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適切な世界でなくても、適切な私でなくても
適切であろうとなかろうと、人は生きなくてはならないらしい。
詩人の文月悠光さんの文庫化された詩集のあとがきに、こう綴られていた。
私は詩のことは、そんなによく分からない。でも、詩の世界はとても面白い。そこには言葉のざらざらとした質感だけがあって、言葉だけで作られた世界が見える。年齢も、性別も、現実にある世界の適切さを測ろうとする尺度のない、上も下も、右も左もないような、ふわふわとした世界。言葉のかけらがたくさん転がっていて、それを拾い上げて積み上げる。正解を探す現実のすきまに、正解のない積み木で、ここにはないものを作っていく。
ひとつの詩集のなかで、心に残るフレーズはどれだけあるだろうか。きっと読むたびにそれは異なるし、同じ詩を読んでまったく別のことを想うこともある。だから、詩のことはよく分からないけれど、面白い。
私は30代も半ばを過ぎているのに、まだ学校の中にいる夢をみる。夢のなかで、今の私が昔の友人とくだらない話をしている。そして、いまではとても難しすぎて分からない大学受験の問題を解いている。夢のなかでは、みんな私の病気のことを知っているから、私はいつでも学校に行くことが許されていて、いつ休んでもいいし、何度でもやり直していいらしい。大学を受験するのも2回目だけど、それも許されている。
そんな夢の世界は、どこかちぐはぐで詩の世界に似ている。でたらめに作られた夢の世界に重ねて、私は詩の言葉をたどる。どうしようもなく分からなくて、意味なんかないかもしれない世界を何度も往復して、心に残るものだけを掬い取って眺めている。
彼女の残した言葉は、当時の彼女しか生み出せないものだし、いまの彼女にとっての意味も、きっと当時のものとは変わっている。一番「私」の輪郭を捉えようとしたくなるときに、それがうまく捉えられずに言葉を並べて適切ならざる「私」を作った詩集。でも、いつになっても「適切さ」は分からないし、大人になっても間違えることはいっぱいある。だから、このポケットサイズの持ち運べる詩集は、今の私にとっても特別なもののように感じられる。適切でないものを抱えて生きていくために、詩や物語が必要だから。
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