”障害者”のキャラクター性

「キャラクターメーカー」

大学の授業の中で大塚英志さんの『キャラクターメーカー 6つの理論とワークショップで学ぶ「つくり方」』という本を読んだことがある.その本の中に,「聖痕」に関する項がある.

聖痕(せいこん)は、イエス・キリストが磔刑となった際についたとされる傷、また何らかの科学的に説明できない力によって信者らの身体に現れるとされる類似の傷をいう。

-聖痕 -Wikipedia

キャラクターは聖痕,スティグマを持つことで魅力的になるというものだ.

これもいささか誤解を招く表現ですが、主人公が何か「欠けた」状態にある時、物語は発動し易いのです。

キャラクターメーカー 大塚英志

障害者と呼ばれる人たちは、おそらく何かしらの聖痕を抱えていると言える.障害を持つ人は大きく2つに分けることができる.一つは生まれながらにして障害を持っている人、もう一つは産まれた後、何かしらの出来事によって障害を持った人である.障害者が、障害を持つことになったストーリー、あるいは障害を持って生きてきたストーリーは、感動の物語として語られることが多い.

後天的な障害を持つ障害者は、病気や大怪我から社会復帰したというような感動のストーリーを持つことが多い.先天的な障害を持つ障害者は、成長の中で周りとの違いを徐々に自覚し始めるという切ないストーリーを持つことが多い.その例を挙げよう.

障害者の持つストーリー性

私は中学3年生の冬に,骨肉腫という病気を患った.中学卒業後,高校に入学した私だが,抗がん剤治療のための長い入院が必要となり,そのため授業にはほとんど出席できない日々が1年間ほど続いた.6月に行った手術は成功し,左膝に人工関節を入れて生活することとなった.知人に助けられながら勉学に励み,入院生活を送りながらもなんとか進級,翌年からは軟式野球部のマネージャーになり,学校生活に復帰した.サラッと書いたがそれなりにしんどかった自分の経験である.

これは知人の話.生まれながらにして両手両脚に麻痺を持つ彼,装具などを使えば歩行が可能だったが,そんな彼が周りとの違いに気付いたのは小学生になった頃だったという.当時歩行器を使って歩いていた彼は,物心がつき始めた頃,自分が周りと違うことを悟った.中高生の頃,彼は少しやんちゃな友人とつるんでいた.彼は車椅子も使わず,歩行器も使わなかった.遊びに行く時は装具だけを使い,なんとか歩いていたという.30歳目前の彼は今,車椅子に乗って生活している.

おそらく,自分の様な後天的な障害を持った人のエピソードの方が,一般的にはウケると思う.ただ自分は先天的な障害を持った人の少し切なくなるようなエピソードも好きだったりする.自分が普段接する障害者たちは、スポーツをしている人が大半で、そうでない人だったとしても、周りと積極的にコミュニケーションを取ろうとしている社交的な人だ.

積極的に外に出る障害者と,そうでない障害者,その割合がどれだけなのかはわからないし,それは障害者に限らずわからないはずだ.ただ自分の普段接している障害者は少なからず積極的な人間が多く,障害者の大半がそういう人間なのではないかと錯覚してしまうこともある.

スポーツをしている障害者、という種類の人間について回るのは、「障害を乗り越えて、スポーツに打ち込んでいる」というイメージである.多くの場合それは間違いではない.何かしらの障害と向き合いながら、「失われたものを数えるな、残されたものを最大限生かせ」というルードヴィッヒ博士の言葉を体現していると言える.

「影との闘い」

主人公が「欠けた」状態から元の状態を「回復」しようとするストーリーライン

キャラクターメーカー 大塚英志

としてこの本の中では,アーシュラ・K・ル=グウィンの『ゲド戦記Ⅰ 影との戦い』とシェル・シルヴァシュタインの『ぼくを探しに』という絵本を挙げている.

『影との戦い』は,主人公ゲドが自分が呼び出してしまった「影」を追い,一体になるまでの物語であり,ここから続く「ゲド戦記」の最初の物語としてゲドの若き日を描いている.

