交渉のテーブルにつくことである。サダトの限定戦争戦略の根幹はこの要点に事実上、集約されている。第二の要点は、1972年に米ソはデタントを試みていた(米ソデタント)。エジプトとイスラエルがことを起こすことは、エジプトの支援国であるソ連と、イスラエルの支援国であるアメリカの代理戦争でもあることを意味する。即ち緊張緩和が実現する中で、戦争を起こすことによってアラブ側の意思を超大国に示し、介入せざる得ない状態にすることである。1972年1月15日の会議にサダトはシナイ半島進行作戦を命令したが、国防大臣の要職にいるムハッマド・サディクは断固として反対した。彼の論拠か以下のものになる。

軍の内部調査では、エジプト軍はスエズ運河を横断する際に17,000人の死傷者を出すと推定され...ソ連の計算では、最初の4日間の戦闘でのエジプトの損害は35,000人に上るとされていた。
...シナイ半島のわずかな領土を維持できたとしても、このような血なまぐさい紛争から何も得ることはないだろう。そのため、サディクは敵対行為に乗り出す前に、より優れた訓練と装備を備えた軍隊、決戦でイスラエルを打ち負かすことのできる25万人規模の軍隊を持つことを望んだ。

George.W.Gawrych『The 1973 Arab-Israeli War:
The Albatross of Decisive Victory』10頁

多くの将校もサダトの戦争計画には反対の立場であった。しかし、サダトには前述したように優雅に待つ時間などなく、1972年10月24日に開かれた軍最高評議会の後に政治的理由により国防大臣、副軍務大臣、軍司令官、エジプト海軍と中央軍事地区(カイロ)の司令官などを、事実上のクーデターに近い方で解任した。国防大臣にはサダトと顔見知りのアフマド・イスマイル・アリ大将が任命された。更にサダトは戦争目標達成のために1973年4月までに、シリアのハーフィズ・アル=アサド大統領を説得し、イスラエルの北と南の2方面作戦を強いることで優位性をある程度相殺させることができた。加えて「石油」も武器にすることにし、これはいずれのパートで記す。前述したように、サダトの限定戦争戦略は、第一の要点である『「イスラエルの安全保障理論」の破壊』に集約される。この説明を少しする。1973年4月に『ニューズ・ウィーク』誌のインタビューにサダトは答えていた。よりサダトの考えを知るために側近とも話し合った。側近によれ、サダトは心理的勝利を得たベトナム戦争から教訓を受けたとする。

軍事的勝利は政治的利益を得るために不可欠なものではなく、たとえ戦闘で敗北したとしても、心理的に大きな成果をもたらし、その後に具体的な利益をもたらす可能性があったのだ。

George.W.Gawrych『The 1973 Arab-Israeli War:
The Albatross of Decisive Victory』14頁

心理的に大きな成果とは正に「イスラエルの安全保障理論」の破壊を意味する。実際、奇襲攻撃となった原因はイスラエル側に求めることができる。サダトは「奇襲」の要素も大切にしていたので、欺瞞を行った。効果は確かにあったが、それでもその原因はイスラエルに求めることができるが、それは次回のパートで記す。

エジプト軍の軍備増強

バドル作戦を語りたいのだが、その前提となるエジプト軍の軍備増強について記す。ソ連におけるサダトの認識はあまり良いものではなく、サダトもエジプト経済が破綻寸前なのはソ連のせいであり「粗野な愚かさ」で「ソ連の社会主義のパターンをコピーした」と苦言を呈していた。こんなエピソードがある。

ナセルが死去する直前に行ったモスクワ訪問に随行したサダトは、ソ連政府の高官コスイギンがナセルに対して「貴方の後継者は誰か」と質問したことのことを忘れてはいなかった。ナセルが「サダト副大統領です」と答えたのに対し、コスイギンは「では、彼の後継者は誰なのか」と問い返したのである。

山崎雅弘『中東戦争全史』190頁

とは言え、ソ連はエジプトを簡単に見捨てるわけにはいかない。中東ではイスラエルがアメリカの橋頭堡的な役割をするように、ナセルの時、特に消耗戦争では多大な支援をしており、ソ連の橋頭堡的な役割があった。たがらソ連はサダトでも支援を行ったのだが、MiG戦闘機のような攻撃兵器を渡さない代わりに、防衛兵器を渡した。皮肉にもこれはナセルの戦略に最適であった「空飛ぶ砲兵」と呼ばれたイスラエル空軍は、中東戦争においても重要な役割を果たしている。エジプト空軍は第三次中東戦争の損害から立ち直っていないので、それを抑えるためのSAM-2、SAM-3、SAM-6、SAM-7、ZSU-23-4の統合防空システムを配備は非常にサダトの戦略に適していた。地上戦ではRPG-7や9M14マリュートカ(AT-3 サガー)などでイスラエル戦車を封じ込めるつもりである。後に欺瞞のために追い出すが、ソ連の軍事顧問団まで引き寄せて、エジプト軍の質を磨き上げていった。ソ連の軍事顧問団の役割は非常に重要で、ミサイルの専門知識を教えたことにより、エジプトの対戦車および防空能力は大幅に向上した。エジプト兵士の士気と自信を向上させ、同時のエジプト軍では珍しいリーダーシップのある意欲的な新しいタイプのエジプト人将校も出現した。イスラエルと肩を並べるほどではないが、1970年代初頭の軍隊と比べればとてもよい水準であるほどまでに進化した。

