【エッセイ】今ある人間の仕事は将来なくなることを周知の事実として【#006】
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最近、働くことについての文章がメインになることが多くなっている。如何せん現在無職であるから、仕事について考えることが多くなってしまっている。それに付け加えて、ブラック企業だとか、正月三が日の営業はどうすべきかだとか、日本人が働き方について、考えることが多くなっているため、テレビっ子である私も、その流れに流されてしまっている。
「人間の仕事の半分以上は10~20年以内に、機械にとってかわる」という予測は、もはや有名である。とある大学教授は、65%の仕事は機械になるとか、googleの一番偉い人は9割近くの仕事は機械になるなど、そのパーセンテージは語り部によって様々だが、とにかく多くの仕事は機械にとってかわるようだ。
amazonがレジのないスーパーマーケットを開発したように、レジ係はいらなくなる。自動車の自動運転の進歩が著しいように、タクシードライバーはいらなくなる。自動車の自動運転が可能なんだから、決められたレールの上を走る電車の自動運転なんかは、もっと簡単に開発できるだろう。高校生までに学ぶ知識は、1000円以内で買えるUSBに収められるため、教員という仕事もいらなくなるだろう。
食事関係についても、マニュアルがきっちり決まっているファーストフード店はあっという間に機械化されるだろう。決められた調理手順を踏めば、誰でも同じ味の商品を作ることができる。何も人間様の手を使うことはない。
歌を歌う機械は、とっくの昔に開発されており、初音ミクという形ですでに市民権を得ている。その精度は今や人間の声と聞き間違うかのようであり、効率性だけで考えれば、歌手という仕事もいらなくなるだろう。先日、テレビで見て驚いたのだが、自動で作詞・作曲をするソフトというのも、すでに開発済みであり、歌関係の仕事は、すでに一部機械にとってかわっている。作詞ができるのだから、その技術を発達させれば、小説や戯曲などを書けるようになるのも時間の問題だろう。
人間が行っている機械作業は、早々に機械化されるだろうし、今人間しかできないと考えられていた仕事も、AI・人工知能の発達によって、機械化は容易であろう。1人1人の人間には個性があるから、その人にあった治療法や教育方法などを判断できるのは人間だけだと思い込んでいた。しかし、何十億人というデータを記憶でき、嫌味なまでの論理的思考力を鍛えた機械が相手になった場合、その機械の方が、個人個人に向けたより適切な対処法を考えてくれるだろう。
私が衝撃を受けたのは、芸術分野も機械にとってかわる可能性があることだった。絵画についても、幾何学模様という人間が正確に書くことができない分野が存在している以上、絵描きロボットが市民権が得るのは簡単である。歌も文芸も、機械はもう作成することができる。
もしかしたら、20年後には、こんな生活を送っている人がいるかもしれない。
「機械が作った音楽で目が覚める。
機械が選んだ服を着る。自分で選ぶこともできるが、めんどくさいので、それをそのまま着る。
機械が作ってくれたご飯を食べる。決まり切ったメニューの繰り返しだが、自分で作ってくれるめんどくささを考えたら、それを食べたほうがいい。
仕事は常に機械がやってくれるので、機械が書いた最新小説を読む。毎日、数えきれないほどの新作を書いてくれる。
おやつも機械がいつも出来立てを持ってきてくれる。
運動をしなくても、機械が健康的な食事メニューを考えてくれているし、運動も体の代謝を促す機械に乗っているだけでできる。
お風呂はつねに綺麗な状態で沸いているし、いつでも入ることができる。
人とのコミュニケーションも、AIが常に話し相手になってくれている。ユーモアのセンスも抜群で、知識も圧倒的に豊富だ。
暇つぶしも、機械が勝手にプログラミングをしてくれるので、毎日最新のゲームを遊ぶことができる。
自分が住んでいる住まいだが、これも機械が作ってくれたものだ。どこもかしこも似たような建物だが、特に不便はないし、圧倒的に値段が安いから、みんな同じような住まいに住んでいる。