一瞬ののち、太古の静寂を破って、ゲドが大声で、はっきりと影の名を語った。時を同じくして、影もまた、唇も下もないというのに、まったく同じ名を語った。 「ゲド!」 ふたつの声はひとつだった。

アーシュラ・K・ル=グウィン ゲド戦記Ⅰ 影との戦い

光たるゲドと,ゲドが呼び出した影が一つになるシーンである.スティグマの議論のように身体の一部や傷ではなく,自分が失ってしまったものを探し,それとまた一体となるまでの物語であるということ,そしてそれがゲドの若き頃の話として語られることが重要であるように自分は感じた.

そして『ぼくを探しに』は,パックマンのような主人公のキャラクターが無くしてしまった自分のピースを探すというストーリーである.

何かが足りない それでぼくは楽しくない 足りないかけらを 探しに行く

シェル・シルヴァシュタイン ぼくを探しに

ここから物語がはじまる.主人公は自分の欠けているピースを探していて,欠けているためスピードも遅い.大きいものや小さいものなど自分に合うピースがなかなか見つからない.ついに自分に合うピースを見つけ,綺麗な丸になり,転がるスピードも速くなったが,欠けていたときには見えていたものがあったと気付く.そしてそのピースと別れまた転がっていく.

非常にシンプルな絵と文章で描かれるこの絵本は,物語がはじまる前にこう書かれている.

だめな人とだめでない人のために

シェル・シルヴァシュタイン ぼくを探しに

だめな人とだめでない人

ここでいう「だめな人」と「だめでない人」というのが,何のことを示しているかは厳密にはわからない.ただこの本のストーリーから,だめな人とは自分の中の何かが欠けてる人を指すのではないか,と考えることは容易だ.いわゆる障害者と呼ばれる人たち(自分も含めて)もそうだろうし,障害者ではなかったとしても自分には何かが欠けていると感じている人間は少なくないのではないだろうか.

少なくとも自分はそうだ.自分は左膝が人工関節で,左足の機能を一部失っているが,それ以外が全て満たされていると感じたことはない.左膝も含む,自分に欠けている何かを追い求めることが自分の活力になっているような気もする.

そんな自分だからかもしれないが,『スティグマの社会学』の中に,自分が大きく衝撃を受け,そして納得した文章があったので紹介したい.

場合によっては、彼が自分の弱点の客観的基盤と見做すものを矯正するという、直接的な試みをすることも可能であろう。たとえば肉体的障害のある者が整形外科手術を、盲目の人が眼の治療を、文盲が識字教育を、性同一性障害者が心理療法を受ける場合がそれである。(このような矯正が可能な場合、結果として残ることは、完全な常人の身分ではなく、ある特定の欠点のあるものからその特定の欠点を矯正した記録のある者への自己の変化である。)

スティグマの社会学 アーヴィング・ゴッフマン

この文章,特に括弧書きの部分に自分は強く心を打たれた.まさにその通りだと感じたためである.同時に『影との戦い』も『ぼくを探しに』も「欠けている状態」を克服した後にストーリーがあることの重要性にも気付かされた.

『ぼくを探しに』の最初の一文で,「だめな人」とはおそらく全ての人のこと指すのではないか,そしてそれは同時に全ての人が「だめでない人」であることを意味するのではないかと思う.どんな人間にでもだめなところがある,それは障害者か健常者かによるものではないし,「障害」と呼ばれるものはもしかしたら本人にとって「だめ」な事かもしれない.ただそういうところはどんな人にでもあるので,みんな「だめな人」と言えるしれないし,「だめ」なところは誰にでもあるんだから「だめな人」なんていないんじゃないか.というメッセージの様に自分は感じた.

『ぼくを探しに』の主人公は自分のピースを見つけた後,自分にピースが足りなかった頃を思い返し,ピースと別れることを選択する.『ゲド戦記』は影と一体になったゲドの賢者としてのその後が何冊にも渡って描かれる.何かが欠けている状態から始まる2つの物語だが,それ満たされた後の振る舞いが大きく別れるわけである.

何かが欠けた状態から,それを回復するキャラクターには魅力があることがわかった.そして,それを回復したキャラクターは常人に戻ったわけではなく,その過去を経たことで魅力の増したキャラクターとして描かれていくのかもしれないと感じた.長くなったのと,煩雑になってきそうなのでここまでにしておくが,このあと自分自身をキャラクターとして捉えて,自分のスティグマについて考えてみたいとも思う.

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