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だれかに見せる文章と、そこに書かれないもの

SNSやブログのおかげで、だれでも文章を書いて、だれかに見せることができる。それがお金にならなくても、なにかのためにならなくても、書いている。

もちろん、たくさんの人にみてもらいたい、それでいつか収益をうみたい、フォロワーを増やしたい、みたいな欲求はあるかもしれない。「いいね」や「スキ」がたくさんもらえることで、自分の大切にしているものや考え、感情の価値が可視化されてしまう。それは良くも悪くも、なんでも数値化してしまう今の世の中らしさがあるけれど、その価値の是非についてはここでは書かない。


noteでも、毎日のようにたくさんの言葉が流れてくる。こんなにもたくさんのひとが、自分の気持ちや日々のできごとを書いていて、それを読むことができる。
文章が誰かに見せることが当たり前になった一方で、そこに「書かれないもの」がより見えにくくなっている気がする。それはきれいな言葉じゃなくて、もっと嫌で人には見せられないもの、内面のだめなところ、うまく言えない言葉、失敗してしまった表現、言い回し、そういうものの断片だ。

Instagramが、きれいな写真ばっかりが並ぶようになって、1日で消えてしまうストーリーズという機能が追加されたみたいに、1日で消えてしまうような言葉を投げ合う場所があってもいいのかもしれない。
Twitterでは鍵をかけることができるけれど、鍵のかかったブログをずっと書き続けることは、たぶん難しい。誰かに見せる、見てもらうことは、やっぱり続けるために必要なことだから。

たくさんの文章があふれていても、そこに書かれない感情やうまく言葉にできないことは、たくさんある。それは検索してもけっして出てこないし、探ることも難しい。
ただ、表に出ている言葉だけで判断してしまう危うさや、軽率さを自覚しておきたい。そこに書かれていないこと、書かれなかった言葉への想像力を持ち続けていないと、書かれていることがすべて、になってしまいかねない。

あまりにもたくさんの言葉が溢れすぎて、それに頼りすぎてしまうことの危うさを感じている。

読んでいただいて、ありがとうございます。お互いに気軽に「いいね」するように、サポートするのもいいなぁ、と思っています。