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#懺悔。逃げ続けてきた人生でした

はじめまして。
21歳、実習のグループ活動で適応障害を引き起こし、半年間うつ病。
22歳の冬、やっと少し回復の傾向が見え始めたが未だに就活怖がってやらず、公務員試験の勉強にも手が伸びない。

結構最低最悪な現状にいるいろにぃです!!
人生の絶望って、こんなに簡単に訪れるんですね!!
もっと酷い絶望がある?でもそういう人に限って皆さん今はそれなりに幸せでしょ。知ってるんですよ(とても失礼な発言)

そんな私がどうしてこんな子になってしまったのか、私の懺悔を聞いてください。
学生のみんなは特に。

こんなふうになるなよ!

逃げ続けた人生でした

⑴父から逃げた人生でした

私は山の麓にある小さな市で産まれました。
父親は金融機関のちょっとした『お偉いさん』。母は専業主婦でした。私は1人目の娘で、このあと2人の弟と妹が産まれます。

私の家は、外から見れば幸せそうでした。
父の年収は1000万くらい(らしい)。
母は専業主婦として3人の子供を家で育てました。大きなマンションの団地の一室は、少し古かったけど。母は寝付きのいい私を「いい子ね」と褒めてくれました。夜は寂しいけれど早めに1人で寝付く振りをすると、ひそひそ小声で両親が「静かでいい子だ」「もう寝ちゃったのかな」と嬉しそうな声で言うのを聞いていました。

父はパチンコを打つのが好きで、私を1度パチンコ店に連れていったことがあります。
休日に母が家で寝込んでいて、私が父が外出するのに連れて行って欲しいと駄々を捏ねたからです。父親に連れてもらった場所の、いちばん古い記憶がそれでした。

父は働き、稼ぎ、帰ったら酒を飲んで直ぐに寝る人でした。
私たち子どもと遊んだり相談に付き合ったりしてくれる人ではありませんでした。

目を見て話すのは、私たちを叱る時だけ。
最低でも3時間は話を長々と正座で聞かされ、頬を打たれることもありました。私は何を聞かされているのかも分からず、終わったあとには足が酷く浮腫んでギブスをはめているような感覚で何とか布団に向かいました。

ある日は約束を破ったから、とからしのチューブ1本をまるまる口の中に入れられた事があります。鼻までつぅん、と気持ちの悪い匂いが襲って吐き気がしました。
吐くことは許されませんでした。

私は母に守ってもらおうとしました。
泣きつこうとしたこともありました。

しかし母は、それでも『稼いでくれるのだから』と父を立てていました。

私は父と関わり、分かり合おうとすることから逃げました。

⑵母から逃げた人生でした

母は優しく強いひとでした。
『無職には分からない』
『社会は厳しいんだ』
そう偉そうに言うようになった父の愚痴を聴きながら、受け入れていました。

父がマイホームを買ってからはさらに態度が悪化しました。
『家事を全てやるって約束で家を買ったんだぞ。なんでやってないんだ』
『洗濯物がそのまんまだぞ』
『部屋が汚い』
『ずっと家にいるのになんでできない?』
私たち3人を育てて、祖父母の仕事も手伝っていた母のことも知らず、そう責める父に反抗もせずに笑っていました。

でも限界が来ました。

『あの人はいつも愚痴ばかり』
『子供たちと話そうともしない』
『おじいちゃんとまともに会話しない』
『板挟みになるこっちの気持ちにもなってほしい』
『もういっそ心中してしまおうか』

そんな言葉を聞くようになりました。
私はただそれを聞いて、

耳障りのいい言葉を吐きました。

『お母さんは本当に頑張ってる』
『お父さんは酷いよ』
『私はお母さんのことわかってる』
『いつもありがとう』
『私はもっと母さんと生きたいよ』

私は母さんが好む言葉を知っていました。
お母さんに嫌われてしまっては、家にもいられなくなるんだと本能的に知っていたのだと思います。私は代わりに家事をやったり、母さんのメンタルケアに務めました。

今も両親からの褒め言葉が頭から離れません。

『お前は「第2の母さん」みたいだな』

私は母にぶつかり、わがままを言う子供であることから逃げました。

⑶妹から逃げた人生でした

私には妹が産まれました。
妹は、重度の知的障害でした。

小さい頃から夜泣きが酷く、昼でも度々パニックを起こしては床を蹴り壁を殴りました。
家から飛び出して言ってしまったり、お店で奇声を上げることも当たり前でした。
ふらふらとあちこちに視線をさまよわせ、「あー」「うー」と意味の無い言葉で話します。

私が小学高学年の頃でした。

『妹さん、頭おかしいよね』

そう言われた時の気持ちを今でも覚えています。

頭はカッと熱くなるのに、胸から腹まではすっと冷え込んで。わなわな震える指先を握り込みました。なんの感情なのか分からないまま、ただ熱くなる目尻を擦りました。

私は母に迷惑をかけないようにするかわりに、妹の世話をしませんでした。着替えのできない妹に関わることすらしたがりませんでした。近くによると叩かれたり、逃げられたりするのが嫌でした

