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桜下鬼刃(下)

平太郎へいたろうの『奇術』は、鬼に確実に痛みを与えていた。
死ぬことのない相手とわかって、平太郎は安心していた。どれだけ本気を出しても、死なない『鬼』。桜と厳爺げんじいさんが遠くに逃げるまで、ただただ斬ればいい。たとえそれが永劫であろうとも。
「…平太郎、お主本気を隠しておったのか?これをもっと早く使っていれば、弟どもは死ななかったのになぁ!」
鬼は斬りつけられながら叫ぶ。先ほどまでより、発言にも動きにも余裕がない。痛み自体は、あれの精神に響くようだ。平太郎は『奇術』の速度を上げる。
「巻き込んでしまうからな。それに、使うなって約束もしてたから。」
鬼は、随所に設置された罠を壊そうとする。刀に結ばれた糸を切ろうとする。新兵衛しんべえ幸作こうさくを喰らおうとする。その全てが、無駄だった。罠を壊そうとすると、幸作の作った別の罠から弓矢が飛んでくる。糸を切ろうとすれば、すぐさまその指先が斬り飛ばされる。肉を喰らおうとする間に、その体に幾度も刀が突き立てられる。
「誰と…そんな約束をした、弟か?」
鬼は絶え絶えの息の合間に問う。
「いや、あいつらじゃない。」
恋人さ。小さく呟きながら、鬼の首を斬り飛ばす。

桜は、夜の中をものすごい速さで駆けていく。すぐに、戦っている平太郎を見つけた。
「平太郎兄ちゃん…。」
幾度鬼を斬ったのだろう。その体は返り血にまみれ、真っ赤に染まっていた。桜を見て、刀を構える。だがすぐにその手を下ろした。
「…桜、なのか?」
「平太郎兄ちゃん。私、戦えるよ。」
「馬鹿野郎!なんで戻ってきた!」
体を切り刻まれた鬼は、桜を見てにやりと笑う。
「…お前を喰えば、この痛みも消えるぅぅ…。」
ぼろぼろになった鬼は、桜に狙いを定めた。電光石火の速さで、桜に襲い掛かる。平太郎の刀は、鬼を捉えられない。
「くそっ、避けろ、桜!」
轟音とともに、鬼の体が吹き飛んだ。平太郎は呆気あっけにとられた。
桜が鬼を蹴り飛ばしたのだ。
「桜…。」
「平太郎兄ちゃん、あとは任せて!」
平太郎は桜の頭を撫でた。その顔は、今にも泣き出しそうに歪んでいる。
「…お前、本当に『鬼』なんだなぁ…。」
桜は目を見開く。申し訳なさそうにうな垂れる。
「…さっき、夜になって、なぜだか全部思い出したの。…ごめんなさい。もっと、もっと早く思い出してたら…。」
「いいよ。謝らなくて、いい。」
俺はお兄ちゃんだから、大丈夫だ。そう言う平太郎の頬を、涙が伝う。

「…肉を寄越せ、血を寄越せぇぇぇぇっ!」
鬼は叫びながら、二人に近づいてくる。皮膚はぼろぼろと剥がれ落ち、数多あった目玉の殆どは潰れている。
「平太郎兄ちゃん、さっきまでみたいに戦える?」
「ああ、問題ない。だが、この技は、お前を巻き込んで…」
「大丈夫。」
平太郎が言い終わる前に桜が跳躍する。夜空にその姿が消えたと思うとすぐ、鬼が吹き飛ぶ。
「平太郎兄ちゃん!」
平太郎は『奇術』を繰り出す。吹き飛んだ先の鬼に、幾度も刀が突き刺さる。鬼は絶叫した。
「…人間にも倒せそうだな。」
「もう、『鬼』の力は終わりを迎えるから。」
桜はそう言うと、一度ため息をついた。天を仰いでから、平太郎を見つめる。
「ありがとう。平太郎兄ちゃん。」
桜はまた夜の闇に消える。轟音の後、鬼の絶叫が響き、静寂が訪れた。
平太郎は音のした方に駆けていく。そこには、もう動かなくなった鬼と、立ち尽くす桜がいた。
「桜…。」
桜は泣いていた。動かなくなった鬼は、声を振り絞り言う。
「…いいなあ、いいなぁ。お前はなまえ、なまえ貰ったの…?」
それきり、鬼は動かなくなった。その体は、夜風が吹くたびに灰のようにどこかへ飛んでいき、やがて消えた。

「…桜、帰ろう。」
平太郎は手を伸ばした。桜はその手を振り払う。その顔が、夜の闇で見えなくなる。
「…もう、帰れないんだ。」
「厳爺さんが、当面の面倒は見てくれるよ。新兵衛と幸作の墓を作って、三人で暮らそう。」
「違うの!」
桜は叫ぶ。月明かりが、初めて出会ったあの日のように、桜を照らす。
顔の皮膚が、茶色く変化していた。腐ったり、傷ついているわけではない。たとえるなら、木の幹のような―。

