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生きづらさの呪い

わたしはよく、生きづらさについて、ここに書いては、分からないもやもやした気持ちを吐き出している。というか、そればっかり書いているかもしれない。
でも「生きづらさ」が世の中に溢れすぎていて、「生きづらさ」はどのようにして解消できるか、どう乗り越えるか、みたいな話ばかりになってしまっている気がしている。

誰かに助けを求める、自分自身をちゃんとケアする、そういう個人でできることはたしかに必要かもしれない。けれど、一時的な対症療法にすぎないし、それではどうにも解決できない「生きづらさ」を抱えている人もいる。

「生きづらさ」は個人のものじゃない。生きづらさは人それぞれあるし、みんな「生きづらい」世の中だから、仕方ないよね。じゃ、すまされない。
「生きづらさ」を「みんなそうだからあなたも無理せず、上手く付き合って行こうね」と捉えてしまうと、「生きづらい」社会にしているものはなにか、本当に解消すべきものはなにか、を見えにくくしている。
本当は社会のがわの構造に問題があるのに、それを個人のコントロールの問題にされてしまっている。すると、この「生きづらさ」はコントロールできていない私のせいなのか、となってしまう。そうじゃない、気がしている。

たとえば、学校へ行けない、会社に行けない、そんな「生きづらさ」をまあ無理に行かなくてもいいんじゃない、人それぞれなんだから、と中途半端に肯定されてしまう。
そのときの「生きづらさ」は学校にあるものでも、会社にあるものでもなくて、そのひと個人のもの、個人の問題として捉えられる。
会社が違法なパワハラをしている、学校でいじめや差別が起きている、本当の問題はそっちにあるのかもしれないのに。それが社会の洗礼であり、さも当たり前かのように捉えられてしまう。いじめや差別、パワハラ・偏見、そういったもののほうが悪いはずなのに、なぜそれに「生きづらさ」を感じている人がセルフコントロールしなきゃいけないのか。

自分のがんばりが足りないから、自分がうまく社会の荒波を乗り越えられないから。自己責任という言葉を押し付けられ、自責の念にかられえしまう。
本当にそうなのだろうか。

「生きづらさ」はもちろん、解決できたらそれが一番いい。でも、その解決方法は「自分が頑張る」じゃなく「社会が変わる」じゃないだろうか。わたしは社会のほうを変えたいし、そのためなら頑張れる気がする。
「生きづらさ」は社会の側にある、という前提を忘れないようにしたい。安易なセルフケアの押し付けにならないようにしたい。いろいろと自戒を込めて、そう思う。


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