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日本史:飛鳥時代 ② 「元号のはじまり」

通訳案内士の試験勉強のための、まとめノートです。

7世紀、聖徳太子の時代から、蘇我氏の時代を経て、中大兄皇子の時代に移っていきました。聖徳太子の時代は、天皇を中心とした宮中組織の形が整備されました。この時代では、それがさらに進められ、天皇が全国を統治するという、全国的な組織の構築が進められました。


推古天皇の時代が終わり、第34代「舒明」天皇の治世となった。

630年 随が滅びて途絶えていた大陸への使節を再開しました。「犬上御田鍬」を大使として、第一次「遣唐使」が派遣されました。犬上御田鍬は、ヤマトタケルの末裔とされています。

こぼれ話 ①
遣唐使は、200年以上続き、留学生などが持ち帰った大陸の技術、仏教、文化は、日本の文化形成に多くの影響を与えました。「菅原道真」が唐国内の情勢が不安定であることを理由に中止するまで十数回派遣された。その後間もなく、唐が滅びたため遣唐使の歴史に幕が下りました。

聖徳太子の死後、有力な豪族「蘇我」氏が権勢を奮っていました。蘇我氏は婚姻を通して、天皇の外戚としての地位を得ていった。蘇我蝦夷は、子である入鹿を大臣とし、自らを王のように振る舞うなど専横を極めていきました。また、入鹿は、政敵である皇族(聖徳太子の子)を殺害したりしました。

このような蘇我氏の振る舞いに、不満を持っていた「中臣鎌足」は蘇我氏打倒を密かに画策していくようになった。仲間を探していた鎌足に転機が訪れました。法興寺での打毬で、「中大兄皇子」が毬を蹴った勢いで靴が脱げたのを鎌足が拾って、皇子に履かせました。これが縁となって、この2人の親交が深まっていきました。

こぼれ話 ②
履物に関する歴史的なエピソードして有名なものには、戦国時代に豊臣秀吉が温めた信長の草履、江戸時代に良寛さんが涙を流した草履の紐、日本人で初めて履いたとも言われる坂本龍馬のブーツなどがあります。「龍馬のぶーつ像」が、長崎の亀山社中記念館の前に置かれています。


645年 朝鮮の使者が「飛鳥板蓋宮」を訪れたため、天皇に謁見するする儀式に参内した「蘇我入鹿」を「中大兄皇子」と「中臣鎌足」が暗殺しました。この儀式は仕組んだものという説もあります。この歴史的な事件は「乙巳の変」と呼ばれています。

この事件の直後、皇極天皇は退位し、皇弟である「孝徳」天皇が即位し、「大化」元年と初めて元号を定めた。 さらに、都を飛鳥から摂津の「難波長柄豊碕宮」に移しました。


646年 新政権の方針を示す「改新の詔」が発布されました。これまでの、豪族が権力を奮っていた政治から、「天皇」中心の「中央集権」国家を目指すものであった。

第1条)私有地を廃止して、公のものとする「公地公民制
第2条)畿内・国・郡といった境界画定し、国司を派遣した「国郡制度
第3条)戸籍と計帳を作成し、公地を公民に貸し与える「班田収授の法
第4条)公民に税や労役を負担させる制度の改革「租・庸・調

こぼれ話 ③
このようにして中臣鎌足は、専横を振るっていた蘇我氏を排斥して、天皇中心の国家を作った。しかし、その子孫の藤原家は、政治の世界で権勢を奮い、まるで、蘇我氏のように天皇を凌ぐほどの権力を掌握していった。平安時代には、藤原「道真頼通」 親子による摂関政治の最盛期となり、「この世は自分のためにあるようなものだ」との意の歌を読むほどにまでなりました。

 「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」


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