大好きなyoutubeで、ロボットyoutuberが最新ロボットの紹介をしている動画を見ていたら、もう夜だ。そろそろ寝よう。寝るための家具も、もちろん機械が作ってくれたものだ。
今日はどんな夢を見ようかな、と考えることもなく、機械がその日見たい夢を判断してくれて、夢見ロボットがその通りの夢を見させてくれる。」
なんて生活が送れるようになる日が現実になるかもしれない。冗談でもなんでもない。技術力だけで考えたら、おそらくそのほとんどは現在でも可能なのだ。
いつか、こんな環境で育った世代が出てきて、こんな生活が当たり前と思う世代が出てくる。そして、私のような今の若者が、下の世代を見て、「機械世代」とかその世代の人たちを全員でひとくくりにするフレーズを作り、「今の若者は、これだから駄目だ」と苦言を言うようになるだろう。
極論的な例えと出したつもりだったが、思いのほか極論にすることができなかった。むしろ、ヘンなリアリティがあって、自分で書いていて途中から怖くなってきてしまった。まるで、機械に合わせて生きていくのが当たり前になるかのようだ。人間がそれぞれの労働を行えば、十人十色の生活は送られるんだけれども、面倒くさいからという理由で、楽だからという理由で、機械が与えれてくれるバリエーション豊かな生活のどれかを選択していく生き方をしていく。人間の人生を、機械が与えてくれる選択肢から選ぶという生き方。その選択肢の数はおそらく膨大になるだろうが、機械に生かされる人類の姿が見えてきそうだった。
人間の生き方が、そんな味気ない生き方になってしまっていいのか。将来の「機械世代」に、めんどくさいおっさんと罵られてもかまわない。おっさんはそんな生き方はまっぴらごめんだ。あくまでも、私個人の話だ。それでも、いいというならば、機械らしく生きていけばいいと思う。それは、個人の考え方だ。
私は考える、人間らしい生き方を、自分らしい働き方を。
仕事が機械にとってかわるというならば、自分しかできない生き方、働き方を探せばいい。黒木のコピーロボットは、おそらく作られないだろう。作っても意味がないからだ。機械は、効率的に物事をこなすこと、論理的に物事を考えることは得意だが、無意味なことは苦手だ。一番の問題は、自分しかできない生き方、働き方をまだ私が見いだせていない点である。
考えれなければ、機械に負ける。考えたくない、考えられないという人もいて、当たり前だと思う。そんな大それたことを考えられる頭脳が私にあるなんて、思っていない。でも、それでも、考えたくなってしまったのだ。無駄なあがきだとわかっていても、もっと賢い人が新しい人間らしい生き方を考えついてくれるのを、結局は待つことになるんだろうけれども。
何かをしない時間というのは、自分の時間という大きな大きな価値あるものを、どぶに流しているのと同じだと思い込んでしまったのだから。たとえ無駄であっても、私は考える。もしかしたら、宝くじの一等賞が生まれ来るような幸運で、「無駄の隙間から必要なものが生まれてくる」かもしれない。
野心家で、ナルシストな私の側面が出てきて、演説台の上に立ち、叫んでいる。
「人間の生き方がこれから変わる。人類の在り方がこれから変わる。労働のほとんどは、機械にとってかわる。これは、革命だ。人類3度目の産業革命だ。時代は、今大きなターニングポイントをむかえた。これをピンチと思うか、チャンスと思うかは君次第だ。犬に追われる群れのなかの1匹の羊になるのか。それとも、自らの意志で草原を走り回る羊飼いになるのか。これから迎える革命期は、千載一遇のチャンスになるだろう。1匹の羊が犬に化け、羊飼いに噛みつき、新たな羊飼いになるチャンスだ。この時代に生まれたのだから、羊飼いを目指さないなんて、実にもったいないと思わないか。考えろ。人間の脳みその容量に、大きな個人差なんかない。君は、羊になりたいか。それとも、羊飼いになりたいか。」
と、自分に言い聞かせています。
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