バドル作戦へ

スエズ運河渡河作戦、具体的に言えば「スエズ運河東岸に橋頭堡を築くことを目的とした攻勢渡河作戦」を、624年の預言者ムハンマドが初めて勝利した戦いに因んでバドル(バドール)作戦と命名された。サダトはこの作戦で「最強の打撃」を求めており「最初の二四時間の戦闘でしょうりするものか勝利する者は、間違いなく戦争全体の支配するであろう」と、初動の重要性を協調している。イスマイル・アリ大将もそう考えており「したがって、我々の攻撃は、我々がなしうる最強のものでなければならない」と述べている。バドル作戦の基本構想は以下の通りである。

  • 渡河の全正面約130kmにおいて同時に攻勢をかけ、イスラエル側の重点形成を妨げ、あるいは努力の分散を強要する。

  • 作戦地域上空をSAMで火制し、イスラエル空軍の脅威に対処する。

  • 東岸における進出の限界 ー 橋頭堡の縦深をSAMの威力圏(10-15km)にとどめる。

  • 戦線から縦深50kmの地域にレンジャーの潜入攻撃と沿線火力を指向して増援を妨害し、指揮を混乱させる。
    (高井三郎『第四次中東戦争』44頁
    引用)

それにあたって、最初に乗り越えるべき障壁はスエズ運河の渡河である。水路の幅は180~220メートル、深さは16~20メートルもあった。運河自体の干満差は、北の60センチから南のスエズ付近の2メートルまでと、地中海とスエズ湾の両方から潮汐の影響を受けているので幅が広い。更には運河を渡河した先には砂でできた堤防があり、イスラエル軍の反撃が来る前にこの堤防を破壊しなければならなかったが、これは放水ポンプによって破壊することが決定された。ある若い将校がエジプト軍内はこれをテストしたが、放水ポンプ5台で3時間で崩壊した。1972年には工兵隊はさらに強力なドイツ製ポンプ150台を購入し、ドイツ製ポンプ2台と元からあった英国製ポンプ3台を組み合わせれば、破堤時間はわずか2時間に短縮される。このことから放水ポンプを利用した放水ポンプ部隊を作った。そして、バドル作戦開始時期は10月6日となった。理由は2つ、第一にラマダン(断食月)とヨム・キプール(贖罪の日)と重なり、より奇襲の効果が高まるからである。第二に学者による研究の調べによれば、その日が最も渡河に適していることが昔のスエズ運河会社の記録を調べたことによって分かった。9月・10月案もあったが夜が長く、11月・12月案はシリア方面のゴラン高原で雪が降ってしまい、イスラエルの優位性をある程度相殺させることができなくなってしまう。イスマイル・アリ大将は10月6日に決めた理由をこのように語る。

「私たちに対するアラブや世界の支持が最も高いときに、この状況を起動させなければならない...特に必要だったのは、第一に、月が昇る夜であること、第二に、運河の水流が横断作戦に適している夜であること、第三に、我々の行動が敵の予想からかけ離れたものになる夜であること、第四に、敵自身が何の準備もしていない夜であることだった」

Edwin S. Cochran『THE EGYPTIAN STAFF SOLUTION:OPERATIONAL ART AND PLANNING FOR THE 1973 ARAB-ISRAELI WAR』10頁

実施時間については14時5分(カイロ時間)である。これはシリア側が日没前後を開始時間として要望しており、妥協した上で決められた。エジプトが日没前後を拒否した理由は、9月・10月案と同じ理由である。バドル作戦で重要なのは空間/時間/兵力である。空間は、イスラエル空軍に手出しできないように対空兵器などでスエズ運河における航空優勢に先手を打つ。イスラエル地上軍はガザー対戦車ミサイルやRPG-7などで撃退する環境を作ることである。時間は、空間と関連している。エジプト軍の分析によれば、イスラエル軍が動員を発令する前に空間を整える必要がある。動員した場合、エジプト軍はイスラエル軍20個旅団と先頭を交えるが、動員しなければそのイスラエル軍の戦力は3分の1になる。次回解説するがバーレブ・ラインが有効化する前に占領する必要もあったことも時間が重要な要素でもある。兵力は、空間/時間と関連しており、即ち迅速にスエズ運河を渡河し、エジプト軍が優位なうちに空間を作ることを意味する。このような要素が組み合わさった上で、バドル作戦は実行されるのである。

戦闘序列と作戦地域

以下は戦闘序列(軍と師団単位のみ)とその作戦地域を示す。ものである。

エジプト第2軍
第2歩兵師団
第18歩兵師団
第21装甲師団
第23機械化師団

エジプト第3軍
第7歩兵師団
第19歩兵師団
第4装甲師団
第6機械化師団

高井三郎『第四次中東戦争』に基づく

参考文献

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