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眼鏡のはなし

僕は普段眼鏡をかけていない。
だが、目は悪い。左目の視力だけがものすごく悪いのだ。だが、日常を過ごす上では眼鏡をかけずとも生活できる。noteを書くときはたまに眼鏡をかけている。少し青みがかったフレームの眼鏡。

その眼鏡が、なぜか右側のレンズだけものすごく傷だらけになっている。もちろん心当たりはない。
よくあるケースとして、眼鏡をしてしまったまま眠ってしまう、ということがあると思う。だがしかし、前述のように僕は普段あまり眼鏡をかけて生活していない。なので、そのまま眠ってしまうようなことがない。
それなのに、ちょっと必要になって眼鏡をかけると、この間までよりも右側だけ傷だらけになっている気がする。最初は、我が家の愛猫の仕業かと思ったのだが、器用に右側のレンズだけ傷つけるはずもないし、普段は眼鏡ケースに入れているので不可能だ。それにうちの子の性格上、完膚なきまでに破壊するはずだ。彼女のわんぱくぶりは凄まじいのだ。

そうなってくると、座敷わらしなのではないか。
真面目にこう考えるのは、岩手という土地を愛しすぎたせいでもある。
岩手には、座敷わらしに関する伝承や不思議体験が多い。その他にも河童やマヨイガ、おしらさまなど。そういった民間伝承が凄まじく多い地が岩手なのだ。その岩手への熱が、我が家に座敷わらしを呼び寄せたのではあるまいか。
だが、座敷わらしがいるにせよ、こんな中途半端ないたずら、するわけがない。というわけで未だに右レンズ傷だらけ事案は、未解決のままなのである。

眼鏡といえば、僕は女性の眼鏡姿にどきどきするタイプの人間である。唐突に何を言ってんだ、と思った方。僕自身何でこんなこと書いてんだか不思議なくらいだ。でも、眼鏡っていいよね。
普段眼鏡じゃない方が、何らかの事情で眼鏡でいたりすると、ちょっとときめく。内心、普段もそっちでいたらいいのに、とか思ってしまう。言わないけれど。普段と違うからこそのときめきなのかもしれない。だから、言わない。
これまでの記事から僕をご存知の読者の皆様。
皆様がお察しの通り、僕はやや変態なところがある。
僕の中では犯罪をするような人間だけが変態なのではなく、こだわりとか様々なものが人を変態たらしめると思っている。
だから、僕はやや変態なのだ。胸を張れる。
頭がおかしい?気持ち悪い?

そんなことはとうの昔に知っている。


真面目な話(?)に戻ろうか。少し残念だが。
男女関係なく、眼鏡があるとないでは顔のイメージは大きく変わるものである。
コロナ禍の最中、僕はそれまでずっとしていた眼鏡をやめ、マスクをし、髪を短髪にした。マスクが邪魔で、眼鏡を外したのだ。
すると、ここ数年で知り合いになった方のほぼ全員が、僕に気がつかなかった。今なら誰にも気付かれない。完全犯罪の予感がした。もちろん、変態ではあるが小心者なので、何もしなかった。していたらこんな記事を書いてはいない。刑務作業にあたっているだろう。
皆が気づかなかったことで、僕を構成していたものは眼鏡だったのか、と落胆することになった。顔の9割が眼鏡。それは、もはや僕が無生物であることを意味していた。
もはや僕は人間じゃない―。
森山直太朗の「生きとし生ける物へ」のラストはこのことを歌っていたのか。なんと深い歌だ。
違う、と石を投げつけられそうだが、まあいい。僕はたしかに涙したのだから。
それにしても、そんなに印象が薄いとは思わなかった。


これ以上書くと、さらに変態性が出てきそうなのでやめる。あと、自分の印象の薄さに泣き出しそうなのでやめる。
それにしても、最近こういう記事を書いていなかったので楽しかった。「神と人」シリーズとしてこれまでの中長編はまとめたのだが、もう馬鹿話だけを書いていようかと思う。そう言っても色々書くのではあるが。
それにしても、推しがたまに眼鏡だったりすると、心臓が跳ね上がるくらいのときめきを覚える。心がもたない。えっへっへ。
変態さを発揮して、この記事を終える。


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