母の前では、妹を可愛いと言いました。
こんな素直で純粋な子はいないと。

でも私は、妹に興味を持てていませんでした。深く関わりたいと思えていませんでした。ただ、『人と違う』ことだけを知ってしまいました。

私は妹が嫌いでした。

だから私は、妹が妹であることから逃げました。姉であることから、目を背けました。

⑷自分から逃げた人生でした

父親が怖くて
母親に捨てられたくなくて
妹を受け入れられなくて

私はそのために動いていました。

父親に弱みを見せないよう、説教をされないように毎日気をつけて生きていました。

毎日勉強をしました。
新しいことはしませんでした
父親と話し合うことが苦痛でした。

母親に嫌われないよう、迷惑をかけない良い子でいることを心がけました。

相談事はしませんでした。

中学で虐められた時、「あんたが悪いはず。いじめられた原因を省みなさい」と言われたから。

高校に行くのが辛くて、こっそりトイレで授業を休んだり通学途中の公園でサボったりしていましたが、それも言いませんでした。

保健室の先生に初めて『死にたい』と打ち明けた時、抱きしめられたことがありました。

でも高校と提携している精神科医は苦手なクラスメイトの父親で、『大したことは無いだろう』と言われました。

わがままも言いませんでした。

スーパーで『何が食べたい?』と言われたり『何か買いたいものある?』と言われたら、『特にないよ。大丈夫』と、家計の心配をしていました。それで褒められていました。

母は私のことを『真面目で努力家、素直』だと言っていました。

でも私が母に気にいられようと必死に頑張っていたら、どんどん『何を考えているのか分からない。本音で話してくれない』と敵視してくるようになりました。
父親の愚痴を聞いていた私に対して『あんたは父親そっくりだ』と何度も言いました。

それでも私は母親に従いました。
母親に愛されたくて尽くしていました。

いつの間にか私は、父親から身を守りたくて、母親に守って欲しくて、妹の存在を受け止めたくなくて、そのために心を殺して生きていました。

やりたいことはありませんでした。

高校の時に初めて出会った『小説』という趣味。コンクールではそれなりの結果が出ました。私の才能の一欠片でした。

でも大学に行く時。私は小説をかける分野ではなく、何も無くなった心でただなんとなく『特別支援教育』を選びました。

きょうだい児という境遇。
父親の家庭内暴力。
母親の苦労を受けて育った経験。

これを上手く小説のように組み立てて、綺麗事を並べ立てました。将来何になるかも分からなかった私は、教員養成の道を進めば困ることもないと思っていました。

やりたいことよりも、したくないことを避けるために進路を選びました。

結果として私は、今こうしてうつ病になっています。
社会に適応できず、挫折を味わいました。

何度『小説をかける学科を探せばよかった』と思ったか分からない。
私は小説が好きだった。

母親が心配そうに『あんたは本当にそれがやりたいのか』としつこく聞いてきた事がありました。母はその時何かを感じていたのかもしれない。
でも私は小説を書くために、あの父親の前でわがままを言うことはできませんでした。

全てが全てにおいて懺悔です。
私は、私であるということから逃げていた人生でした。

逃げ切った先に答えは無い

人生とは選択の連続である
シェイクスピア 「ハムレット」より

有名な一節です。

私は人生の選択を常に他人に委ねてきました。自分自身の選択を、『しない』という選択を馬鹿みたいに続けてきたのです。

カレーを作れと言われた時。
私が自分で作ったカレーを不味いといわれました。
賞味期限を見れば肉は豚肉を使うだろ、とか
野菜の量が少ないとか
じゃがいもの形が大きすぎるだとか

好きな服を選べと言われた時。
好きな黒い服を持ってきたら
あんたはダサくてセンスがないと言われ
赤い服を買いました。

疲れてしまいました。
自分の選択は間違っているんだと気付かされました。何をしても怒られる。だったら全部確認して、指示を仰いで、言う通りにした方が怒られないし気が楽だ。

逃げることは楽をすることです。

私は何も感じないようにして、何も考えずに、物事を起こさないように生きていました。

でももし。

『父親を怖がらずに明るく接していたら』
『母親に正直に打ち明けられたら』
『妹のことをほかの人に相談できたら』

そんな思いが過ります。

私は家族の問題を解決しようとしなかった。
保身ばかりで何も考えられなかった。

やっと家を出たと思った。
これから幸せになれると思った。
逃げた先で、初めて気づいた。

私は逃げることでしか頑張れなくなっていました。常に猛獣におわれて無心で走っていた人間が、やっと1人の空間に落ち着けてしまったら。動けなくなってしまって当然です。

逃げることは楽をすることでした。

立ち向かえば何かが変わったかもしれない。
何も変えようとしなかった私は、ただ逃げて、現状に甘えただけ。自分の選択の責任を、親や周りに押し付けただけだった。

私は適応障害を起こしてうつ病になり、初めてやっとそれに気づきました。

私はベストを尽くしてきたと思っていた。

でもこの結果がこれです。

指示されなきゃ何もできない。
自信もない。
ただ言い訳を繰り返し
ベッドに腐り落ちていく
息をした肉塊。

今までの私は死んでしまったのだろうか。
時々そう思います。

だから逃げるな。
迷うくらいならやってください。
たった20年の後悔を続けた私から言えるのはそれだけです。
もし逃げるかどうか迷ってるなら、逃げてください。あなたはそれを選択したのだから。

どうか選ぶことから逃げないで。

人生とは後悔の連続である

こんなことになる前に。

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