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働く患者とわたし

noteで自分の書いたもの、検索できたら便利なんだけどな、と思う。だからどこかで書いたことのあるものかもしれないし、繰り返し書いていることかもしれない。

前回の続きでもある。精神科医の中井久夫さんの『働く患者』を読んだ。

「病気が治る」ことのゴールは、健康に働くことなのか?という問いかけは今でも斉藤環先生とかが語っていることだ。

すべての人がなにかの役割を社会の中で持っているとするならば、病人にも役割がある。役割があるものには、権利と義務があり、病人は二つの権利と義務がある、らしい。

それは、「仕事を休んで、ゆっくりする」権利と「医師の治療を受ける」権利であり、「治ろうとする意志を持つ」義務と「治療者と協力する」義務である、という。

病気が精神的なものの場合、「治ろうとする意志」はなかなかに難しい。そして病気が治ったら「仕事を休んで、ゆっくりする」権利はなくなり、また仕事に勤しまなければならないのだろうか?

「働いていない」状態は、なぜか社会的にすごく悪いことみたいにされる風潮がある。試しに、1週間くらい毎日昼間に、ぶらぶら近所を散歩してみると実感できる。べつに誰にも見られていないはずなのに、なんか「うしろめたさ」を感じる。そのせいか治療のゴールは「無事にまたふつうに働けるようになること」になる。

リハビリは、本来「働くこと」に向けられたものではなく、人生のもつ多様性にむかって患者の個々の人生を開こうとするものである、としたうえで、中井さんはこう述べている。

「働けないこと」をめぐって、患者は慢性のおとしめを受け続けており、そうでなくても深く傷つけられた自尊心の回復をめざして、多くの患者は無理にでも働こうとする。 1982年『働く患者』p.257

そして「ほんとうに働くことってそんなによいことと思う?」と問いかける。

「働くこと」は安心感を得ることにつながる。特に、なにも後ろ盾がない弱いひとにとってはよりその側面は強くなる。
仕事に就いていることで得られる社会的な身分、生活に必要な賃金。それらは社会を生き抜くうえでの大切な「通行証」みたいなものだ。でも、その「通行証」を手にしたいがために「働く」のはなかなかにしんどいと思う。「働くわたし」を手に入れるために、働いているのはつらい。

とはいえ、「働かなくてもいいじゃないか」と無責任なことは言えない。わたしも「治療を受ける権利」を持ちながら働いている精神障がい者だ。

「働く患者」として働くには、前提がいくつも必要になる。治療という大きな仕事と掛け持ちしながら働くのは、普通に働くよりもずっとしんどい。
働くこと自体、とても不安定なものだ。ずっと頑張れる人なんていない。いいときも悪いときもあって、つらいときに折れてしまっても仕方がない。

以下は、思いつくままに、わたしが意識していることを書き出している。難しいことはしない。

・無理しない、疲れたら休む
・仕事はだめならだめで仕方ない
・生活のほうが大事
・なんとか生きる
・欲張らない
・期待しすぎない
・安全な基地をつくる
・弱さを許容する・してもらう

読んでいただいて、ありがとうございます。お互いに気軽に「いいね」するように、サポートするのもいいなぁ、と思っています。