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多様性は生きづらさを軽くするから

多様性がどうして必要なんだろう、と考えたとき、結局わたしのなかの答えはこれだった。

多様性は、生きづらさを軽くしてくれる。

わたしも、なにかの場面においてはマイノリティになり、どこかの場面ではマジョリティとして生きている。「社会」なんて大きなくくりじゃなくても、人と人との関係性のなかで生きるなかで、自分に与えられた属性、立場、出自、特性や価値観、身体や心理の発達、様々な能力。それらは簡単にそのときどきでひっくり返ることもあれば、「大多数」の側にいるおかげで助けられていることもある。

誰もが当たり前に学校に行き、成人する頃には仕事に就き、しばらくして結婚し、家族をつくる。無数に広がっているはずの選択肢のなかで、限られた選択肢だけを用意して、選ばせることが生きやすいのだろうか。それが「当たり前」だったとしたら、そこから外れてしまったとき、どんな「生きづらさ」が待っているのだろう。

多様な選択肢を用意してくれているほうが、悩みは多いかもしれないし、用意する方は面倒で、大変かもしれない。だけど、初めから選択肢が用意されていない、なかったことにされている、そんな気分を味わったことがあるだろうか。みんな同じが悪いわけじゃない、みんな同じにしなきゃいけない、と思わされる仕組みや空気、慣習みたいなものが、だれかの可能性を封じていないだろうか、と疑う。いまの当たり前を疑うことから、多様性は始まるのだと思う。

そんな多様性は、面倒くさいだろうか?

浅井リョウの『正欲』という小説の一節が多様性をバッサリと否定していてわかりやすい。

多様性、という言葉が生んだものの一つに、おめでたさ、があると感じています。
自分と違う存在を認めよう。他人と違う自分でも胸を張ろう。自分らしさに対して堂々としていよう。生まれ持ったものでジャッジされるなんておかしい。
清々しいほどのおめでたさでキラキラしている言葉です。これらは結局、マイノリティの中のマジョリティにしか当てはまらない言葉であり、話者が想像しうる〝自分と違う〟にしか向けられていない言葉です。
想像を絶するほど理解しがたい、直視できないほど嫌悪感を抱き距離を置きたいと感じるものには、しっかり蓋をする。そんな人たちがよく使う言葉たちです。

朝井リョウ.正欲(pp.5-6).新潮社.Kindle版.

この小説の冒頭で、語り部は「多様性はおめでたい」と切り捨てる。

わたしたちが考える「多様性」は、マジョリティである私たちが想像できる範囲内での「自分と違う」ものでしかなく、それ以上に理解しがたい存在はこの世の中にはまだいっぱいあるにもかかわらず、結局のところ社会の制度はある程度の範囲内の多様性の枠に納めることしかできない、という諦めの言葉だ。

「多様性を考えること」それ自体が、すでにマジョリティ思考である、というのは、このお題目のなかで多くの人が指摘していることと思う。考える余裕のある人が考えた多様性。生きづらさのさなかにあるひとは、自分の存在を多様性をつくる側のひと、余裕のあるひとに認めてもらうまで、多様な社会からは排除されてしまう。

だから、多様性は難しいし、面倒くさい。どんなにユニバーサルなデザインでもありとあらゆるレアケースに100%対応することは不可能だから。

面倒くさいのはわかっている。自分自身もとても、注文の多い生きづらい人間のひとりでもあるし、でも、そのすべての注文に応えてほしいとも思っていない。誰だって間違える可能性があるし、自分も誰かの存在をおろそかにしていることもあるだろう。どんなに多様性について考えても、「多様性」に完璧はない。

それでも、社会はこれからも多様性を要求してくるし、そのたびに私たちはその求められている多様性ってなんだっけ?と考える。考え続ける。ずっとアップデートし続けるしかない。

白か黒か、はっきりしている世界はわかりやすい。なんでも数値で測れる世界もわかりやすい。けれど、世界はそんなにわかりやすく説明できないし、単純な数値で測れないものもいっぱいあって、複雑にできている。
複雑にできた世界を、色んな方向から眺めてみたり、これまでよく見えていなかった部分を見えるようにしたり、少しだけ解きほぐしてその複雑さをそのままに説明してくれる。多様性は、そのためのものだと思う。何かを解決する万能の薬でもないけれど、複雑な世界のなかで、そのままに生きていいんだと教えてくれて、誰かの生きづらさを軽くしてくれる。

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