「やっぱり、こうなったか。」
その声に平太郎は振り返る。厳爺さんだった。
「厳爺さん!…やっぱり、ってどういうことだ?」
「『鬼』は、名づけられた瞬間、死後の姿が決まる。そうだな、桜?」
「…うん。」
厳爺さんは桜の頬に触れた。
「お前さんは、今日、『桜』になるんだね?」
「…うん。そうだよ。」
桜の頬を、木の皮のような頬の上を涙が流れる。顎を伝って地面に落ちた涙は、桜の花びらになった。
「なんで、なんで桜が死ぬんだよ…なんで!」
平太郎は声を張り上げた。その場に膝をつき、泣き出す。
「『鬼』の力が、途絶えるのじゃな?」
「そう。」
桜は、平太郎を見据える。顔だけでなく、腕や足の皮膚も、木の皮のように変化していた。
「『鬼』は、神の成れの果て。信じる者がいなくなった神が、名を失い『鬼』になるの。そして、人を喰らい、そのうちに消えてなくなる。それが、私とこの人は、今日だった。」
桜はしゃがみこんで、鬼の死体のあった地面に触れる。
「この人は、名づけてもらえなかったから、消えてしまった。私を喰らえば少しは生きながらえただろうけど、それでも…。」
「『鬼』という存在自体が、もうすぐ消えてしまうのだろう?」
厳爺さんの問いに、桜は頷く。
「人は、『鬼』よりも残酷な生き物になった。食らうためではなく、国や金のために、人間だけでなく、多くの生き物を簡単に殺す存在になってしまった。もう『鬼』は、ここにいられない。人が、鬼になってしまったから。」
「…じゃあ、俺のせいだ、俺のせいじゃないか。」
平太郎は地面に突っ伏して泣いている。ごめん、ごめんと呟いている。
「俺みたいな、人斬りのせいじゃないか。戦を望む人間のせいじゃないか。人殺しのせいじゃないか!そのせいで、桜が、お前が死ぬなんて…」
俺には耐えられない。
「平太郎兄ちゃん。」
もう一度顔を見せて。そう言った桜の足は、完全に桜の木と化していた。もう、しゃがめないの。そう笑う間に、身体も木になっていく。
平太郎は厳爺さんに支えられながら立ち上がる。桜の頬に触れる。
「桜、駄目なお兄ちゃんでごめんな。こんな人殺しで、ごめんな。」
「駄目なんかじゃないよ。」
桜は涙を流しながら笑う。
「あの日、私を見つけてくれて、そして、新兵衛兄ちゃんと幸作兄ちゃんを見つけてくれて、ありがとう。私は、一回も人を食べずに済んだんだ。みんなと食べるご飯があったから。みんなが一緒にいたから。」
大好きだよ。その言葉に重なるように、ぱきんと音がした。
平太郎が触れているのは、一本の桜の木だった。
「桜、桜、桜ぁ…。」
平太郎は木の幹を抱きしめた。そこにいたはずの、妹を抱きしめた。
月が夜に浮かんでいる。夜風に、花びらが舞う。


「平太郎。」
桜を見上げていた平太郎は振り返る。
「厳爺さん。」
「ほれ、握り飯だ。あいつらの分も。」
「ありがとう。」
平太郎は握り飯を新兵衛と幸作の墓に供え、ひとつを桜の根元に供えた。
「まさかここに墓を作るとはな。」
あれから一月。平太郎は二人の墓を、桜のそばに作った。
「みんな一緒のほうがいいだろ。」
「…まあ、そうだな。」
厳爺さんは桜を見上げる。
「村人はみんなあの鬼に喰われちまったし、ここいらにいる人間は俺たちくらいか。」
すっかり寂れた村のほうを見る。
「朝廷も火消しに躍起になっているそうじゃ。陰陽師として重用しておったものが鬼ではな…。」
ため息の後、静寂が訪れた。鳥だけが、遠くで鳴いている。

「厳爺さん、これ返すよ。」
平太郎の手には『奇術』の際に使う糸があった。
「いいのか?」
「うん。もう『人斬り』はしないから。」
「…あの頃のお前が聞いたら卒倒するな。」
ははは、と平太郎が笑う。長い付き合いだったよなぁ、と糸を見つめる。厳爺さんの『依頼』を果たす代わりに貰ったものだった。
「そういえばさ、その糸って何で出来てんの?鬼も切るのに難儀してたけど。」
「…とある山村にいた神馬のたてがみじゃ。祀られなくなった神馬を、わしが見送った。その際にくれたものでな。」
厳爺さんはため息をつく。
「わしらがもっと大切にしておれば…。」
平太郎は桜を見上げる。あれから一月が経つというのに、『桜』であったこの木は、今も満開のままだ。
「…桜がいつも眠っていたのは、鬼の力が弱っていたからだったのかな。」
「そうかもしれん。そして、人を喰らわずにいたことも原因じゃろう。どんなに腹が減っても、お前らを食べなかった。優しい…妹だったな、平太郎。」
平太郎は涙を堪える。やっぱり俺は、駄目な兄ちゃんだった。みんな失ってしまった。新兵衛、幸作、桜。俺は、どうしたらいい。
桜が風に揺れる。舞い降りた花びらが、平太郎の頬に触れる。
「―大好きだよ。」
桜の声がした。厳爺さんも、あたりを見回している。
「…桜。」
二人は顔を見合わせ、泣いた。俺たちは生きていくよ、お前がここで咲いていられる日々を、守るよ。そう、桜に誓った。
がさがさと墓の方から音がした。そっと見ると、新兵衛と幸作に供えた握り飯を、子狐たちが食べている。
新兵衛が怒るのぅ。厳爺さんが笑い出す。
桜が風に舞って、遠くへ運ばれていく。







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