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日記230819

今日はアトリエで気になることが増えているという話題がチャットにあがり、構造的に弱い(年齢や体力、性差)人をまず護る対応をと指示を出す場面があった。気がつくと大きな逸脱になってしまうことはいつでもある。

こういう指示をだすことは自分自身でも確認し、考えを整理する機会にもなる。構造を指摘し、注意を促す言葉を、相手が受け取りつつ、理解も広げるものをと考えることは疲れる。けど、ここ1年は特にどんなロジックで考えて行動するか伝えることを意識している。

今まで「僕が至らず、すいません」みたいなことで引き受けてしまったことも多かったけど、結果、それがミドルマネジメントしている人に過度に調整や指示の負担が出てしまったり、メンバーの特性や置かれている環境への理解に及ばなかったりしたので、止めた。スタッフもどれくらい考えて行動しているか、気になると確認するようにしたりしている。僕自身の存在は現場に影響が大きい分、しかし否応なしに責任も大きい。ミドルマネジメントの責任は限定的だけど、代表の責任は限定できない。知らせる義務がある役割ではあるけど、それ以上に理解する努力をしないと結果どころかプロセス自体が噛み合わない。

障害福祉の仕事は、障害のある人の支援が仕事、ではなくて地域に暮らすために障害の特性や発達の凸凹について理解を深めて、それが「普通だという環境」を施設から地域に、社会にと友人関係のような感情の交流をベースに広げていくことにある。


10年以上前、バザールカフェで仲間と展示会企画したときに、リサーチを兼ねてボランティアしたことがあった。

「HIVや心の病、LGBTや様々なものを抱えている人というのは当たり前にいます。だからどの人がどうだということは明らかにすることはしません。むしろ、そういう人がいるかもしれないという気遣いが大事で、ボランティアとして入る人は最低限知っておくべき常識として知識を持ってください」

という事を当時のリーダースタッフの人に言われた。

昨日、スタッフ研修で発達障害の特性理解の研修を行った。ふと今日思い出したのは、バザールカフェのリーダーの言葉だった。当時、学生時代の僕は本当の意味で理解するには何年もかかった。けれど、「発達障害のよって阻害されている「活動」や「参加」が何が障害になっているか、みんなわかりづらい」という話を聴いて、そこを気遣いできるように理解や環境づくりがこの地域や社会の「普通」になるのであれば、そこを目指していきたいなと思った。

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